52 成長
筋トレの極意とは何か。
少し前まで、イズミはそれは「回数」だと思っていた。例えば腹筋だったら五十回やったやつよりも百回やったやつの方が偉いし、数を多くこなせばその分だけ筋肉に効くものだと思っていた。十回や二十回で音を上げているようではまだまだで、とにかく負荷をかけるなら回数を増やすしかない……そう思っていた。
「じゅうはぁち……っ! じゅうきゅう……っ!」
そんなイズミは、たかだか二十回の腕立てで潰れかけている。必死の形相になっているのはもちろん、体全体が小刻みに震えていて今にも力尽きそうな感じだ。仮にも成人男性が、たったこれしきのことでこんなふうになっているだなんて、日ごろの運動不足が過ぎる……と、何も知らない人が見ればそう思うことだろう。
「……にじゅうっ!」
「はい、おつかれさまでした」
ミルカの穏やかな声が耳に入った瞬間、イズミはぐしゃりと崩れ落ちた。
──その背中には、水が入った大きなペットボトルが三本ほど括り付けられている。
「回数よりも負荷を増やす……この程度で錘になるとは思いませんでしたが、覿面でしたね」
「ああ。最初は意外と楽そうだって思ったんだけどな。よく考えなくても三本も括りつけているわけだから……単純計算で6kgか。そりゃキツいわけだよ」
言わずもがな、イズミがたった二十回ぽっちの腕立てで潰れそうになっていたのは、背中に錘を乗せていたからである。すでにリハビリ(?)は十分であり、普段の筋トレでは物足りなくなったイズミは、能力の向上を目的により厳しい筋トレをすることに思い至ったのである。
軽い負荷で数をこなすよりも、限界ギリギリの負荷できっちり鍛えたほうが結果的に瞬発力は上がる。インターネットでそんな記述を見たイズミは、さっそくそれを信じて今日の筋トレに組み込んだというわけだ。
「それにしてもまあ、毎日毎日欠かすことも無く……本当に精が出ますわね」
「ほかにやることも無いし、時間だけはあるからな……それに、そう遠くないうちに移動することは間違いないんだ。やれるだけのことはやっておきたい」
この場所から──ガブラの古塔の前から、ここではない森のどこかへと移動することは決定している。魔獣が跋扈する森の中を進む以上、少しでも体を鍛えておきたいというのがイズミの本音だ。実際はクマよけスプレーや奥様の魔法などをフルに活用して安全重視で進むため、直接的な身体能力を求められる場面は少ないだろうが、それでもやるとやらないとでは大きな違いがある。
本当ならば、この筋トレに並行して魔獣の駆除やペトラとの戦闘訓練もしたいところではある。しかし、その許可はまだ下りていないために、イズミはこうして筋トレだけをしているのだ。
「なんかその……最近は、ペトラさんが魔獣を始末してくれるだろ?」
「ええ、そうですね。ペトラはすでに回復していますし」
「……俺より早いんだよな、終わらせるの」
「……」
「いや、わかってる。ペトラさんは本職だ。独学の付け焼刃な俺が敵うはずが無いのは当然なんだ。さすがにそこまで驕るつもりはない」
「……で、本音は?」
「……タイマンのガチ勝負ならともかく、クマよけスプレーで無力化しているところにとどめ刺すだけだろ? つまり、技術よりも単純な腕力がモノをいうわけで」
「力に勝っているはずの自分より、ペトラの方がスマートに処理するのが悔しかった……と」
「男には、誰にだって見栄ってものがあるんだよ……」
ふう、と息をついてイズミは体勢を戻す。壁の時計の秒針が一周したら、再び二十回の腕立てに入らなくてはならない。邪魔にならないよう、網戸の前──縁側のそこでやっていたから、入り込む涼やかな風が火照った体に心地よかった。
そんな、風を楽しんでいた剥き出しの腕に違和感。
「……ペトラよりもずっと太くて、ゴツゴツしていて硬くって。単純に、慣れているかどうかの違いだと思いますけどね」
「うぉっ……」
ぴと、ぴと。ぺた、ぺた。
いつのまにやら腰を上げたミルカが、確かめるようにしてイズミの肩や腕を手のひらで触っている。完全なる不意打ちに変な声が出てしまったのは、もはやしょうがないことだろう。
「……なんですか、その声は」
「いや、びっくりしただけ」
「ふぅん……」
──この人、たまに無意識でこういうことするよなァ。
なんとなくそんな空気になってしまったので、イズミはそのままミルカにされるがままになる。彼女の温かな手のひらが自分の腕に押し付けられるのはなかなかにこそばゆく、そしてくすぐったい。その細くて白い指で突かれたときなんてもう、逆に金を払わなくてはならない案件ではないかと、そんな思いが頭によぎるほどであった。
「不思議ですよね。同じものを食べて、同じように生活しているのに……どうしてこうも、違いが出るのでしょうか。イズミさんの腕はこう……本当に男の人って感じがして、ペトラのそれにはない安心感みたいなものがあります。けっこう……いいえ、間違いなく好みです」
「誉めてもらってる……んだよな? なんか、すっごくこそばゆいんだけど……」
「あらやだ、この程度で照れてらっしゃるんですか?」
くすりと笑ってミルカはイズミから離れる。そのことを大いに惜しみながらも、イズミは再び腕立ての体勢に入った。
「いーち……! にーぃ……!」
「今日のお夕飯はどうしましょうね……」
「さーん……! しーぃ……!」
「高たんぱく、低カロリーでしたか……しかし、それらはどうにも味気ないというか、華やかでないというか。いえ、食べられるだけありがたいのはわかっているのですが、イズミさんの食卓を飾る以上、何か一工夫が欲しいところ……」
「ごーぉ……! ろーく……!」
「体つくりとそれに対応したメニュー……私もまた、お勉強の時間を増やさないとなりませんね。文字を覚えるよりも、そっちの方が先決かも」
「しぃーち……! はーち……!」
「……あら? ……まぁ!」
ぴた、と止まるミルカの声。そのことを訝しみながらも、イズミはゆっくりと腕立てを進めていく。腕をしっかり折り曲げて、胸が床に着くくらいまでに下げて。体は一枚の板であるかのように力を込めて「芯」を作り、腕を伸ばすときもなるべく時間をかけて、負荷をかけるようにゆっくりと。
ただ素早く、適当に腕をカクカクするだけでは何の意味も無いのだ。きっちり正しいフォームでやるのが何よりも肝要なのだ。そうでなければ、腕立て伏せというそれはただの発情したオットセイの物真似になってしまう。それはあまりに情けない。
「がんばれ、がんばれ!」
「……む?」
自分には終ぞ縁が無いと思っていた、十七歳の乙女からの声援。運動部の、それもかなりの強豪でもなければこんな声援貰えないだろう。中学時代は気恥ずかしさから男子に声援を送る女子なんていなかったし、高校時代はそもそも体育は男女別だった。なにより、イズミの体育の成績はそこそこで、別段モテていたというわけでもない。
とはいえ。
「ほら、もう少し! がんばれ、がんばれ!」
イズミだって男だ。声援を貰って悪い気はしない。それも相手は実質女子高生で、またとない別嬪さんである。これでやる気が出ない男なんて男じゃないし、実際すでに限界に近かったイズミの両腕に不思議な力が湧いてきている。
「はは、ミルカさんに応援してもらったんだから、俺も頑張らないとな……!」
「あ、イズミさんじゃないです」
「……ぐふっ」
何の悪気も悪意もないその一言が、イズミの心を深く傷つけた。どこか不思議なところから湧いてきていた力はあっという間に霧散し、それどころか今まで以上の倦怠感と疲労、そして重圧感がイズミの体全体にのしかかってくる。
──いや、気のせいではない。本当に、イズミの体への錘が増えていた。
「……んま!」
「……そりゃ、重いわけだ」
腰から尻のあたりにかけて感じる、温かくて柔らかなそれ。ご機嫌なその声を聴けば、イズミの瞼の裏にはテオのいつものにこーっと笑う極上の顔が幻視できた。
「よかったですねえ、テオ。大好きなイズミさんの背中ですよう」
「うー! だーう!」
「あっ、ちょ……暴れるな、テオ」
「良い感じに動くのが、たまらなく楽しいんでしょうね」
自分の背中で、テオがペットボトルをかき分けるようにしてもぞもぞ動いているのがイズミにはわかった。そのたびに、腕に瞬間的に尋常じゃない負荷がかかるものだから、無視しようにもすることが出来ない。
やがてテオはいい感じのポジションを見つけたのか、その小さくてぷにぷにの腕をしがみつくようにしてイズミの首に回してきた。
「うー! うー!」
「ぐ……ッ! が……ッ!」
「あら? イズミさん、腕が止まっていますよ?」
「うー……だーう……」
「あらまあ、テオも寂しそうな顔をしちゃって……。イズミさん、テオのためにも腕立てを再開してくださいまし!」
「わ、わかってて言ってるな……!」
「なんのことやら。負荷も増えてちょうどいいではありませんか」
イズミが先ほどまでつけていた錘は合計6kgほど。テオの体重を正確に測ったことはないが、いつも抱っこしている感じからしておおよそ10kgといったところだろう。この年の赤ちゃんとしては標準的で、すくすく育っていることにイズミは喜びを隠せない。
が、そんなすくすく育っている赤ちゃんが腕立て中にいきなり背中にしがみついてきたというのは、ちょっと予想外の話であった。ボディビルダーでも何でもないイズミにとって、その追加の負荷はあまりにも大きすぎたのだ。
「と、いうか……! なん、で、テオがここに……!? おくさ、ま、と、お昼寝してた、だろ……!」
「起きちゃったみたいですね。で、ハイハイしているうちにイズミさんの背中に辿り着いたと」
「ハイハイ!? ウソだろ!?」
「いえ、紛れもなくハイハイしてたんですよ……!」
喜びを堪えられないとばかりに、ミルカが嬉しそうに声を漏らす。
それもそうだろう。だってテオは、今日の今朝方までずっとずり這いをしていたのだから。一昨日も、昨日もそうだ。赤ん坊らしくよちよちしている姿は見られたが、それは決してハイハイではない。
つまるところ、ミルカが見た──イズミが見られなかったそれは、テオの初めてのハイハイだったというわけだ。
「くそ……ッ! み、みたかった……ッ! というか、今すぐにでも見たい……ッ!」
「うー! まーう!」
「ダメですよ、イズミさん。テオが腕立てしてほしいって言ってるじゃないですか。それに……ハイハイなら、これからいくらでも見られるでしょう?」
「ぐ……ッ」
「大丈夫。ほら、こうして私がここに控えていますから。万が一があっても、すぐにテオをだっこできますとも。イズミさんはどうぞ、限界まで腕立てしてくださいまし。その方がきっと、テオも喜びます」
「ちくしょう……! そんなこと言われたら、やるしかねェじゃねェか……!」
自分の背中で、テオがそれを楽しみにしている。それだけでもう、イズミの中に「逃げる」という選択肢は無くなった。ただしそれは、先ほどまでの三倍近い負荷の中、無様に崩れ落ちることもできなくなるという制約が付いてくるものでもある。
「じゅうごーぉ……ッ! じゅう、ろぉく……ッ!」
「うー! だー!」
「ふふふ。楽しいねえ、テオ」
「じゅ、う、しぃち……ッ! じゅ、う、は……!」
「……すっごくプルプルしてますけど、止まってますよ? ほら、頑張ってくださいな」
「ぐ、んぎぎ、ぎ……ッ!」
「……まさか、ホントに応援が必要だったりします?」
応援よりもむしろ、テオがハイハイをしているところを見たい。イズミの心の中にある願いはその一つだ。そのためだけに、イズミは限界を超えて悲鳴を上げる腕に鞭を打ち、この腕立てのノルマを達成しようとしている。
「し、て、くれるってんなら……ッ! ぜひ、とも、してほしい、もんだな…………!」
「あらまぁ、ほしがりさんですこと」
にこっと笑ったミルカは、やや頬を赤らめながらイズミの頭の方に膝をついて。
──がんばって。
耳元で、そっと囁いた。
「……自分でやっていてなんですが、思った以上に恥ずかしいですねコレ」
「ミルカさん……あんた、もう少し自分のことを客観的に見たほうがいい……」
「お褒めにあずかり光栄ですわ。……あと、こんなことするのはイズミさんだけですから、ご心配なく」
「は、は……」
そうして、なんとかかんとかイズミは目標である二十回の腕立てを行うことが出来た。すでに限界であった最後の二回が行えたのは、果たして男の意地か、それともそれ以外の理由による物か。本当の理由はイズミだけが知っている。
重要なのは、テオを失望させることなく……途中で崩れ落ちることなく、それをやり通したという事実だ。
「う! う!」
そして肝心のテオは、潰れたイズミの上でケラケラと楽しそうに笑っている。足をぱたぱたと動かし、腕でぺちぺちとイズミの後頭部を叩いていた。おそらくはもっとやってくれとせがんでいるのだろうが、さすがに見かねたミルカがひょいとその身体を抱き上げる。
「ほら、テオ。イズミさんがあなたを乗せてがんばったんですから、ねぎらいの言葉を言いましょうね」
「きゃーっ!」
「楽しそうだなあ、オイ」
ミルカの胸にひしっと抱き着き、テオはそれはそれは嬉しそうに笑っていた。もしかしたら触発されてハイハイを見せてくれるのでは……というイズミの思いとは裏腹に、テオはそこから離れようとしない。何が楽しいのか、からかうようにイズミの方をチラチラとみては、にこーっと極上の笑みを浮かべてきゃっきゃとはしゃいでいた。
そんな嬉しそうな姿を見ていると、別に今すぐハイハイを見られなくてもいいか……なんてイズミは思ってしまう。あちらの世界──日本にいたころには、とても味わうことのできない体験であった。
「しかしまあ……この前ずり這いができるようになったばかりなのに、こんなにも早くハイハイなんてできるものなのか? まさかこいつが隠れてこっそり筋トレしていたわけでもあるまいに」
「んー……あくまで、推測ですけど」
「ふむ?」
「今までずっと、誰かしらが抱っこしていることが多かったから……その、本気を出していなかっただけ、とか?」
だいたいテオは奥様かミルカに抱っこされている。ミルカが家事をしているときは、イズミが抱っこしていることが多い。奥様やミルカが風呂に入っている時もやっぱりイズミで、逆にイズミが筋トレやお昼寝をしているときは奥様かミルカだ。
つまるところ、テオはいつだって誰かに抱っこされている。ついこの前までずり這いもできなかった赤ん坊なのだから、当然と言えば当然であるのだが、それにしたっていささか過保護すぎるきらいが無いわけではなかった。
「む……言われてみれば、あえてこいつを運動させることってなかったような。もしかして、既に体は十分出来上がってたのかな」
「かもしれませんね。これからは、意識的にそういう時間を増やしてみるのもいいかも」
「うー! きゃーっ!」
「……その前に、こいつの抱っこ癖と甘えたを治すほうが先かもなァ」
伸ばされた柔らかい腕を、イズミは慣れた手つきで受け取った。そのままわき腹にしっかりと手を差し込み、腕で背中から尻のあたりを支えるように抱えれば立派な抱っこの完成である。
「あら、構いたがりの甘えん坊はイズミさんの方ではありませんか?」
「いいんだよ、俺は。大人だから」
「ふふふ。いつから「大人」は大きな子供って意味になったんでしょうね?」
くすくすと笑ってミルカがイズミの額や首元の汗をタオルで拭う。何が楽しいのか、やっぱりテオはケラケラと笑って、少しばかりヒゲがじょりじょりするイズミの顎をぺちぺちと叩いていた。
「あ……テオ! それに、イズミ様!」
「お。奥様、起きたのか」
少々騒がしくし過ぎたのだろうか。隣の部屋から奥様がやってきた。どうやらまだ目が覚めたばかりのようで、少々髪が乱れている。
イズミだったらだらしない寝ぐせとなってしまうそれも、奥様の場合は絵になるというのだから侮れない。着ているものがイズミのお古のジャージであってもそうだというのだから、麗しの水の巫女と言うのは恐ろしい。
「起きたら、テオがいなくて……! やだ、この子ったらこんなところまで……」
「奥様、奥様。なんと……テオってば、ハイハイしてたんですよ!」
「ええ!? そ、そうなの!? な、なんで起こしてくれなかったの!?」
「ほんのついさっきのことなのですよ。私だって見られたのは一瞬でしたから」
「俺に至っては全く見られてないからな」
だから、悔しがって嫉妬の目を向けるにしてもミルカだけにしてほしい。そんな思いが通じたのか、奥様は残念そうにしつつもイズミの腕の中ではしゃいでいるテオのことを愛おしそうに撫でていた。
「ありがとう、イズミ様。……さっきまで、鍛錬していたのでしょう? 汗もかいているし、息も上がっているし……テオを抱っこするのも辛いのではありませんか?」
たしかに、辛いか辛くないかで言われれば結構辛い方だろう。限界ギリギリまで筋トレをやった直後に、元気に動く10kgの赤ん坊を抱えるというのはなかなかの重労働だ。今この瞬間もイズミの腕の筋繊維がブチブチ切れている感覚がするし、筋トレ以上に筋肉の鍛錬になっている感覚は否めない。
「ふふ……テオったら、最近また大きくなったのかなあ。前よりもちょっと重くなった気がするんです」
が、しかし。
それ以上に、その温かな重さは嬉しいものであった。
「なに、子供が重いってのは喜ばしいことじゃんか。すくすく育っている証拠だろ。むしろ重いほうが嬉しいというか、これこそが幸せの重みと言うか……」
「きゃーっ!」
テオを大きく抱き上げ、イズミはくるりとひねりを加える。普通の「高い高い」だけではなく、文字通りのさらに一捻りを加えた必殺技だ。テオはどんなにぐずっていても、これをやればたちどころにご機嫌になってころころと可愛らしく笑うのである。
ついでに、イズミの筋トレにもなる。攻守備えた(?)最強の技であった。
「ふふ……イズミ様の方が、高いしずっとやってあげられるもんね。私だとすぐに疲れちゃうし……ちょっと、妬いちゃうかも」
「いやいや、それを言ったら俺だって……こいつ、奥様やミルカさんに抱っこされたときは一段とにこーって笑うんだぜ? もう、何度胸に詰め物をしようと思ったことか……」
「イズミさん? 奥様相手にその手の冗談は……!」
「まぁ、ミルカったら。これくらいいいじゃない。私だっていつまでもウブな子供じゃないもの」
残念ながら、単純な抱っこで言えばイズミはミルカや奥様には敵わない。それは身体的な柔らかさという物理的な理由か、あるいは女性だけが持つ母性に起因する精神的な理由か。はたまた、単純に年季の差かも知れないが、ともかくそれは絶対の事実だ。
だからこそ、その二人には出せない持久力と高さという点でイズミは負けるわけにはいかなった。
「さ、イズミさん。そろそろ本当に腕がお疲れでしょう? 奥様に代わってあげてくださいな」
「そうですよ。イズミ様ばっかりテオを抱っこして……私、拗ねちゃいますよ?」
「おお、そりゃ怖いや」
軽口を叩き、にっこりと朗らかに笑って。少なくない名残惜しさを感じながら、イズミはテオを奥様に受け渡そう……として。
がしっと、テオがイズミとミルカの袖を掴んだ。
「あら?」
「どうした、テオ?」
「……みー!」
一瞬、確かに時が止まった。イズミもミルカも奥様も、何が起こったのかわからなかった。わかっているのは、テオがいつも通りににこーっと笑いながら、その一言を呟いたということだけである。
「みぃ! みー!」
「あ、ああ、ああ……!?」
「え……え、う、嘘だよね、テオ……!?」
「い、いいえ……! 奥様、決して嘘なものですか……!」
いつものそれとは明らかに違うもの。思わず漏れ出た声ではなく、赤ん坊特有の、拙いながらもはっきりとした意志と目的が込められたそれ。
ほかの人なら赤ん坊がぱくぱく口を動かしただけにしか思わないだろうそれであっても、ずっとテオの面倒を見てきたイズミ達には、それがはっきりと……テオ自身の意志により紡がれたものだと理解することが出来た。
そう、テオは。
「俺の名前を呼んでくれたのか……!」
「私の名前を呼んだくれたのね……!」
初めて、喋ったのである。
「うん?」
「はい?」
問題なのは、それが誰であるかというところであった。
「ミルカさん、何言ってんだ。テオは今、「みー」って言ったんだぜ? どう考えたってイズミの「みー」だろうよ?」
「いやいや、イズミさんこそ何を仰っているのやら……普通に考えてミルカの「みー」でしょう? いくらなんでもそれは無理がありすぎませんか」
イズミとミルカの間で迸る火花。互いに一歩も譲る気が無いのは誰が見ても明らかだ。なんだかんだで今まで喧嘩らしい喧嘩をしたことのない二人が、初めて明確な敵意を持った視線をぶつけ合った瞬間であった。
「み! みー!」
その原因となった当の本人は、自分が原因であることなんてまるでわかっていないらしい。元気にずっと「誰か」の名前を口にしてコロコロと笑ってる。
そして、そんなテオを抱っこしている奥様は、今まで見たことのないくらいに悲しい表情をしていた。
「う、うふふ……。そっかぁ、テオの初めての言葉は「ルフィア」でも「ママ」でもなかったかぁ……」
愛する我が子の初めての言葉。それが自分の名前であればと願う親は決して少なくないだろう。まだまだはっきりと発音できるわけじゃないが、それでも【はじめて】というその言葉の響きと感動はあまりにも大きい。
無論、必ずしもそう都合よく自分の名前を呼んでもらえるわけがない。もっと身近な何かや、ありきたりでつまらないものが初めての言葉であるケースの方がはるかに多いだろう。
奥様自身、それはわかっていた。なんだかんだで期待しつつも、そういうところに落ち着くだろうと冷静に考えていた部分はある。
とはいえ、そんな【はじめての言葉】が自分ではない別の人間ともなると、ショックはそれなりに大きかったのだ。
「みぃ! み!」
「ホラ見ろ! 絶対俺を見て言ってるじゃんか!」
「いいえ! どう見ても私の方に向かって語り掛けているではありませんか!」
「うふふ……! うふふ……!」
ぎゃあぎゃあと子供っぽく言い争う二人。どこか遠くの方を見つめて呆然と笑う奥様。周りのことなんてつゆ知らず、今日も元気にきゃっきゃとはしゃぐ赤ん坊。
「戻ったぞ──騒がしいが、何かあったのか?」
「あっ! ペトラさん、ちょうどいいところに! ほら、どう考えてもコレ俺のことを指してるよな!?」
「いいえ、私のことですよね!? 嘘偽りのない忌憚なき意見を言ってくださいよ!」
「きゃーっ!」
「うふ、うふふ……!」
「い、いったい何がどうなっているんだ……?」
▲▽▲▽▲▽▲▽
結局、夕餉の後になってもこの不毛な論争は続いた。勝負の決着は終ぞつくことはなく、その真実はテオの中だけに眠っている。




