45 退屈なケダモノ
「あー……」
意識が戻ってから三日。今日もまた、イズミはベッドの上で過ごしている。
イズミの感覚で、時刻はおよそ十時過ぎと言ったところだろう。朝と言うには遅く、しかし昼と言うには早い中途半端な時間だ。休日であれば、この時間まで寝こけている者がいたとしてもなんらおかしくはない。
「暇だな……」
十時。そう、まだ十時でしかない。
朝六時に目が覚めてからもう四時間。いや、まだ四時間。しっかりばっちり目が冴えているイズミにとって、それはあまりに長すぎる時間。無聊を慰めようにも、ベッドの上でいったいどれだけのことができるというのだろう。
普段だったら、もうひと眠りしていたかもしれない。何にも気にせず好きなだけ寝ることができるなんて、最高だ……と、そう思っていたに違いない。
だが、こんな生活を三日も続ければ……さすがのイズミも、いい加減飽きてきていた。
「なぁ、ミルカさん……」
イズミはベッドの傍ら、椅子に座って針仕事をしているミルカに問いかけた。
ミルカは一瞬だけ針から目を逸らし、そしてイズミに向かってにっこりと笑う。
「ダメです」
がくり、とイズミは心の中で肩を落とした。
「三日も意識を失って、体中がボロボロだった人が……ほんの数日寝ていただけで、完治するわけないでしょう? あんまりわがまま言わないで、大人しく寝ていてくださいまし」
「とはいっても……ホントにマジで暇なんだよ……」
「そんな、子供ではないのですから……だいたい、今までだって似たような生活ではありませんでしたか?」
「そりゃ、そうだけどさ……」
扉の向こう。わずかに開けられた隙間のその先から、奥様とテオの声が聞こえる。テオのはしゃいだ声を鑑みるに、きっと奥様に遊んでもらっているのだろう。母と息子の和やかな戯れが、今のイズミにはたまらなく羨ましく思えてならなかった。
窓の外からは、アー、アーと鳴くシャマランの声とペトラの声が聞こえる。シャマランの調子を見ているのか、はたまた餌でもあげているのか。少なくともそれは、こうしてベッドの上で唯々寝ているよりもはるかに楽しいことだろう。
「なぁ、ちょっとこっちにテオを連れてきてくれたりとかは……」
「ダメです」
「……けち」
「何を言っているのですか。朝とお昼と夕方……三回もごほうびの時間をあげているでしょう? そういう約束だったじゃないですか」
「だって本当に暇で暇で……」
「そんな顔されても、ダメなものはダメです。そんなにテオと遊びたいなら、わがまま言う前にぐっすり寝て体を治してからにしてくださいな」
ミルカがここで針仕事をしているのは、なにもイズミの介抱をするのだけが目的ではない。いや、最初のうちは文字通りそのためだけに待機していたのだが、昨日イズミがミルカが洗濯物を干している隙を突いてテオの下に向かったことをきっかけに、監視の役割の方がメインになったのである。
そんなわけで食事とトイレ、そして風呂以外の時間のほぼすべての時間をイズミはベッドの上で過ごさざるを得なくなっている。テオと会えるのもその時だけだ。奥様やペトラと話せるのもその時だけとなる。
『病人にあまりかまいすぎるのもよくないだろう』……と、二人ともが良識的な判断をしたことを、イズミはこの時ほど恨めしく思ったことはない。
「ミルカさんだって、ベッドの上で退屈な日々を過ごしただろう? 俺の気持ち、わかってくれるんじゃないか?」
「あら。私の時は、もう安心感でいっぱいで……ずっと、ずぅっとこの時間が続けばいいなって思っていましたよ。隣でイズミさんとテオが遊んでいる声を聴くだけで嬉しかったですし、イズミさんも今の私と同じようにちょくちょく話しかけてくれましたから」
「くそ……異世界ギャップってやつか……!」
元々ミルカは使用人で、娯楽を楽しむだとか余暇を満喫するなどといった時間はほとんどなかった。さらにそもそもの話として、現代日本のように娯楽に溢れているわけでもない。スマホ、パソコン、漫画にアニメ……そういったものが一切無いのだから、イズミのように暇だと思う感覚そのものが存在しないのだ。
「……ミルカさん」
「なんでしょう?」
「いま、何作ってるの?」
「テオのよだれかけですわ。なんだかんだで今まで用意できていなかったので、この機に何枚か作ってしまおうかと」
「ああ……どうせ布はいくらでも使い放題だもんな。……よだれかけを作った後はどうするんだ?」
「そうですね……次はテオのおしめですね。そのあとに簡単にテオのお洋服を作ろうかと。ずっとお家の中だから、今は必要ないかもしれませんが……さすがに今の状態のままではいけないですし」
「タオルを巻いてるだけだもんなァ」
「赤ちゃんなんて、どこの村でもそんな感じではありますが……たとえ作ったとしても、すぐに大きくなって着れなくなっちゃいますし」
「しっかりした服が用意できるなんて、恵まれているってことか」
「……その口ぶりだと、イズミさんの国では赤ちゃんにも普通の服があるってことなんですね」
ちなみに、ミルカが作ろうとした赤ん坊の服とは、マントやローブにボタンをつけたような、おくるみと大して変わらないものであった。
「それができたら……ああ、今度は奥様の服を仕立てようかしら。あれだけ布があれば、立派なものが作れますわ」
「サイズが合うかわからんけど、お袋の部屋にある服を仕立て直してもいいぜ。一から作るよりかは楽だろ」
「え……いいんですか? 今でも取ってあるってことは、大事なものなんじゃ……」
「大事じゃないってわけじゃないけど、そこまで思い入れはないよ。単純に、遺品整理が面倒くさくてそのままになってただけだ。服の方も、お袋の方だって……箪笥の肥やしにされるよりかは、奥様やミルカさんたちに着てもらったほうが喜んでくれるよ」
「……ありがとうございます」
針をちくちく動かしながら、ミルカはゆったりと笑う。その姿を見て、イズミは「ミルカさんだと仕立て直さないと入らないだろうな」……などと、言葉に出さなくても大変失礼なことを考えた。
「そういやさ」
「はいはい、なんでしょう?」
「ミルカさんは炊事や洗濯……いろいろしているのを知ってるんだけど、奥様達は何やってるんだ? さすがにいくらなんでも暇すぎるだろう?」
ふと浮かんだ疑問。それは同じように暇を持て余しているであろう二人についてのことだ。
奥様もペトラも、ガブラの古塔に囚われていたせいでかなりの衰弱があった。が、イズミと違い魔法の効きがよく、物理的外傷もない。栄養失調的な側面があり全力の運動こそできないものの、普通の日常生活を営むくらいはできる……というか、ミルカによるNGが入っていない。
とはいえ、ここは帰らずの森の中。そして、不思議で素敵なイズミの家。娯楽も無ければ、やらなきゃいけない日々の仕事も無い。
「ペトラは軽く柔軟運動をしたり、シャマランの面倒を見たりしていますよ。あとは……鉈の手入れとか。プロテクターを磨いたり、魔除けのマントを干したりもしていましたっけ」
「ふむふむ」
「奥様は専らテオの面倒を見ています。ようやく再会できたわけですし、愛おしくて仕方が無いのでしょう。元より、赤ちゃんから目を離すわけにはいきませんからね」
「ほほぉ……」
「あとは……二人とも、自主的に私の家事を手伝ってくれたりとか。他には……テオがお昼寝しているときに、こっちの道具や設備の使い方を説明したりって感じですかね」
「ああ、そういやそこんところどうなんだ? 不便を感じたり、わかんないところとかあったりする?」
「いえ、特には……なんというか、二人とも迂闊に物を触らないようにしているみたいで。必要最低限の物しか使いませんし、必要最低限のことしか聞いてきませんわ」
「……なるほど、なんとなくわかった」
ミルカがそうだったように、異世界人から見ればこのなんてことない家の中も、すごく豪華で高級な内装のように思えてしまう。中にあるのは未知の魔道具で、凄まじく便利で信じられない効果を発揮する……すなわち、ものすごい高価なもののように見えてしまう。
だから、安物の扇風機一つとっても迂闊に触れない。原理も仕組みもわからなくて、何かあったらと思うと恐ろしくて触れない。もしも壊してしまったら直せるかどうかわからないし、そもそもどういう行為が壊すことにつながるかまるで想像がつかないのだ。
この家にある以上、どうせ翌日になれば元通りになる。イズミとしてはそれがわかっているし、事故で安物が少し壊れた程度で腹を立てるほど器が狭い人間じゃない。
とはいえ、客人である二人からしてみれば、まだろくに話せていない家主のものを、たとえ元に戻るのだとしても壊してしまうような真似は避けたい……というのが、率直な心持ちであった。
「ああ……早く元気になって、色々教えたいもんだぜ……」
「あら。それまたどうして?」
「二人が驚く顔を見てみたい。具体的には、初めて桃缶を食べた時のミルカさんみたいな」
「……んもう!」
針を動かすミルカの顔がほんのりと赤くなっている。
「あとは……ああ、やっぱりテオと遊びたいな。抱っこして、おんぶして……あと、一緒に風呂にも入りたい」
「はいはい。元気になったら存分にやってくださいな」
「味の濃い脂っこいものも食べたいなァ……。病人食も美味しいんだが、どうにも味気ないというか……。久しぶりに好きなだけ酒も飲みたいし……あっ、一応聞くけど、奥様とペトラさんの……その、年齢っていくつだ?」
「……なんで、そんなことを?」
にわかにミルカの目つきが鋭くなる。そのまま針で刺殺されるようなイメージが、なぜだかイズミの脳裏に浮かんでしまった。
「いや……どうせなら、酒盛りでもしたいなって。俺が肴を作って、あっちの味を教え込もうかと。でも、未成年だと酒飲めないじゃん」
「……それでしたらご心配なく。イズミさんの国のルールは知りませんが、こちらは未成年がお酒を飲むことを取り締まる法律はありませんよ。尤も、年端も行かない子供が飲んだり飲んだくれるのは良い顔されませんが」
「あっ、そうなの?」
「ええ。水が貴重な地域では、ブドウ酒などは一般的な飲料ですからね。もちろん、私だってお酒の経験は少なくないです」
「…………お、おお」
「なんですか、今の間は?」
そういえば十七歳だったっけ、とイズミはここにきてようやくその事実を思い出した。イズミの知っている十七歳と思えないほどミルカは落ち着いていて、精神的な意味でも肉体的な意味でも二十代後半くらいと思える貫禄を放っているのだ。
「…………なぁ、ミルカさん」
「なんでしょう?」
何度目かわからない問いかけ。それでも律義に答えるのは、ミルカの性格か、それともただ単にミルカも暇だったのか。その理由は、誰にもわからない。
「やっぱりちょっとだけ……起きちゃダメ?」
「…………」
「ほら、ずっと寝てばかりも気が滅入るっていうか、ある程度体も動かしておかないと治るものも治らないっていうか……」
「…………」
「み、ミルカさーん……?」
重い沈黙。沈む空気。こりゃあタイミングをミスったか……と焦るイズミ。
意外なことに、ミルカが発したのは提案の言葉であった。
「ふむ……一理ありますね」
「おっ?」
「ただ、だからといってすんなり認めるわけにもいきません。なので、こうしましょう」
すい、とミルカは針と縫いかけのよだれかけを傍らに置いた。そして、スカートの皺を直してからイズミのベッドに腰掛ける。
「み、ミルカさん?」
「一人で、体を起こせますか? それができたなら、少しの間に限り認めないことも無いです」
体を起こす。そんなの簡単だ。立ち歩こうとしようとしている人間が、その程度できないはずがない。
思った以上に簡単な条件。おそらく万が一に備えてミルカはここに来たのだろう──と、イズミはそんな安直な考えの元、とうとうお許しが出たという浮かれた心のまま起き上がろう……として。
「──えいっ」
「うわっとぉ!?」
その瞬間、ミルカに肩をグイっと押されて、思いっきり押し倒された。
「ふ、ふふ……わかりますか? 今のイズミさんは、こんなか弱い乙女にすら抵抗できないほど弱っているのです」
イズミを押し倒したミルカ。こうして今も肩を押さえられているということはつまり、いつぞやと同じように、ミルカは倒れ込むようにしてイズミに抱き着いているような格好であるということに他ならない。
実際、イズミが抵抗しようと肩を上げようとするも、ミルカはそれをぎゅっと押さえ込む──要は、体ごと押し付けて防ごうとしている。イズミの首筋にはミルカの茶髪がかかってくすぐったいし、ついでになんかすごく甘い良い匂いがして正直気が気じゃない。
何より、真っすぐ目の前にそのヘイゼルの瞳がある。吐息のかかる距離とは、よく言ったものであった。
──傍から見たらどんな風に見えるのか、この人わかってんのかな?
客観的に見れば、ミルカがイズミを押し倒して襲い掛かっているようにしか見えない。目的と理由が違うだけで、ポーズだけ見ればほとんど同じであった。
「そんな人に、立ち歩く許可なんて与えられるはずがないでしょう? ……良い子ですから、大人しくねんねしてくださいな?」
からかうように……いや、実際からかっているのだろう。ミルカはイズミの耳元で、そんな言葉を甘く囁く。女の魅力をフルに使った、ミルカの渾身の一撃であった。
おそらく、最近増えたイズミのからかいへの仕返しのつもりなのだろう。
惜しむらくは、自分でやってて自分でほんのり赤くなっているところだ。それさえなければ、イズミも平静を失って取り乱していたに違いない。
「それとも……一人で寝るのは寂しいですか? ふふ、テオみたいに添い寝をしてあげないとだめですか?」
「おう、それで頼む」
「きゃっ!?」
逆にミルカの肩を掴み、イズミはぐいっと引き倒した。押しのける力は残されてなくとも、引き込む力くらいは十分にあるし、そして重力という加勢もある。
当然、鍛えられているわけでもないミルカがそれに耐えられるはずもなく、ぽすんとイズミの横に体が納まった。
そのまま流れで、イズミはミルカの頭を抱き込む。もちろん、本気で押さえるわけじゃあなくて、抱き枕のように軽く抱きしめるような感じであった。
「むー!? むー!?」
「小賢しい小娘が。大人をからかったらどうなるか、教えてやろう!」
「け、ケダモノぉ! うら若き乙女に、なんてことを!」
「なんだよ、添い寝でも何でもしてくれる……って、この前約束してくれたじゃんか。それに、夜這い仕掛けてきた人にそれを言われたくはねえなァ」
「い、今それを持ち出します!? あなたって人は、ホントにデリカシーってものが……!」
「……とかなんとか言いつつ、ガチで嫌がられてなくて若干安心している俺がいる」
「……まぁ、私も本気じゃないですし、添い寝自体も嫌じゃありませんから」
「おっ? 割と脈あり……?」
「で・す・が! デリカシーってものと、ムードってものを考えてくださいまし! こんな、幼い娘に悪戯を仕掛けるパパのような真似して……!」
「……たしかに、幼い娘って扱いは失礼だったな」
「……ちょっと、今すごく失礼なことを考えませんでしたか?」
「……………………」
「何とか言ってくださいよぉ!」
寝室に響く、そんな戯れの声。苦笑しながらぱたぱたもがくミルカと、それを緩く押さえながらケラケラ笑うイズミ。
たまにはこんなやり取りも悪くない。意外と時間つぶしにはなるし、こうして動いていれば疲れてお昼寝もできるかもしれない。そんなことを思いながら、イズミは腕の中にある温かいぬくもりを愛おしく抱きしめた。
「ねえ、ミルカ。ちょっと聞きたいことがあるのだけれど……あ」
「おい、さっきからなんかすごい音がしてないか……あ」
「「あ」」
いつの間にか開かれていたドア。入口で立ち尽くす奥様とペトラ。二人の表情はぴしりと固まって、そして奥様の方はじんわりと頬が赤くなっていた。
その視線の先には、ベッドの上でイズミを押し倒した状態のミルカと、それを抱きとめているイズミがいる。
「あ……そ、その、ごめんなさいっ!」
「……まだ病み上がりなんだから、無茶はさせるなよ」
「ち、ちがいますよ!? 誤解、誤解ですからね!? イズミさんがふざけていただけで……!」
「押し倒したのはミルカさんの方だけどな!」
「イズミさんっ!」
誤解を解くまで約十五分。その三倍の時間、イズミはミルカからの説教を受けることとなった。
 




