44 イズミ 【How Slip】
「うー! うー!」
奥様に抱っこされたテオは、イズミの顔を見るなり手足をパタパタと動かして嬉しそうに笑った。ついさっきまでお昼寝していたというのは本当のことのようで、そのお口周りには今もわずかばかりのおよだの痕が残っている。
「おお……!」
今日もやっぱり、テオのお顔がぷくぷくのまんまるで、おめめはぱっちりしている。赤ん坊らしいぷにぷにの手足には、やはり赤ん坊特有の手首、足首のくびれがあった。
「さ……どうぞ」
そっと、優しく奥様がテオをイズミに受け渡す。慎重にテオの脇腹に腕を差し込んだイズミは、自身の体にテオの体全てを預けるようにして、テオをぎゅっと抱きしめた。
「まうー!」
「ははは……! なんだよお前、元気そうにしやがってよぉ……!」
森の中の行軍。ガブラの古塔の探索。動く死体の討伐に、あの石の騎士との死闘。
そんなものがすべて夢や幻であったかのように、テオは元気にころころと笑っている。
ふにふにの柔らかいからだ。イズミの腕の中に感じるそれは、なんだか泣けてきてしまいそうなほどに尊く、そして温かい。
「う! う!」
「よーしよしよし……!」
ぺちぺちぺち、とテオがイズミの頬を叩く。きっとじょりじょりのおひげの感覚を気に入っているのだろう。テオはイズミに抱っこされるたびにいつも同じことをしていて、そしてミルカに抱っこされたときは全然そんなことをしない。
「あら……聞いてはいましたが、本当によくなついているのね……!」
「いやいや……なんだかんだで、こんなに嬉しそうな姿を見るのは初めてだよ。やっぱりママに抱っこしてもらえるようになったのが嬉しいんだろうなァ」
「うふふ……そうだといいんですけど」
確認するまでもないが、テオとイズミに血のつながりはない。あくまでテオはたまたま助けただけのどこの誰とも知らない赤ん坊だ。そんな赤ん坊にとって、抱っこされるなら見ず知らずの男と大好きな母親──どっちがいいかだなんて、答えは聞くまでもない。
それでも、テオはイズミに抱っこされて嬉しそうに笑っている。そしてイズミもまた、こうして再びテオを抱っこすることができて、言葉で表現しようのない喜びを感じている。それはもう、誰にも否定することのできない純然たる事実としてそこに存在していた。
「……お前、ちょっと大きくなったか? なーんか微妙に、前より持ち上げるのが大変になったような気が」
「うー?」
「それはおそらく、イズミさんの体が弱っているからだと思いますわ」
「そうかしら? 私が抱っこした時も、同じように思ったけれど」
「奥様だって弱っていたではありませんか……」
今一度、確かめるようにイズミはテオをぎゅっと抱きしめた。赤ん坊特有の、淡いミルクのような甘い匂いが鼻孔をくすぐり、なんとも言えない安心感がイズミの心を満たす。父性本能が刺激されるというか、生物的な本能をくすぐられているような気がして、イズミは少しばかり照れくさい気持ちになった。
「いやはやしかし……どうしてこうも、赤ん坊っていうのは愛おしいものかね」
「あらやだ、イズミさんったら。言っていることがまるでおじいちゃんみたいですわ」
「しょうがないだろ、可愛いもんは可愛いんだから……俺も結婚して子供がいれば、これくらいの年頃だったのかな」
イズミの齢は三十とちょっと、である。普通なら結婚していておかしくないどころか、よちよち歩きの子供がいても何ら不思議はない年頃だ。実際、風の便りでは同級生の結婚報告がそれなりの頻度で入ってくるし、年賀状では家族写真のそれが送られてくることも多くなっている。
「何言ってるんだ、イズミ殿。まだまだ若くてこれからじゃないか」
「そうですよ。それに……よかったら、ミルカなんてどうです?」
「ちょっと奥様っ!?」
「おお。そうだな、あと三年経っても互いにいい人がいなかったら……」
「イズミさんもッ!」
冗談めいたそのやり取りも、こうして無事に一つの困難を乗り越え、家で安らぎを得ているという実感をもたらしてくれた。
「んま! んま!」
「やー、でもホント……ようやっと、一息吐けたというか、安心できたというか……」
「帰らずの森のど真ん中とはいえ、敵に襲われる心配もないし、食料の心配も無いのだものな……。ちょっと前なら、こうして安寧の場所でみんなで語り合うことができるなんて考えられなかったのに。もうこのまま、一生ここで過ごしていても問題ないくらいだ」
「一生はさすがにな。俺は別にそれでもいいけど、テオの情操教育的に良くないだろうし、ミルカさんも奥様もペトラさんも、こんな何もない森の中でこんなつまらない男とずっと暮らすっていうのは退屈だろう?」
これから。
何の問題もなく憂いも無くなった今、考えるべきはこれからの話だ。今までは森から出られないという物理的な問題があったが、イズミが手にした新たなる力──家そのものを呼び出すという力があれば、この森を脱出することは難しくない。時間はかかるかもしれないが、時間なんて腐るほどあるのだから。
奥様達の国に戻ってケジメをつけるのか、あるいは、昔のことなんてきれいさっぱり忘れ去って諸国漫遊の観光旅行に出かけるのか。もちろん、このまま森に引きこもって悠々自適の生活を過ごすというのも選択肢の一つだ。
いずれにせよ。
「しばらくは休むぞ。最低でも一か月は。好きな時に寝て好きな時に食って、好きな時に風呂に入って……そんなダメな大人の見本みたいなぐうたら生活を過ごしてやる」
「ええ、ええ。それが良いですわ。幸いにして、それを咎めるような人たちなんて、ここにはいませんもの」
難しいことを考えるのは後に限る。先送りしても問題のないことならば、そうしたほうがいい。何より今は、互いに体を万全の状態に戻すのが先決であった。
「うー! だうー!」
「……それにしても」
腕の中でにこーっと笑うテオを見て、イズミはふと考えた。
「今更ながら……どうして、俺はこの世界にやってきたんだろうな」
何の前触れも予兆もなく、ある日突然イズミは家ごとこの世界に呼び出された。玄関を出たら、気づけば目の前に森が広がっていて、そしてそのまま元に戻ることなくこうしてこの世界に居続けているのである。
普通だったらあり得ない事象だ。これで何かしらのきっかけがあればまだ納得ができるのだが、大地震が起きただとか、宇宙人が襲来しただとか、あるいは未曽有の超常現象が起きただとか……そう言った特別なことは、イズミの知る限り何一つとして起こっていないのである。
「なぁ、奥様って未来とかそういうのに少し詳しいんだよな? ……俺がこの世界に来た理由とか、そういうのって知ってたりする……のか?」
なんとなく思いついた、そんな考え。
奥様は少し悲しそうに、首を横に振った。
「残念ながら、私にもさっぱり……そもそも、異界の人間がこの世界に現れたということ自体、記録に無いことですから」
「そっか。まぁ、そうだよな」
「ですが……根拠も何もない推測、程度であれば」
「おっ?」
別に推測でも何でもいい。どのみち既存の科学じゃ説明できない事柄である以上、それの妥当性なんてイズミには判別できないのだから。
軽く目で促すと、奥様はゆったりと物語を聞かせるように語りだした。
「万物には流れが宿っています……。人の命も、そして運命でさえも。つまるところ、この世の全ては水に喩えることができるのだと思うのです。……尤もこれは、私が水の巫女だからこそ、そう思えてしまうのでしょうけれども」
「実際それで飯食ってるんだから、事実だとは思うぜ」
「ふふ、ありがとうございます……。それでですね、この水の流れという喩えは、もしかしたら世界そのものにも適用できるんじゃないかなって」
「ふむ?」
「今までは他の世界の存在なんて考えもしなかったのですが……そう考えると、ある程度しっくりくるところがあるのです」
ぴん、と奥様は人さし指を立てた。
「世界とは、流れが集まることでできた一つの水たまり……いいえ、もっと大きな池や泉のようなもの。それはきっとおそらく、互いに混じることなく何かで隔てられている。隔てられているからこそ、別個の世界として存在している」
「池の一つ一つが世界……なるほどね。流れという意味でも、別世界って意味でも強ち間違っていないのかも」
今度は逆に、イズミが語る番だ。
「それが、何らかの理由によりたまたま一部が流れ出して別の水たまりに入っていった。誰かがいたずらで水路でも掘ったのか、急な雨で溢れたのか……その理由はわからないけれど。その流れ出た一部ってのが、たまたま俺とあの家だったってわけだ」
「うふふ……近い、ですがちょっと違うと思います」
「……つまり?」
「イズミ様の世界である水たまりより、この世界の水たまりは下にあった……何かの揺らぎで、ほんの少しだけ零れてしまったのがイズミさんだと思うのです」
水路を掘って連結したのなら、もっとたくさんの何かがこの世界に流れ込んでいる。水があふれた場合もまた然り。確認できる限りではイズミとあの家しか「流れ込んで」いない以上、ちょっとした揺れでコップから水か零れてしまったのに等しいのではないか……というのが、奥様の考えであるらしかった。
加えて。
「この上や下という考えは、イズミ様に魔法の素養が無いことからも概ね正しいのではないかと」
「そうなのか? 魔法の素養のある方が上なような気もするけれど」
「逆ですよ……。私たちには魔法の素養が必要ですが、イズミ様の世界は、魔法なんてなくても十分にやっていける上位の世界ってことなんですよ。だからこそ、下位の世界の技術である魔法がイズミ様に効き難いのです」
「あー……なるほど、そういう考え方もできるのか……」
上手く言語化するのは難しいが、イズミの世界、ひいてはそこに属する存在そのものがこの世界のそれに比べて上位に位置するのだという。だからこそ、「揺らぎ」によって流れ込んできたのは上から下方向、すなわちイズミの世界のものであり、そして上位世界の存在であるイズミには下位世界の存在である魔法があまり効かない。存在としての格が違うからこそ、そこに決定的な違いが表れている。
「もちろん、最初に言った通りあくまで推測でしかありませんが……」
「いやいや、なかなか興味深かったよ。たとえ推測だろうと、筋はしっかり通っているし……どうせ、真実なんざ誰にもわからないんだ。なら、俺の中ではこれが真実さ」
ほんの少しだけ触れることのできた世界の仕組み。根拠も証拠もない憶測だけのそれ。しかしなぜだか、イズミにはそれが真実であるように思えてならなかった。
「……」
そして、一つの事実に思い当たってしまう。
(……上から下へ流れ込んだのが俺だってことは、その逆は難しいんだろうな)
二つの水の入った皿。何らかの拍子に上の皿の水が下の皿に流れ込むことはあっても、その逆だけは絶対にありえない。もし下の皿から飛び出すことがあるのだとしたら、さらにその下に行くしかない。
もしかしたら、探せば上に行く方法もあるのかもしれない。だが、そんなものが果たして本当にあるのか……あったとして、簡単に実行できるものなのか。科学的に考えても、時空間移動なんてことはホイホイできるものではない以上、それはおそらく天文学以上に絶望的な確率になるのだろう。
つまり。
「……どうしました、イズミさん。そんな……なにか、思い悩むような顔をして」
「いや、大したことじゃないんだ。ただ……」
ミルカに声をかけられ、ふっとイズミは顔を上げる。
どうせ、田舎で独身一人暮らしをしていた自分だ。親はとっくに逝ってるし、妻子はおろか恋人すらいない。無断退職になってしまったのだけは気にかかるが……自分の代わりなんて、探そうと思えばいくらでもいる。
はっきり言って、今の働かなくても自由に暮らせる生活を考えれば、前の世界への未練なんて、実はそんなにないというのがイズミの実情だった。
「零れ落ちたのが、俺でよかったなって。すごい偶然だろうけど、こうしてミルカさんにもテオにも会うことができた。奥様とペトラさんも助けることができた。これだけでもう、俺の生まれてきた意味を成し遂げたような気分だよ」
「う! あう!」
「……なんか、さらっと恥ずかしいことを言ってくれますね」
腕の中のテオがぱたぱたと動き、そしてミルカがほんの少し顔を赤らめる。
「そう、だな……もし零れ落ちたのがイズミ殿でなければ、私たち全員、こうして生きてはいなかっただろうよ」
「ええ、本当に……。ミルカとテオは森に朽ちていただろうし、私とペトラは動く死体になってこの辺を彷徨っていたかも。水の縁と加護には悪いですが、今はただイズミ様に祈りをささげたいです」
「──あ、やっぱ偶然じゃないかも」
「え?」
水の縁。そして水の加護。やっぱりどこまでも奥様は水の巫女で、そして水や流れというのはイズミについて回るものであるらしかった。
「たぶんだけど、奥様も……そしてテオも、水の加護とかそういう系のアレがある感じだろ? 水の神様が見守ってくれている的な」
「え、ええ……言いたいことは何となくわかりますわ。水の巫女である私はもちろん、この子も強い水の加護がありまして……水がこの子を助けたり守ることはあっても、水がこの子を傷つけることは絶対にありえません」
「やっぱりな……そういや、あのときテオがすごい水の魔法を操ってみせたのも、その水の加護があったからだったりするのかな」
「そうかもしれませんが……単純に、私が襲われているのを見て感情が爆発したのも理由の一つかと。……それで、いったいどうして偶然ではない、と?」
「──イズミ」
たった三音の言葉。イズミの口から発せられたそれに、奥様もペトラもミルカも、不思議そうに首を傾げた。
「……イズミ殿の名前が、どうかされたのか?」
「そっちにどんな風に聞こえているかわからないけれど……個人の名前なんだから、「い」・「ず」・「み」の三音で聞こえているよな?」
「え、ええ……」
「これな……俺の国の言葉で、泉って意味なんだよ。水が湧いているほうの泉。イズミと泉……こっちでは同じ発音なんだけど、違って聞こえる?」
「は、はい……! ぜ、全然違って聞こえます……こっちでは泉の発音は「いずみ」ではないので……! むしろ今までイズミさんが泉を別の発音で話していたってことに初めて気が付きました……!」
「あはは、俺にはどっちも同じ「いずみ」に聞こえるぜ……」
何度も確かめるようにいずみ、いずみと呟く三人を見て、イズミは思わずくすりと笑う。この謎の翻訳能力の仕組みは未だにわからないが、名前のイズミと水の泉はイズミにとってはどちらも同じ「いずみ」だ。おそらくは言い分けることができるのか確かめているのだろうが、イズミからしてみればなかなかに面白い光景だった。
「でも、偶然ではないって……ああ、そうか!」
「そう。テオには水の加護があるんだろ? 水が助けてくれるんだろ? じゃあ、そんなテオを助けるのは──泉がふさわしいんじゃないかな」
本当かどうかはわからない。はっきり言って、こじつけとしか言いようがない。
それでもやっぱり──真実なんて誰にも分らない。ならば、信じたいそれこそを、真実としてしまってもいいはずだ。
「俺がこの世界に来たのは、偶然じゃないんだろうよ。水の縁とやらで……テオを助けるために、みんなを助けるために俺が選ばれたんだと……俺は、そう信じることにする」
「だーう! だーう!」
「ふふ……そうかも、しれませんね!」
ミルカとテオを助けたのはあの雨の日だ。思えばそれも、イズミという異質な水とこの世界の流れを繋いだものであったのかもしれない。それがあったからこそ、ミルカとテオは追手から逃げることができて、そして最低限の喉の渇きを潤し、イズミの家へとたどり着くことができたのである。
なんにせよ。
「……うー?」
「また、こうしてお前を抱っこすることができて……ホントに、よかったよ」
腕の中であどけなく笑うテオを見て、イズミは心の底からそう思った。ほんの数か月前、こちらに迷い込んでしまったときには考えられないような温かで幸せなこの現状に、心の底から感謝した。
願わくば、いつまでも、いつまでもこの幸せを噛み締めていたい。この温かで穏やかなそれを、感じ続けていたい。
それは……その流れは、これから紡いでいくものである。その流れの先にどんなものが待ち受けるかなんて、今のイズミには、そして水の巫女である奥様にも、確かなことはわからない。
だからこそ。
「改めて……しばらくは、ここでゆっくりしよう。あとのことはそのあと考えればいい」
テオににこりとほほ笑み、そしてイズミは改めて目の前にいる三人に笑いかけた。
「どれくらいになるかわからないけど……これから、よろしくな」
はい、という三つの言葉が、夕焼けの茜に染まる部屋に響いた。




