51 ずりばい
「じゅうはぁち……じゅうきゅう……っ!」
「うー! うー!」
「に、にじゅう……っ!」
「いえ、あと一回ですわ。途中で一つ飛ばしていましたもの」
「……ぐふっ」
ある昼下がり。リビングの広いところで腕立て伏せに勤しんでいたイズミは、ミルカの無慈悲なる宣告によりぐしゃりと崩れ落ちた。すでに腕は棒のようになっており、これ以上はもうどう頑張っても動きそうにない。せめてあともう少し早く言ってくれれば、まだ気力も保てたのに……と、そう思わずにはいられなかった。
「しかし、腕立て伏せを合計百回ですか……。わざわざ五回に分ける意味ってあるんですか?」
「連続でやるよりかは、何度かに分けていろんなトレーニングのサイクルを回した方がいい……らしい。ネットに書いてあったんだ、まぁ間違いないだろ」
「ふぅん……」
そうこう話している間には休憩時間である三十秒が過ぎ去る。動きそうになかったはずの体にいくらばかりかの力が戻り、そしてイズミは腹筋を鍛えるべく仰向けになって……レッグレイズの体勢に入った。
ちょうど今回が四セット目である。正直今でさえ限界ギリギリで何とか体を動かしているというのに、果たして本当に五回目まで行けるのかイズミには不安でならない。
──ガブラの古塔での死闘以降、初めて魔物が襲ってきたあの日。ペトラの予想通り、あの日からあの周辺にちょくちょく魔物が現れるようになった。最初のうちこそはぐれの類が多く、魔物と言えども比較的小型で弱いものも多かったものの、だんだんと、しかし確実にそれなりに大型で強力なものも増えてきたこともあって、イズミ達は今、この場所からの移動……いわば、引っ越しを本格的に検討している段階にある。
元より、あの古塔に未練があるわけじゃない。高いところから森を見渡すことのできる建造物としては使えるかもしれないが、それ以上に嫌な思い出がありすぎる。塔の前の広場もこの森の中では唯一といっていいくらいに樹木が生えていない広場となっているが、その地は動く死体他いろんなものの血を吸い過ぎている。永住の地としてあまりよろしくないのは誰の目にも明らかだろう。
ミルカもまた、場所そのものにこだわりがなかったこともあり、引っ越しの話はあっという間に四人の中での決定事項となった。
問題なのは、その事前準備の方である。
「やっぱ少しでも、体を鍛えておかないと……な!」
「ちょくちょく魔物と戦ってくださるではありませんか」
「うーん……実戦形式と言えば聞こえはいいが、動けない相手に鉈を振るっているだけだからな。どうにも基礎スペックが伸びない」
森の移動には危険が伴う。今回は魔法を使える奥様に、その護衛であるペトラもいるとはいえ、ひとたび魔物と相見えれば戦闘は避けられない。ケガのためにここ数日すっかり療養生活を送っていたイズミは、早急に元の水準以上の力を手に入れる必要があるのだ。
「何気にやることは多い……ぞ、と。まずは基礎トレで下地を作ってから、その後ペトラさんに剣術を習って……並行して、移動計画と家の移動の練習や検証をしないと」
「そうですね……そちらの方は、ぜひ私にも協力させてくださいな」
「おう、頼りにしてるぜ……っと」
何気に、移動計画の方はすでにそれなりに決まっていたりする。家を呼び出す要となるイズミは当然のこととして、強力な魔法を使える奥様、そして剣技が冴え、イズミと違って奥様の治癒の魔法の恩恵を存分に受けられる……万が一の時の壁になれるペトラ。正直その役割はどうなんだとイズミは反対したのだが、『そもそもそういう役目だし、それが一番全体に貢献できる』と言われてしまえば反論のしようが無い。せめてそんな事態にならないようにすべく、こうして必死に実力を磨き続ける……というのが、イズミにできる精いっぱいであった。
一方で、戦闘や探索に関すること以外はすべてミルカの仕事である。日々の生活における家事はもちろん、探索用の備品の作製なんかもミルカの仕事の範疇だ。もちろんその中には、この家の中である意味一番ヒエラルキーの高いテオの面倒を見ることも含まれている。
「う! うー!」
「……あら?」
そんなテオが、イズミに向かって手をぱたぱたと動かしている。イズミが腹筋を鍛えるべく足を上げ下げする度に、それにつられるようにして手足を激しく動かして……まるでミルカの腕から飛び出したいと言わんばかりに身を乗り出していた。
「なんだ、テオ……お前も体を鍛えたいのか?」
「だう!」
「元気があってよろしい」
二十回のレッグレイズが終了する。イズミはへとへとになっているとはとても思えない勢いで腹筋を収縮させ、むくりと起き上がった。にこーっと笑いながら手を伸ばしてくるテオを慣れた手つきで抱き上げ、そのままぽんぽんと良い感じに抱っこのポジションを整える。
「そういやこいつ、そろそろハイハイが出来てもおかしくない頃合い……だよな?」
「ええ、そうですね……すでにお座りと寝返りはできていますし。……あ、ハイハイの前にずり這いが先でしょうかね」
「ずり這い?」
「あら、ご存じありませんか?」
ずり這いとは、簡単にいえばハイハイに至る一歩手前の、文字通り腹ばいになって這いずるようにしながら進む動きのことだ。まだ四つん這いで自分の体重を支えられるほどではない赤ん坊が、しかしそれでもじっとしているには堪らない気持ちを爆発させ、手足を使って気合と根性で進む技である。
もっとわかりやすく言うならば、匍匐前進の動きである。動きを見れば誰でもすぐに「それ」のことだとわかるのだが、しかし言葉や単語で説明しにくいのがずり這いのもう一つの特徴であった。
「ああ……要は、よちよちしている赤ちゃんのアレか」
「ええ、アレですわ。……テオもやる気になっているみたいだし、いい機会ですね」
せっかくイズミがテオを抱っこしていたというのに、ミルカは無慈悲にもイズミの腕からテオを抱き上げてしまう。そのままにっこり笑い、「早く続きをしましょうね」と無言のまま語ってみせた。
「さっ、テオ。あなたもイズミさんに合わせて練習しましょうね」
「だーう! だーう!」
「あらまぁ、すごいやる気」
いつもと同じように、テオは床へと寝転がる。そのままふんぬ、と気合を入れて寝返りを打ちうつぶせの状態に入った。いつもならこのままスヤスヤとおねむの時間になるところだが、しかし今日は迸る熱情と気合を隠せないでいる。
「いーち……にーい……」
「うー! だう!」
イズミがゆっくり、ゆっくりと腕立て伏せをする。
テオは、そりゃもう無茶苦茶誇らしげに手足をぱたぱたと動かした。
「さーん……よーん……」
「うー! まーう!」
にこーっと笑ったまま、テオはひたすら手足をぱたぱたと動かす。ぽよんぽよんの柔らかい体が震えて、木馬に揺られているかのように体が揺れていた。
もちろん、たったそれだけではずり這いが出来ているとは言えない。ただ単に、うつぶせになってぺたぺたと床を叩いているだけに過ぎない。ずり這いをしたと言うのであれば、ほんの少しでもその先へと進まないといけないだろう。
が、しかし。
「うー! う!」
にこーっと笑ったまま、くりくりで真ん丸の大きなおめめで。
テオは、とても誇らしげにイズミとミルカを見上げていた。
「あらま~! よくできまちたね~!」
「あーもう、可愛い奴め……! こりゃあ、将来大物になるぞぉ……!」
イズミもミルカも、テオのこれはずり這いだということにした。これだけ可愛くて誇らしげな顔を見れば、誰だってそうしてしまうだろうと本気で思ってさえいる。というかむしろ、テオのこれこそが本家本元元祖ずり這いであり、それ以外の全てが我流や亜流、あるいは偽物である。そうに違いないと、認識が書き換わりつつあった。
「おい……さっきから見てれば、いったい何を……」
ずり這いを練習させるという目的も、体を鍛えるという目的も忘れてテオを抱っこしていた二人を止めたのは、ちょうど自主練が終わり汗を流し終えたペトラであった。
「なにって……ペトラ、あなたは見ていなかったの? テオが初めてずり這いをしたんですよ!」
「見てたから言ってるんだよ……あれじゃ、うつ伏せでもがいていただけじゃないか」
「まぁっ! いったいなんてことを! ……テオ、言われっぱなしで引き下がるなんてあってはならないことです。今こそあなたのそのずり這いを見せつけておやりなさい!」
「うー!」
ミルカの呼びかけにより、テオが再び誇らしげに手足をパタパタと動かす。とてもとても楽しそうで、見る者の心を癒してしまう可愛らしい動き。これを見ればどんな荒くれものであろうとも、心がほっこりしてしまうのではないか……そこについては、ペトラもまた同意するところである。
が、しかし。
「いや……坊ちゃん、よくよく周りを見てくださいな。全然動いていないでしょう?」
「……う?」
「前に進めねばずり這いとは言えませんよ」
ミルカやイズミと違い、ペトラはまだ常識があり、そして正気を保てている。だから、テオ自身の健やかなる成長を願い、あえて無情にも現実を突き付けてみせた。
「……んま?」
「えっ、それホント?」とでも言わんばかりに目をぱちくりとさせるテオ。ペトラは唯々重々しく頷いた。
「う……」
「う?」
「うわあああああん!」
「!?」
泣いた。テオは盛大に泣いた。先ほどまでのご機嫌な顔はどこへやら、例えるなら火山の大噴火、例えるなら大嵐による大洪水かの如く盛大に泣いた。
あまりにもわんわんと泣くものだから、イズミはテオのその大きなおめめが一緒に流れてしまうのではと思ったほどだし、ペトラは自分が何かとても残酷で取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと思ったほどだった。
「ど、どうしよう……!?」
「お、俺にそんなの言われても……!?」
そして、それは突然に訪れた。
「うわああああ……んま?」
はっ、となんかに気づいたようにテオが泣きやむ。赤ん坊がピタッと泣き止む……という表現はよく聞くが、まさにその通りに、一切の前兆も前触れもなく、スイッチが切り替わったかのようにテオは泣き止んだ。
泣き止んだばかりか、おろおろしているイズミとペトラを見て、にこーっと太陽のように笑ってさえみせた。
「な、なんだ……? いったいどうして……!?」
「ああ、これは……『なんとなく泣いてはみたけれど、よく考えてみたら不機嫌でも何でもないな』って後から気づいたパターンですね」
「え……そんなのあるの?」
「ありますよ、赤ん坊ですもの。基本的に笑うか泣くかで、その境もあいまいです。条件反射的に自分でもわけもわからず泣いているものですから、逆にすぐに泣き止んだりもしょっちゅうです」
ミルカの言葉を裏付けるかのように、テオは再び手足をパタパタと動かして上機嫌に笑っている。
きっとさっきは、ペトラから何か深刻なことを言われたような気がして、瞬間的に悲しい気持ちになってしまっただけなのだろう。そうしてとりあえず泣いたはいいものの、よく考えたら今の自分は十分にご機嫌である……ということを思い出したというわけだ。
「よ、よかった……一瞬、私が泣かせてしまったのかと」
「テオが言葉を理解してたら危なかったかもなぁ。今まで自信満々にやっていたそれを、否定なんてするから」
「い、いや、確かにそうではあるんだが……しかし、このままじゃいつまで経っても練習にならないだろ?」
「む……」
ペトラの指摘は尤もである。今のテオはうつ伏せ状態で手足を動かすだけで満足しており、そこから前に進むという発想そのものに辿り着いていない様子である。そしてイズミもミルカもあまりの愛くるしいその動きに魅了されてしまい、ついつい甘やかしてほめそやしてしまう。きっとこれでもいつかはずり這いに到達できるだろうが、実際として何の練習にもなっていないのは間違いない。
「いいじゃない、こんなに可愛いんだもの……ねー?」
「うー!」
「ミルカ……お前……」
幸せそうにテオを抱き上げたミルカが、ふにゃふにゃと顔をほころばしながらテオに問いかける。もちろん、テオは赤ん坊らしい底抜けの笑顔をもってそれに応えていた。
「……良いこと思いついたんだが」
「なんだ、イズミ殿」
「手本を見せるってのはどうだろう?」
「……なるほど。じゃあミルカ、さっそく頼む」
「ええ!?」
「お前もたまには運動しないと……自分で気づいてないだろうが、結構丸くなってるぞ」
「え゛っ」
「ほら、特にこの辺とか……うぉっ、めっちゃ柔らかい……!」
「触るなあっ!」
とはいえ、色々と心当たりもあったのだろう。さっとペトラから一歩身を引いたミルカは、その勢いのままイズミの傍ら……まだまだ十分にスペースがあるそこへと腰を下ろした。抱き上げていたテオを床に寝転がせ、自身もまた、恥ずかしそうにうつ伏せの体勢をとる。
「もぉ……」
「なんだ、やる気じゃないか」
「変におなかを突かれるよりかは断然マシですからね……さて」
「うー?」
同じくうつ伏せになったテオに、ミルカは優しく語り掛けた。
「いいですか、テオ。こう、上手く腕を使ってですね……」
うつ伏せ、腹ばい。そんな状態でミルカはかき分けるように、腕全体で床を捉える。あくまでおなかは床につけたまま、腕の力をもって体を引っ張ることで少しだけ前へと進んでみせた。
注目すべきは、腕だけでなく足も一緒に動かしているところだろう。ハイハイと同じように、右腕を出したなら左足を引き付けて……と、そう繰り返していくことで下半身の移動をスムーズに行うのである。
「だーう! まーう!」
「……」
「……」
嬉しそうにはしゃぐテオ。無言になるイズミとペトラ。
二人とも、思うところは一緒であった。
「なんか……アレだな。俺が言うのもなんだが」
「おう。なんかこう……」
今日日、十七歳の少女がずり這いする姿なんてどこにいっても見られるものじゃないだろう。優しげに、真剣に取り組んでいるものだから見た目とやっていることの奇妙なギャップの妙がある。
しかもその少女は、類稀なる……具体的には、初見のイズミが子持ちの母親と間違うほどの見事な体つきをしているときた。
何が言いたいかって、つまり。
「……結構なものを拝ませてもらったというか。変な扉を開きそうになったというか」
「ちょっとぉ!?」
ミルカのそれでは、厳密な意味ではテオの手本にはならないだろう。イズミやペトラでは決して真似できないボリュームがふよんと潰れていて、なんともまぁやりにくそうである。
「いや……邪魔で進みにくそうなのは間違いないが、逆に安定している気もする。まったく、嫌味たらしいことこの上ない」
「ミルカさんが赤ちゃんの真似をしているなんてな……! めっちゃ可愛い、動画撮っておかないと!」
「前を見るために上体を上げる必要がある……常人なら常に背筋に負担がかかるが、ミルカならそれを気にすることなくその体勢を維持し続けられる。見本としては理想的すぎるな」
「もぉぉーっ!!」
「あっ! 動いちゃダメだって! テオの手本にならないだろ!」
「イズミさんっ! なんで当たり前のようにカメラを構えているんですかぁ!?」
「いや、俺は純粋にテオの成長の様子を撮っておきたくてだな……」
「そうそう。たまたまミルカも一緒に映ってしまっているだけだ」
「ぐっ……! 小賢しい真似を……ッ!」
もちろん、イズミの言い分なんて方便である。しかしながら、ほんのわずかでもそこに真実がある限り、ミルカはイズミの言い分を飲まざるを得ない。この一瞬しかないテオの様子を記録し、あまつさえ後から何度でも振り返って見られるというのは得難きことであり、それを自身の行動のせいで邪魔するなんてあってはならないことである。
「ほら、ミルカさん! ちゃんとテオの手本にならないと!」
「そうだそうだ。坊ちゃんだって今すごくやる気なんだ。この機を逃したら乳母の名が泣くぞ」
「おのれぇ……! よくもまぁいけしゃあしゃあと……!」
「いやいや、ホントに撮ってるぜ? ホレ見ろ、テオ、も、ちゃんと……!?」
「な、ん……!?」
わざとらしくテオの方へとカメラを向けたイズミが固まった。同じようにそちらへ視線を向けたペトラが、信じられないものを見たとばかりに目を見開いている。さっきまでのおふざけの雰囲気はどこへやら、いたって真剣な表情であった。
「……どうしました?」
さすがのミルカも、何かがおかしいと気づく。
「あ、あああ、あれ……!」
「あれ?」
イズミが震える手でそこを指さす。
ゆっくりと釣られるようにしてミルカがその先を追ってみれば。
「うー……! だう……っ!」
「あ、あああ……!?」
テオが、さっきよりもちょっと進んだところにいる。小さな手足を精いっぱいに動かして、しっかりと体を前に進めている。
その動きはあまりにもゆっくりで、お世辞にも流麗とは言えない。体のバランスが悪いのか、真っすぐではなく右方向にだいぶ傾いてしまっているし、下手をすればころりと転がってしまいそうでもある。
しかし、たしかに進んでいる。今の自分が持てる力を総動員し、一生懸命に……全身の力を込めて、テオはそれに勤しんでいる。
その動きは、紛れもなくずり這いのそれであった。
「テオ坊ちゃん……! よくぞ、よくぞ成し遂げましたね……!」
「い、イズミさんっ! もちろんちゃんと、撮ってたんでしょうね!?」
「いや、その……な?」
「な……なにやってたんですかぁ!? あ、あなたって人は!」
「ちくしょう! 俺だってめっちゃ悔しいんだよ!」
「うー……っ! うんんー……っ!」
今もまた、テオは必死になってずり這いをしている。真剣な表情で床を這う姿は非常に愛くるしく、見ているだけで心が洗われていくのは間違いない。
だが、それはそれとして初めて成功させたその瞬間というのは大事だ。十七の娘の滅多に見られない光景よりも、はるかに重要なことである。もし、ミルカがだいぶアブナイ水着姿でそれをやっていたとしても、イズミは何の迷いもなくテオの方を撮っていたことだろう。
そんな大事な光景を、おふざけしていたせいで撮り逃した。せいぜいが、足の先の方しか映っていない。
「くそ……っ! だが、せめて!」
「あっ!?」
イズミはさっとテオの方へと先回りする。そして、大きく腕を開いた。
「よーしよしよし……! テオ、お前は良い子だ……! さぁ、頑張ってこっちにこい……!」
「ずるいですよ、イズミさんッ!」
ミルカもまた、獣の如き素早さで跳び起き、イズミの隣で腕を開いた。
「テオは良い子でちゅよね~? いーっぱい抱きしめてあげるから、こっちにくるんでちゅよ~?」
ぽふん、とわざとらしくミルカは胸を叩く。そりゃもうびっくりするほどの貫禄があった。
「あっ……! ずるいだろそれは……! 自分の体を使うのは反則だろ……!」
「ふん。女が女の武器を使って何が悪いんです? ……あっ、もしかしてイズミさんもやってほしいんですか? それともテオに妬いてるんですかぁ?」
いつまで経っても男の子は男の子ですね……と、ミルカは挑発的に笑う。いろいろな意味で負けているイズミは、せめてその紳士的な態度でのアピールを貫くことでしかポイントを稼げない。下手にミルカに気を取られていたら、チャンスを逃しかねないのだ。
「さぁ、こっちだテオ!」
「いいえ、こっちですよテオ!」
「うー……!」
ずりずり、ずりずり。
一生懸命にずり這いをしたテオが、最終的に選んだのは。
「…………んま!」
「ふふ……また一つ、お兄ちゃんになったんだね、テオ」
「「……あ」」
イズミもミルカも過ぎ去ったさらに奥……部屋の入口の方。
汗を流し終え、湯上りでほかほかしている奥様に抱きあげられて、テオはにこーっと嬉しそうに笑った。
「すごいねえ……! いつのまにかずり這いもできるようになっていたんだねえ……!」
「う! だーう!」
きゃっきゃと笑い、テオは奥様の腕の中でくすぐったそうに身を捩らせる。イズミもミルカも、その様子を唖然として見守ることしかできなかった。
「そりゃ、一番大好きなのはママに決まってるか。……おう、そこのフラれたお二人さん、いつまでそんな恰好で放心しているつもりなんだ?」
「いや、だって……なんだかんだで、こっちに来てくれるかなって……!」
「わ、私が一番テオを抱っこしてきたんですよ……!? 飛び込んでくるなら私の方だって……!」
「……私が赤ん坊だったら、鼻息の荒い大人の胸には飛び込みたくないな。傍から見ていて、ちょっと引くほど怖かったぞ」
あまりにも身もふたもないペトラの言い分に、イズミもミルカもがっくりと肩を落とした。
「……ところで、ですが」
テオを抱っこしたまま、ゆらりと奥様がイズミ達の前にやってきた。
──なぜだか、顔は笑っているのに目は笑っていない。儚げで優しい雰囲気であるはずの奥様なのに、まるで冷たい氷のように静かなる鋭さを放っている。
「なんで……なんで、呼んでくれなかったんですか! 今回はもうしょうがないですけど、ハイハイとたっちの時は絶対に呼んでくださいねっ!」
「え……あの……」
「答えは『はい』か『うん』のどっちかですっ! こればかりは、いくらイズミ様と言えど例外は認めませんからっ!」
「いや……その、今回みたいにお風呂に入っていた場合は……」
「構いませんっ! それが何だというのですか! たとえ私が素っ裸だったとしても、絶対に呼んで下さい! いいですねっ!」
もしかしたら、この家の中で一番ヒエラルキーが高いのは奥様の方なのかもしれない。さらっととんでもないことを断言し、愛おしそうにテオを抱きしめる奥様を見て、イズミはそんなことを思った。




