46 風呂場にて
「ふふ……」
「沁みたり、痛いところはございませんか?」
「ええ、大丈夫」
奥様の背中を優しくこすり、そして私はお湯をかけた。世にも不可思議なこのシャワーという道具は、何をどうやっているのか、魔法の気配も匂いもしないというのに、どこからともなくひたすらにお湯を運び続けてくれるという優れものだ。
少々狭い、この浴室にいるのは私と奥様の二人だけ。湯浴着も禊の際に用いる行衣すら着ていない、文字通りの素っ裸。いくら同性同士とはいえ、こうも狭い空間に一糸まとわぬ姿で密着していると、さすがに変な気分になってくるような、ならないような。
「ありがと、ペトラ。さ、次はあなたの番よ」
「いえ、お構いなく。それよりも、奥様は湯に浸かってください」
「……もう」
渋々といった態で、奥様はその小さな浴槽に浸かる。私が知っている……アレのお屋敷のバスタブはもっと大きくて豪華で、いかにも貴族然とした装飾に溢れている。奥様の実家と言ってもいい神殿のそれは、質素だがとにかく広い……逆にいえば、禊のためにしか使わないので少々寂しい雰囲気がしなくもない。
だけど、ここの風呂桶は。
小さくて、足でさえ満足に伸ばせそうにないのに。
「ふふ……あったかくて、気持ちいい……」
どうしてこんなにも、心地よさそうなのだろうか。
「たった二人で水浴び……湯浴みなんて。こんなにもゆったりできたのは、初めてかも」
「それはそうでしょう。庶民の私からして見ても、毎回毎回あれだけの侍女に囲まれながら身を清めるというのは、却って気疲れしそうだと常々思っておりましたとも」
「……なら、助けてくれたってよかったじゃない。それに私、いっつもミルカとペトラだけでいいって言っていたのに」
「そういうわけにもいかないということくらい、わかっておられたでしょうに……」
つまみをグイっとひねると、シャワーヘッドから勢いよくお湯が噴き出した。頭の上から柔らかなお湯が降り注ぐという、未だに新鮮なこの感覚。お湯を頭からひっかぶるというだけで貴重な得難い体験だというのに、この心地よい感覚をずっと楽しんでいてもいいとは。
「それにしても、このお風呂……ホントに良い匂い。柑橘の何かなのはわかるんだけど……なんだろう?」
ちゃぷちゃぷと奥様が湯船の中のお湯を掬う。私が頭から今尚被り続けているのは信じられない透明度のそれであるのに対し、湯船の中の物は黄色味かかった、ともすれば果汁をそのまま絞り出したかのような鮮やかな色合いをしていた。
それから、色味に違わぬ果物──柑橘の良い匂いがする。甘みの中にほんの少しの酸味の混じった、丸かじりしたら絶対に美味しい奴の匂いだ。ただ、それにしては妙にその甘い香りに違和感があるのと、そして果汁の割には肌がべたつかない。
良い匂いだけを取り出した香水のようなものなのか。はたまた、そういう種類の果物を使っているのか。いずれにせよ、私たちの知り得ない何かが使われていることは間違いない……というか、こんな大量のお湯を用意するだけでも贅沢だというのに、そこに色や香りを着けられるほどの果物を使うなんて。金持ちでさえ思いつかない発想だ。
「ミルカが言っていましたよ。今日は奮発して、柚湯……イズミ殿のとっておきにすると」
「……イズミ様、か」
「……奥様?」
声のトーンが少し変わった。ゆっくりとつまみをひねり、今度はお湯を止める。あれだけ勢いよく噴き出ていたそれは、まるでそれが当然だと言わんばかりにその勢いを止めた。
「ねえ、ペトラ」
「なんでしょう?」
なんだか前も、似たようなやり取りをしたような気がする。
「……私、夢を見ているのかなあ?」
「……」
「気づいてる? イズミ様が目覚めて三日くらい……お世話になりだしてまだ十日も経っていないのに、私もペトラも、びっくりするほどお肌がきれいになってる」
たしかに、言われるまでもなくその通りだ。この性分故、年頃の女が気にするような化粧や美容のことなんてとんと気にしたことが無かったし、護衛に必要なのは華やかさではなく実力だと割り切っていたからこそ、必要最低限のそれくらいしか今まで気にしたことが無かったが……。
そんな私でさえ、思わず「おっ?」っとなってしまうほど、今の私の肌の調子はいい。つやつやで、つるつるで、ずっと撫でていたくなるような……そんな、きめ細やかな肌になっている。
元来がさつで大して気にしていなかった私でさえこうなのだ。元々美しかった奥様ときたらもう、同性の私が見ても眩しくてドキドキするくらいに肌が輝いている。
「それだけじゃないわ。髪だってこんなにつやつや。くすみも無いし、枝毛だってない。自分で自分の髪の毛をずっと触っていたいだなんて、初めて思ったもの」
「なるほど、たしかに」
「──少し前まで、生きるか死ぬかの瀬戸際だったのに。髪も肌もボロボロで、見れたものじゃなかったのに。頬もこけて、汗と垢と泥まみれで、体中から変な匂いがぷんぷんして……」
「……」
「なのに今はこんなにもきれいで、体から良い匂いがして、清潔で……水に困ることも、ご飯に困ることもない。ただただ安心できて、あったかいベッドでゆっくり眠れる」
「……」
「言葉にできない優しさに溢れる人から、守ってもらえる。もう怖いものは無いんだ、安心して良いんだ──って、お父さんやお母さんに抱きしめられているみたいに、安心して笑っていられる」
「……」
「ねえ、ペトラ」
「……なんでしょう?」
「私、夢を見ているのかなあ? 実は今もあの暗くて怖い塔の部屋の中で、ろくに何も見えないまま……頭のおかしくなった私が、都合のいい夢を見ているだけなのかなあ? 本当は、私もあなたもボロボロで……もうすぐ私は、死んじゃうのかなあ? イズミ様なんて都合のいい人、いないのかなあ?」
「奥様……」
奥様は、嬉しそうにも悲しそうにも見える顔で笑っている。目元が濡れているのは、決してここが風呂場であるからではない。
「ごめん、ごめんね、ペトラ……。自分でも変なこと言ってるって、わかってる……。でも」
「……」
「でも、信じられないの! あんなにも悲しくて苦しい思いをしたのに、今こうして安心できていることが! 扉の向こうではテオがぐっすり幸せそうに眠っていて、ミルカがその隣でお裁縫をしていることが! 今こうして、あなたとおしゃべりできて……イズミ様に、救ってもらったことが!」
ああ、この人は──奥様は、心の底から弱っていたのだろう。どうして、他者の善意を素直に受け入れられないのだろう。今目の前にあるはずの幸せを、噛み締めることができないのだろう。
嘆かわしいというよりかは、悲しくて寂しい。少し前の奥様なら、もっと笑って……今この状況を、楽しめていたというのに。
奥様をこうも悲観的にしてしまった原因に憤りそうになる。奥様が人を信じられなくなってしまったのは、間違いなくアレが原因だ。
これはちょっと、時間がかかるかもしれない。
「……奥様、失礼します」
少し前だったら、絶対こんなことはしなかっただろう。
私は、畏れ多くも奥様の隣に……彼女と同じ浴槽へと浸かった。
「髪が綺麗になったのはシャンプーのおかげ。肌が艶やかになったのはこの不思議な液体の石鹸のおかげ。いいですか、夢みたいではありますが……しかし、決して不思議なことではありません」
がし、と肩を掴む。奥様の肩は、この暖かい場所の中だというのに少しばかり震えていた。
「わかりますか? 今まさに、目の前で都合の良すぎることが起きているのです。私たちにはとても信じられない力を持った、とんでもなく誠実で優しい人間が、手を差し伸べてくれているのです」
「……」
「ならば、感謝の意を込めてその手を取るのが……世界は違えど、同じ人間としての在り方だと私は思います」
イズミ殿が賢者なのか、それとも本人の申告通り一般人なのか、それはこの際どうでもいい。重要なのは、彼が全くの善意をもって私たちを助けてくれて、そして人間として真っ当な感性を備えた、好ましい人物だということだ。
「あれだけ暖かくふかふかで上等なベッド……イズミ殿は、薄汚れて森を彷徨っていた見ず知らずの小娘に、何のためらいもなく明け渡したと聞きます。それが血や泥で汚れることを厭わずに、自身が床で寝起きすることを厭わずに……まさしく聖人君子と言っていいでしょう」
「そう、ね……」
「美味い水に美味いご飯。ここでは、それがほとんど無限に手に入ると言います。とはいえ、普通はそれすら惜しくなるのが人というもの。なのにイズミ殿は、何の見返りもなくそれを振舞い、ろくに動けぬミルカを介抱していたと聞きます」
「そうよ、ね……私たちもそうだけど、あの子だってテオを抱えてこの森をずっと彷徨っていたんだものね……」
「そうです。テオ坊ちゃんのこともあります。他人の赤子というだけで面倒ごとであるというのに、明らかに訳ありなテオ坊ちゃんを、イズミ殿は見捨てずに世話をしてくれて……それどころか、むしろ自分から構ってほしいと言わんばかりに……!」
「ふ、ふふ……! たしかに、テオを抱っこできなくて拗ねた顔、ちょっと意外なくらいに可愛かったな……!」
「いや、可愛くはなかったと思いますが……」
まぁ、感性なんて人それぞれだ。小さな男の子とかならともかく、さすがにあそこまで大きくなると可愛いなんて感想は私には抱けない。親しみやすい、という気持ちなら抱くことができたが。
「いいですか、奥様。優しくて誠実な人間に対して一番の礼になるのは、ああ、この人たちを助けてよかった……と、相手にそう思ってもらうことですよ。それは私たちが礼を失さず、前向きに生きていれば必ず達せられるものであり、私たちを助けてくれたイズミ殿が一番に望むものでもあるのです」
少々強引に、奥様の肩を抱く。どうせここは帰らずの森の中、異界の人間の不思議な家の中だ。
今くらい、友人として彼女を慰めてもいいはずだ。ここには口うるさい神官長も侍女長もいないのだから。
「ペト、ラ……」
「私もルフィアも、今ここにいる。これは決して夢なんかじゃない。このぬくもりが、力強さが……その証拠だよ」
きゅっと小さく抱きしめ返された。同時に囁かれたほんの小さなつぶやきは、私の耳にしか、届かない。
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ややあって、ようやく落ち着いたのだろうか。少し恥ずかしそうに目を伏せた奥様は、その恥じらいをごまかすかのように口を開いた。
「……これから、どうしよう?」
「どうしよう、とは?」
「えっと……その、ここではお勤めする必要も無いじゃない? いざ考えてみると、私って普段何していたのかなって……」
「ふむ……」
基本的に、奥様は水の巫女としての職務を全うすることに一日の大半を費やしていた。こうしてのんびり湯に浸かることなんてあり得なかったし、何気なくおしゃべりを楽しむこと自体も少なかったように思える。
だが、この帰らずの森の中では水の巫女の仕事なんてできるはずがない。そもそも……水汲みも薪拾いも、およそ雑用らしい雑用をする必要が無いのだ。
「普通の人たちって、こういう時どうしているんだろう?」
「仕事のほかには家事や子育てではありますが……」
家事は全部ミルカがやる。というか、こちらからやろうとしてもミルカがそれを止めるだろう。あいつはそういう奴だ。
「でも、子育てって言っても……ずっとテオと遊んであげるだけで、いいのかなあ?」
「それが一番大事なんじゃないでしょうか」
あの様子じゃ、イズミ殿もテオに構いたがっている。まだそんなに長い時を過ごしたわけではないが、彼は何というか……子供に甘く、色んな意味でテオに夢中になっている。そうなるともう、赤子の面倒を見るなんて面倒くさい……という世間一般的な男性のそれではなく、むしろ積極的にテオの相手をしたがるだろう。
すなわち、テオを巡って奥様と取り合いになる可能性がそれなりに強い……んじゃないだろうか。
「あとは、そうですね……普通におしゃべりでもして過ごせばいいじゃないですか。このお風呂に然り、美味しい食べ物に然り……目新しいものや不思議なものなんて、いくらでもあるでしょう?」
「そうね……正直な話、不思議過ぎて迂闊なことができないもんね……。どれもこれも異界のものみたいだし、下手な吟遊詩人の冒険譚を聞くよりも、ずっとずっと面白そう!」
「そうそう。それに、逆にこっちの国の話をイズミ殿は聞きたがるでしょうな。……案外、時間なんてあっという間かも」
「……楽しい想像ね!」
「ええ、まったく」
体が温まって、気分もよくなってきたのだろうか。先ほどまでと比べて明らかに、奥様の口数は増えている。
「ミルカは良い顔しないだろうけど、これを機に普通の生活にも挑戦したいなあ。お料理とか、お裁縫とか、お洗濯とか……」
「ふむ? 家事をしたいのですか?」
「うん。お世話になりっぱなしだし、せめてそれくらいのお手伝いはしたいなあって。あと、私だってテオのお母さんだもん。最低限のことすら自分でできない……って、テオに失望されたら嫌だし?」
「普通の人ができないことをできるのですから、別にいいと思いますけどね……」
さらに付け加えるならば、その最低限ができない人間は意外と少なくない。料理はとりあえず火を通して食べられるだけ、裁縫はとりあえず糸を通して繋げただけ……時には逆に穴だらけにしてしまうだけの人間がここにはいる。洗濯なんて、正直勝手がわからなさ過ぎて本当に綺麗に出来ているのかよくわからないし。
「そう? あとね、その……」
「ん?」
「……エプロン姿のミルカが、可愛かったなあって」
「ああ……」
そういえば、この家の厨房に立つミルカはいつも赤白チェックの綺麗なエプロンを着けていた気がする。イズミ殿の国特有のデザインなのか、こちらでは見ないデザインのものではあったが……なんというか、すでにミルカはそれに着慣れていた。私がそれを着たら違和感が凄まじいだろうが、ミルカはそれをまるで感じさせなかった。
「なんというか、あいつだけすごくこの家に慣れていますよね。道具だって使いこなしていますし、衣服だって違和感が無い。現地の娘だと言われても、信じることができるくらいに」
「そうよね? お湯を沸かしながら電子レンジを使いつつ、ガスコンロでお料理して冷蔵庫を開けて……」
「よくわからないジャラジャラした金具で洗濯物を干したり、奇妙に唸る壺……掃除機を使って掃除をしたり」
「……あの子、私の知ってるミルカよね? 実はあの子も異界出身だったりしないよね?」
「ご心配なく。あいつはよくある農村の大家族の……ええと、確か次女だったような。私と同じで、花の蜜が御馳走で、食事の時は兄弟で飯を取り合っていたような、そんなどこにでもいる人間の一人ですよ」
「あら。長女じゃなかったっけ……」
あいつがあんなにも違和感なくこの家に溶け込めているのは、いったいなぜか。単純に私たちよりも長い時間この家に厄介になっているからか。
それとも、あるいは。
「……妙に色気づいている気がしなくもないような」
対外的な愛想は良いが、基本的にあいつは身内以外には冷たかったような気がする。笑っているように見えて、目だけは笑っていなくって……実利のために上辺を取り繕うことに長けていたやつだ。
そんなあいつが、イズミ殿相手だと……なーんか、ちょっと違うように見えるんだよな。
「ミルカの着ているお洋服、可愛かったなあって。私が借りているのも可愛いんだけど……なんかこう、もっと可愛いのがある気がする」
「なるほど、確かに。イズミ殿は男性故にそういったものには興味ないようですが、異界の技術は明らかに進んでいます。質が良く、デザインも良い衣服があってもおかしくありません」
「でしょう? あと、シャンプーや石鹸だってこんなに上等なのだから……きっと、お化粧道具もすごいと思うの」
「……化粧道具を眺めるの、好きですもんね」
「いいじゃない、もう」
ぷくっと奥様は膨れるが、別にダメだと言ったつもりはない。奥様の数少ない趣味で、そしてあくまで眺めるだけ──実際に買うことなんてほとんどないし、買えたとしても使う機会なんてほとんどなかったのだから。
どんな女も化粧道具の一つくらいは持っている。農村の娘でも、母から受け継いだそれがある。たとえどんなにボロボロであろうとも、大切に受け継がれたそれをたまの特別な日に使っておめかしするのだ。
でも、奥様はそれすらしたことがない。儀式で魔術的な化粧をすることはあっても、おシャレでやったことなんてほとんど無いんじゃなかろうか。
憧れるくらいは、別にいい……せめてそれくらいは、させてあげたいというのが私の本音だ。
「興味なさそうにしているけど、ペトラも少しは身なりに気を使ってよ? 女だけなら適当でもいいけど、殿方の前で……それも、命の恩人の前でだらしない姿は見せられないから」
「む……たしかに。この際ですし、私もミルカに倣ってちょっと色気づいてみましょうか」
「色気づく必要はないと思うけど……」
「なに、殿方というのは周りに着飾った婦女がいるだけで喜ぶものですよ」
奥様なら着飾らなくても、黙っているだけで喜ぶ奴が大半だろうけど。逆に私は、女に飢えた傭兵団でもなければ女扱いされないような気がする……少なくとも、貴族連中には女どころかまともな人間扱いもされていなかったような。
「……ねえ、ペトラ?」
「なんでしょう?」
嫌なことを思い出しかけていた私を、奥様のいつもの穏やかな声が呼び戻した。
「ママが綺麗になったら、テオは喜ぶかなあ?」
私が返す言葉は、決まっている。
「もちろん。テオ坊ちゃんだって、立派な男の子ですからね」
──いつの間にか、奥様の顔には柔らかな笑顔が広がっていた。
 




