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ハウスリップ  作者: ひょうたんふくろう
ハウスリップ
43/99

43 帰還


「……う、ん」


 大事な何かを忘れているような気がして、イズミは目覚めた。


 なんだか妙に体が張っている気がする。ずっと狭いところでじっとしていたかのようにギチギチで、凝り固まったかのように首が動かしづらい。


「あ、あー……」


 おまけに体が乾ききっている。喉がカラカラであるのを通り越して、口の中がパサパサだ。ちょっと声を出そうにも掠れるばかりで、思ったようにしゃべることができない。


「……」


 まぁでも、いいか。


 最近はなんだか、すごく忙しくてとても疲れていたような気がする。たまの休日くらい、こうして自分のベッドで惰眠を貪るのも悪くない。


「……っ!?」


 そうではない。自分はとっくの昔に休日とかの概念を捨て去った生活をしている。起きたいときに起きて、寝たいときに寝て。好きな時に好きなものを好きなように食べて。そして……たまに襲い来る魔物どもを鉈でブチ殺していたはずだ。


 そして、ここ最近はさらにイレギュラーがあった。なんだかんだで森の中を行軍していて、まともなベッドで──こんなに暖かで、良い匂いのする寝床で寝ている余裕なんてこれっぽっちもなかったはずだ。


「……あ」


 次第に覚醒していく頭。だんだんと、イズミは眠る直前……自分が何をしていたのかを、思い出してきていた。


「そう、だ……俺、蛇に噛まれて……」


 あの時イズミは、最後の最後で予想外の襲撃を喰らい、異世界原産であると思われるだいぶヤバそうな毒蛇に噛まれた。噛まれてすぐに意識が朦朧とするレベルの毒で、ああ、もうこれは助かりそうにないな──とひそかに覚悟を決めたところまでは覚えている。


 問題なのは、そのあとだ。


「……なんで、俺」


 いつものベッド。いつもの枕。いつもの──自分の部屋。


 今イズミが寝ているのは、紛れもなく自分の部屋のベッドの上である。決して毛布を適当に敷いただけの森の中でも、ましてやあの暗くて陰気臭い、血と腐臭と埃の匂いに塗れたガブラの古塔でもない。


 そして、気づく。


「……ミルカ、さん」


 すうすう、と小さな寝息。先ほどから妙に違和感があると思えば……ミルカが、イズミの片手を握り、ベッドに突っ伏すようにして静かに寝息を立てている。ちょうどイズミの腕あたり、まさに目線の先にその明るい茶髪の頭があった。


「……」


 どれだけ長い間、その寝顔を見ていたことだろう。やがて、ふるふるとその長い睫毛が震えて。


「……あ」


 そして──彼女のヘイゼルの瞳と目が合った。


「イズミ、さん……!?」


「ぁ、あー……おは、よう」


「イズミさん……っ!」


 ぎゅっと、イズミの体は柔らかくて暖かく、懐かしい匂いのするものに抱きしめられた。



▲▽▲▽▲▽▲▽



「その、お恥ずかしいところをお見せしました……」


「いやァ、むしろ役得ってやつさ。ぜひとも次もお願いしたいところだね」


「……んもう!」


 目を伏せ、頬を赤らめるミルカを見て、イズミはそんな軽口を叩く。少し前なら絶対にできなかった気の置けないやり取りに気分を良くし、そしてミルカが台所から持ってきた水をごくりと飲んでのどを潤した。


「……やっぱ、飲ませるの上手いな」


「ええ、それはもう」


 もちろん、イズミはケガ人で臥せっている状態である。腕をまともに動かせないから、いつぞやとは逆にミルカに飲ませてもらっているような状態だ。


「……む」


 口元からそっと離されたコップ。つうっと口の端から雫がつたたり、イズミの首元にくすぐったい感覚がやってきた。


「さて、お口を拭きましょうね?」


 にこやかに──わざとらしすぎる笑みを浮かべて、ミルカがイズミの口元にタオルを宛がった。


「おう、よろしく頼む」


「……もっと恥ずかしがってくれてもいいじゃないですか」


 口元を拭われたところで、イズミに羞恥を感じるはずがない。むしろラッキーとすら思えている。それで照れるような時代はとっくに過ぎ去っているし、ましてや相手はミルカだ。互いに気心が知れている仲で、この程度じゃもうなんとも思わない……どころか、むしろからかってやろうという気さえ起きるくらいである。


「……これで、ようやく落ち着きましたね」


「ああ……」


 意識ははっきりしている。喉も潤った。体は相変わらずミシミシ言っているが、直ちに影響が出るレベルじゃない。


「俺が気絶した後……どうなった? みんなは無事なんだよな? なんで、俺は今ここに……俺の家にいる?」


 聞きたいことが、山ほどある。いったい何がどうなって、どういう経緯で今に至るのか。わからないことだらけで、何から聞けばいいのか迷うくらいだ。


「そうですね……まず、全員無事です。奥様もペトラも衰弱が激しかったですが、命に別状はありません。もちろん、テオも。私たちの中では、イズミさんが一番重傷でした」


「そうか……そうか!」


 これだけでもう、イズミの中に堪らない達成感と喜びが湧き上がってくる。自分はとうとうあの困難を乗り越え、目的を果たすことができたのだと──自分の行動や判断に間違いはなかったのだと、何か大いなるものに認められたような気がした。


「そして、ここはイズミさんのお家です。イズミさんが一番御存知でしょうが、やはりあの結界に守られているため、安全です。……ゆっくり回復に専念することができますし、食料や水の心配もありません。今日からはもう、ずっとこの暖かいベッドで、好きなだけ寝ていてもいいんですよ」


「よかった……なんとか、帰ってくることができたんだな。……俺を担いでここまで戻ってくるの、大変だっただろう?」


「いえ……覚えていませんか? ここに帰ってこれたのは紛れもなくイズミさんのお力ですよ。私たちがしたことなんて、イズミさんを家の中に運んだくらいですから」


「……じゃあ、最後の瞬間に見たアレは……夢や幻なんかじゃなかったのか」


「最後の瞬間、というのはよくわかりませんが……いえ、見ていただいた方が早いかも」


 すっと立ち上がり、ミルカは窓のほうまで歩いていく。そして、明るい日差しを取り入れるように閉め切っていたカーテンを開いた。


 その先にあったのは。


「う、わー……」


 高く高くそびえる、石造りの塔。


 それは紛れもなく、ガブラの古塔であった。


 明らかに、窓から見える光景が異なっている。以前までなら、石塀の向こうにはどこまでも深い森が広がっていたはずだ。なのに今は樹なんて一本も見えず、ガブラの古塔だけが窓の四角いフレームの中に映っている。


 きっと見えないだけで、石塀の向こうには動く死体の残骸や石の騎士の鎧も転がっているのだろう。


「……てっきり、帰ってきたものだとばかり思っていたんだが。帰ってきたんじゃあなくて……いや、帰ってきたのは間違いないんだけど」


 イズミが家のあった場所に帰ったんじゃなくて、家の方がイズミのところへやってきている。窓の外の景色が突き付けてくるのは、純然たるその事実だ。


「は、は……いったい何がどうなってやがる……というか、こんなことができるなら、森の中を進むのももっと楽にできたじゃないか……」


「あー……それについては、色々諸々説明がありますというか……私より、奥様の方がうまく説明できると言いますか……」


「あれか? 【奥様に会えれば万事解決】ってのと、【言いたくても言えない】とかそういう……」


「まさにその件ですね」


「……そういやァ、奥様とペトラさんはどうしたよ?」


「……それはおいおい説明するとして!」


 ぱん、とミルカが手を叩く。あからさまに話題を逸らされたが、それをあえて突っ込むほどイズミは野暮じゃなかった。


「シーツを換えましょう。どうせなら洗濯したての綺麗な物の方がいいでしょう? ずっと同じシーツだと、治るものも治りませんもの」


「それもそうだな……ん? 待て、俺ってどれくらい寝込んでいたんだ?」


「ええと……ちょうど今日で三日目ですわ」


「マジか」


 あえて触れるまでもないが、そんなに長い間寝込んでいたのはイズミの人生の中でも初めての経験である。普通の人間ならまっとうに生きていて三日間も意識が無いなんてことまずありえないだろう。


 道理で、体は軋むし喉はカラカラだったし……と思ったところで。


「え……ちょっと待て……今更だけど、俺、何を着て……」


「……」


「それに、なんか妙にさっぱりしている……」


「……」


「あの……」


「……さすがに、汗塗れ血塗れ泥塗れの状態で、放置はできませんでしたわ」


 感覚で理解できる。今履いているのはあの汗がしみ込んでいい加減うんざりしていたパンツじゃないし、着ているのは自分でもこれは無いんじゃないかと思うくらいに臭っていたシャツでもない。


 清潔な、きっちり洗濯してある……ともすれば下ろしたてと言っていいくらいに綺麗なそれらである。こんなにも肌触りが清々しいのだから、それは疑いようがない。


 そして、今イズミが着ているのはいつものパジャマだ。


 つまり、そういうことだった。


「……イズミさんも太もも……というかお尻の後ろの方に、大きなホクロがありました」


「お、おう……」


「あ、あと……! 殿方は気にされると聞きますが……て、テオのと比べたらずいぶんと!」


「赤ん坊と比べられても情けなくなるだけだよ!」


「じ、実家のお父さんのよりも!」


「それはそれで聞きたくなかった!」


 顔を赤らめ、ミルカは必死に弁明する。いったい自分の意識が無い間にどれだけのことをされてしまったのか、どこまで色々諸々晒してしまったのか、イズミは聞くのがちょっと怖くなってしまった。


「わ、私だって色々見られたんですからおあいこですっ! それも、自分でも知らなかったあちこちのホクロまでしられて……!」


「……俺は紳士的に対処したのに、ミルカさんは興味津々でマジマジ見たんじゃないか」


「マジマジとなんて見てませんっ!」


「うう……もう、お婿に行けない……」


「へえ。その時は私がもらってあげますよ。そうすれば万事解決……むしろ未婚の婦女の、ら、裸体を嘗め回すようにして見たイズミさんの方がはるかにいい思いをしているんじゃないですか?」


「……それもそうだな!」


「納得しないでくださいッ!」



▲▽▲▽▲▽▲▽



 そんな茶番をして、シーツを換えて。いい加減おなかが空いてきたので、そろそろ飲み物以外でも何かおなかに入れておきたいな……と思ったところで、イズミの部屋のドアが開いた。


「イズミ様……!」


「よかった……目が覚めたのだな……!」


 奥様──ルフィアと、ペトラが無事な様子でそこに立っている。ミルカが言った通り二人とも大きなけがはなく、少し頬がこけている節は見受けられるものの、少なくともあの囚われの状態に比べたら十分に健康体と言えるくらいに肌色は良い。


「あ……すみません、着替えは適当に使わせていただきました……」


「ああ、いや……それは全然問題ないんだが……」


 じろじろと……というか、信じられないように二人を見るイズミを見て、ミルカが弁明するように口にする。


 さすがのイズミも、あの襤褸に等しい布切れを若い女に着させ続ける趣味はない。地球の裏側の貧困地帯とかは別においておくとして、目の前にそんな人がいたのなら、自分の持っている古着の一つや二つはすぐに提供したことだろう。


 問題なのは。


「……よりにもよって、部屋着用のクソダサTシャツとジャージか」


「う……な、何か問題があったか……?」


「ま、まさかとんでもなく高価なものだったり……!?」


 逆である。ペトラが着ているクソダサTシャツは、安かったからネットで適当に買ったものだ。白地に落書きのような間抜けな表情の猫が描かれていて、その横には【あいらぶおさかな】とこれまた気の抜けた字体で書き込まれているという、酔った勢いでもなければ誰も買わないような逸品だ。


 そして奥様のは、いい加減だいぶ草臥れてきた緑色のジャージだ。まだイズミが都会で働いていたころに買ったもので、着心地だけはいいものの、逆に言うとそれ以外には何のとりえもない。もし深夜のコンビニで同じ格好の女を見かけたら、「ああ、きっとこの人の私生活はズボラなんだな」……と、十人中九人がそんな感想を抱くようなものだ。


「全然高価じゃないし、むしろそんな安っぽいものしかなくて申し訳なくなってくるくらいだよ」


「うふふ。またまたそんなご冗談を。こんなにも肌触りが良くて、伸縮性もあって……私、こんな気持ちのいいお洋服は初めてですわ」


「全くだ。それに、これだってずいぶんと上等なしっかりした生地だし……この絵も、なかなか味があるうえにどうやって描いたのかまるで想像できない」


「……」


 奥様もペトラも、初めて会ったときと比べてずいぶんと印象が違う。


 綺麗な銀髪に、テオとよく似た碧の瞳。どこか儚げな雰囲気がありながら、それでいて優しさに溢れた顔立ち。身長はイズミよりも頭一つは小さく、全体としてほっそりしていて思わず守ってあげたくなるような……そんな雰囲気を放っている奥様が、自分のズボラジャージを着ている。そのギャップが何だか面白くて、イズミは変な扉を開けそうになった。


 親しみのある赤毛に、深い蒼の瞳。全体的に力強く、可愛いというよりかはカッコいいという言葉が似合う顔立ち。女性にしては身長が高めで、アスリートを思わせるようなしなやかで無駄のない、肩回りや腰回りもしっかりした体つき。そんな凛とした雰囲気を持つペトラが、自分のクソダサTシャツを着ている。何の他意もなく泊まりに来る女友達がいたとしたら、きっとこんな感じなのだろうとイズミは思った。


「改めて……私たちを助けてくれて、本当にありがとうございます。もう、何てお礼を言えばいいか……」


「ここまで来てくれたことも、塔から脱出できたのも……イズミ殿がいなかったら、私たちはあの塔に朽ちて動く死体の仲間になっていたことだろう。本当に、本当に……ありがとう」


「お、おう……」


 あの時は全然気づかなかったが、二人ともやはり相応に美人だ。体を清潔にしているのはもちろん、何より髪の色が文字通り比べるべくもなく輝いている。むしろ、栄養状態が最悪で、ろくに体を清められなかった状態と比べるほうがおかしいと言っていい。


 しかも、明らかに。


「……なに、照れてるんですか」


 二人からは、風呂上がりの……寂しい男の一人暮らしでは絶対にあるはずのない、特有の甘い匂いがする。


「いや……なぁ?」


 真横からじとっと睨まれて、イズミはぎこちなく目を逸らす。平常に戻った今、奥様とペトラと落ち着いて話すのは初めてであり……要は、初対面のそれに近い。ミルカ以外の女性とは長らく喋っていなかったイズミにとっては、これはこれでそれなりに緊張する事態であった。


「おっと、テオは?」


「うふふ……テオなら今、お昼寝中ですよ」


「さっきまで奥様が寝かしつけていて、交代で湯を頂いたんだ。……ある程度はミルカから事情を聴いたが、本当にすごい家だな」


 ああ、だからさっきミルカは言葉を濁したんだとイズミは思い当たる。そして、自分はろくに話していないことに気づいた。


「じゃあ、改めて──こんな格好で申し訳ないが」


 こほん、とイズミは咳払いをした。


「俺は四辻 イズミ。俺の家へようこそ、お二方──歓迎するぜ」


 そして、こっちこそが大本命。


「──知っていることを、洗いざらい話してもらおうか!」


 悪人のようににやりと笑ったイズミを見て、奥様はちょっぴり困ったように笑った。いつのまにやらミルカが座布団を引っ張り出してきていて、横たわるイズミに寄り添うように、三人がそこに腰を落ち着ける──という様相になっている。


「ええ、もちろんですとも。……そうですねえ、まずはどこから話すべきか」


 どれから聞きたいですか、と奥様は小さく首を傾けた。


「そーだなァ……。いろいろあるが……まずは、あの鍵の正体からだ」


 奥様がミルカに宛てた手紙に書いてあった鍵。これを持って囚われた奥様の元にたどり着くことさえできれば、あとは帰りのことなんて気にせず何もかもが上手くいく……と、最初はそういう触れ込みであった。


 しかし、実際には奥様はあの鍵が事態を打開する鍵になることは知っていても、それがこの家の鍵であることは知らなかったし、それをどう使えばいいのかもわかっていなかった。挙句の果てに、ただ奥様の元にたどり着くだけではだめで、最後の最後で【魔封じの外に出る】という条件まで追加されたという経緯がある。


 考えてみれば、最初から最後まで徹頭徹尾不思議なことだらけである。いったいどうして奥様は鍵の存在を知ることができたのか、どうしてそれで物事を解決できると判断したのか。結果的に見れば、今こうして誰もが無事でこの家に帰ってくることができているが、それだっていくつもの偶然が重なった結果に過ぎない。


 奥様は、にこりと柔らかく笑いながら告げた。


「端的に言いますと、あれはイズミ様の力そのものです。……もう、ご自身で何となく、気づいているのではありませんか?」


「……」


「私にはその感覚は理解できませんが……ええ、それ(・・)を体験した人はみんな、昔からそれができていたかのように……心のどこかに、それが宿っているのが感じられると仰っていました」


 ──House slip


 あの時イズミの心の中に浮かんだ、一つの呪文。呪文と言うよりかは、そのまんま単語の羅列ではあるが、たしかにそれは──今現在も、イズミの心のそこに宿っている。言葉ではなく感覚で、イズミにはそれがはっきりと理解できた。


「……この家を、呼び出す力。より正確にいえば、鍵を持った家主(おれ)の呼びかけで、家を転移させる力か」


「ええ……おそらくそうだと思います。あの時……最後の瞬間、イズミ様は鍵を用いてこのお家をここに呼び出しました。おかげでこうして安全な場所で、魔獣や動く死体を恐れることも無く……こうして、過ごせているというわけです」


「なるほどな。この家の鍵は、この力を使うための文字通りのキーアイテムだ。そして、この力を使えるならば、奥様達を助けた段階でミッションクリアになる。帰り道なんて考える必要が無い……万事解決とはよく言ったもんだ」


 そもそもこの旅の最大の懸念点として、奥様達を救出した後の帰り道が挙げられていた。水も食料もそんなに多くは運べないし、イズミとミルカという二人だけなら魔獣をやり過ごすことができても、そこにさらに二人護衛対象ができてしまったらにっちもさっちもいかなくなってしまう。また、行きは探知の魔道具があるので道に迷う可能性は低かったが、帰りはそれがない。慣れない森歩きを考えると、遭難する可能性が大いにあった。


 でも、家の方からこっちに来てくれるなら、それらの心配は全部解決する。


「よし。鍵の正体についてはわかった。次にいこう」


「次……っていうと、何になるかしら……」


「……そもそもなんで、この鍵のことを知れたんだ? 鍵の使い方すら知らなかったのに、どうしてこれさえあれば問題解決になるって確信してたんだ?」


 その疑問に答えたのは、意外にもペトラの方であった。


「そうか……よく考えなくとも、イズミ殿は異界の人間であったな。ならば、知らないのも当然か」


「その口ぶりだと、他の人なら知っていてもおかしくない……ってことか?」


「ああ。我々、正確にはなぜ奥様が鍵の存在を知っていたのか……その答えは」


「その答えは?」


「──奥様が、水の巫女だからだ」


 水の巫女。それ自体はイズミもミルカから聞いている。偉い立場ではあるが貴族ではなく、なんか水の魔法の素養がとんでもなく高くて、歴代トップの実力を備えている。所属としては神殿で、巫女の立場で国に貢献しているという特別な立場なのに、クソ旦那がその巫女に手を出したから今回の事件につながった……と、そんなあらましだったはずだ。


 だが、しかし。


「宗教的……でいいのかわからんけど、すごい立場の人だってことくらいしか俺にはわからない。どうして、それが答えになる?」


「あら……ええと、ミルカから聞きませんでしたか? 水の巫女の役割を。たぶん、結構ざっくりというか、ふわっとした感じだったとは思うのですが」


「ええと……なんか、命と流れの象徴とか言ってたような」


「ええ。まさにそれです」


 ぱん、と奥様は可愛らしく胸の前で手のひらを合わせた。


「水とは命と流れの象徴。そして人はみな、時の流れ、運命の流れ……あなた自身の命の流れに身を委ね、その生命を謳歌している。流れは常に形を変え、変化し、いくつもに分岐して、そしてまた戻ってくる。ありとあらゆる可能性……あなた自身が乗っている流れに、あなたそのものと言う流れ。水の巫女とは、それをほんの少しだけ理解し、ほんの少しだけ導くことができる存在なのです」


「んんん……? つまり、わかりやすく言うと……?」


「奥様は人の運命の流れを読み解くことができる……簡単に言うと、未来予知ができるんだよ」


「マジかよ」


 水とは命と流れの象徴。時もまた流れる以上、一種の水である。生命は流転し、回帰するのであればそれもまた流れ。形を変え、あらゆる可能性を持つ水であるからこそ、水の巫女としてその流れを読み解くことができれば、一種の未来予知、予言のようなことができるらしい。


「それこそが、水の巫女の役割の一つ。神殿では、疫病や大飢饉、魔獣の発生など……流れを読み解くことによって、未曽有の脅威を発生する前に取り除く役務を務めておりました」


「ほぁ……つまり、その力を使って鍵の存在を知ったのか」


「ええ。ただし、すごく感覚的な話になるのですが……流れの先を見るというのは、物理的にその光景を見るということではなく……こう、感じ取ると言いますか……事実としてそれを理解できても、その詳細まではわからないのです」


「その光景を目で見たり、耳で聞いたりできる……ってわけじゃないらしいんだ。普段なら、それでも十分に内容は理解できるものなんだが」


「この世界にはない鍵が、この世界には存在しないはずの家を呼び出す鍵となっていて、帰り道の心配もせず安全地帯に籠城できる……そりゃあ、意味が分かんねえな」


「ええ……私もあの流れを読み解けたとき、本当に何が何だか……そして、お気づきの通りこの力は決して万能ではないのです」


「ふむ?」


「まず第一に、自分の意志で流れを読み解くことはできません。それができるのは、その流れを感じ取れた時だけ。予兆や兆候は一切なく……本当に突然、ふっとその流れを感じるのです」


「まぁ、それもそうか」


 自分で好きなだけ未来予知ができるのなら、そもそも奥様達はこんな目に遭っていないだろう。クソ旦那と結婚したらどうなるかもわかっていたはずだし、今回の襲撃だって回避できていたはずだ。石の騎士の対処も、最後の蛇の攻撃だってどうにでもなっていたはずである。


「そして……流れを読み解くというのも、あくまで今この場から流れの先を見て、予測しているだけにすぎません。決して、流れの行き先そのものを直接見ているわけではないのです」


「……つまり?」


「──読み解いた流れは、そのあとのちょっとした出来事に影響を受けて、いくらでも変わってしまうということですよ」


「イズミさん。私が【言いたくても言えなかった】のはこれが理由です。これは奥様の付き人としての経験則ですが、予知された未来を達成したいのであれば、出来るだけ余分な情報は広げないようにして、自然に、あるがままに過ごしたほうが良いんです。下手に結果を知って、その通りにしようと動いたら……」


「……それ自体が影響因子となって、元の予知した光景とかけ離れた結果になる、ってか」


 SFなどでよく見る、バタフライエフェクトとかの類だろうとイズミはあたりをつけた。さすがにその手のことは専門ではないが、現代日本では似たような話をいくらでも見ることができる。それに、最初に想定していた条件と異なる条件で運用すれば結果が変わる……なんてことは、流れだのなんだのというマジカルでオカルトなことを交えなくてもわかりきっていることだ。


「オーケー、理解できた。つまり奥様は、手紙を書いた段階で鍵の力を使えば解決できるってのはわかっていた。水の巫女の予言だから、ミルカさんも詳細はわからずともその事実は信じられると判断できた。でも、その事実そのものは……どうしてそうなのかを俺に説明するのは」


「ええ……どうしても、この水の巫女の予知の話をしないといけません。そうすると、イズミさんは予知であるという前提で行動をしてしまうことになる。そうなると……」


「せっかくの予知の意味が無くなる。だから、信じてくれと言うほかなかった……上手くできてんなァ」


 今から思い返してみれば、思い当たる節はいくらでもある。言いたくても言えなかったのは、ひとえにその希望の予知を達成させるため。最初から最後まで、ミルカは水の巫女の予知という力に触れない範囲で、開示できる情報をイズミに教えていたのだ。


「塔の途中で、【上手くいきすぎてるから問題があるかも】……みたいな話をしていたのも」


「そうだな。イズミ殿が異世界人だなんてわからなかったから、動く死体があんなにあっさり片付けられるとは想定していなかったんだ。この状況にイレギュラーもへったくれもないだろうが、あまりに予想外過ぎたから、そういう意味で不安ではあった」


「実際、石の騎士っていうラスボスもいたもんな……あと、水底に映った月云々の話も」


「け、結構いい例えではありませんでした……? 月が未来のことを示していて、それに向かって下手に色々しようとすると、その未来が見えなくなっちゃうっていう……!」


「わかるよーな、わからないよーな……あの時の異質な水っていうのは、つまりこの世界の人間でない俺のことを指していたのか」


「ええ……イズミ様が関わっていたからか、いつものそれに比べてずいぶんと読みにくいと言いますか……こう、どことなくぼやけてわかりにくいような……」


「ちなみに補足ですが、以前お伝えした通り、奥様の水の巫女としての力は歴代でも指折りです。こんなにもはっきりとした予知ができた巫女は、今まで一人もいなかった……と、そう伝わっています」


「俺としちゃ、ざっくりでも予知ができるってだけで十分すごいと思うよ」


 種明かしをしてみれば、本当に最初から最後までそれらしい言動でいっぱいだ。逆に、ここまでそれらしい事実が突き付けられているのに、どうして自分は察することができなかったんだとさえ思えてくる。


 忘れがちだが、ここは魔法が存在するファンタジーだ。イズミの常識で物事を考えようとすること自体が間違っているのである。


「……そういえば、俺の肩って砕けていたような気がするんだけど」


「ああ、そちらは私が治療させていただきました。これでも水の巫女ですからね! 魔封じさえなければあれくらいちょちょいのちょいですよ!」


「あ、ど、どうも……」


 砕けた肩に痛みはないし、擦り傷、切り傷特有のヒリヒリした痛みも無い。ミルカもペトラも奥様もその類の傷は見受けられないところを見ると、きっと奥様が魔法で全部治療したのだろう。命と流れの象徴である水の巫女ならば、その程度は造作もないのだろうと素人であるイズミにも推測することができた。


「もちろん、イズミ様の毒も同じように治療したのですが……魔法毒の割合が普通のそれとかなり違っていたのと、元々イズミ様には治癒の魔法が効きにくいようで……肩も含めて、治すのにかなりの時間がかかってしまいました。同じように毒を喰らったミルカは、すぐに回復したのですが……」


「ああ……それはたぶん、俺に魔法の素養が全くないのも関係しているんだろうな。治癒の魔法の詳しい仕組みは知らないけど、少なからず本人の魔法的な何かに働きかけたりしてるんじゃないか?」


「詳しく調べないとはっきりしたことは言えませんが、おそらくは。……なので、私の治癒魔法にあまり大きな期待はしないでください。……その代わりと言っては何ですが、おそらくイズミ様は……魅了や幻惑、あるいは純粋に魔力だけで構築された炎など、被対象者に魔法的に作用する魔法については、恐ろしい程の耐性があると思います。たぶんですが、あの蛇の魔法的な毒もあまり効いていなかったんじゃないかと」


「なるほど。良い意味でも悪い意味でも、魔法への耐性があるってことか」


 とはいえ、なんだかんだで治っていないのはあくまで外的要因ではない、疲労や衰弱といったものばかり。こればかりはもう、美味しいものをたくさん食べてゆっくり寝て休むしか解決方法はない。


「あと、最後に一つ……」


「なんでしょう?」


「実際問題として、俺はあの瞬間まで自分にあんな力があるなんて知らなかったぞ? それなのにどうして、予知で俺が鍵を使うってのがわかったんだ?」


「それは……水の巫女のもう一つの役割に関わってきますね」


「もう一つ?」


「ええ。水の巫女の役割は、治療に予知、そして……喚起、とでもいうべきものです。さらに言えば、それこそが最初に【私に会えばすべてが解決する】という予知につながるものだった……のだと、思います」


「……」


「あなたの中に眠っている、その本質──力の流れ。私はちょっとだけ、その流れを導くことができます。行き場もわからず淀んでいたそれを、正しい方向へと導いてあげられるのです。これ即ち──」


「本人に眠っている潜在能力を、引き出す?」


 奥様は、にこりとほほ笑んだ。


「その通りです。体験した人からは、体の中に眠っていた力が湧き出て溢れ出すような……なんて、言われていますが。私の感覚としては、ちょっと手招きして引っ張ってあげているような、そんな感じですね」


 蛇に噛まれた後の、あの感覚。確かにアレは、ちょっと流れを整えてもらったというよりも、自分では気づかなかった新たな力があふれ出してきたと表現したほうがふさわしい。


「本来だったら、俺が奥様に会った段階でこの能力を呼び起こしてもらって、それで解決だった。でも、魔封じのせいで喚起が使えなかった」


「だから、魔封じの外に出る必要があったってことですね。……少し、予知が外れてしまったのだと思います」


「喚起の力は魔法なんだろ? 俺に普通に効いたのはなんでた?」


「んー……力ずくで無理やりいけたのか、あるいはイズミ様の能力そのものは魔法じゃないからか……現に、あの時から一度もイズミ様の魔法の匂いはしていませんし」


「ま、今となってはどうでもいいか……ふぁ」


 どれほどの時間話し込んでいたことだろう。いい加減喉が渇いたし何より眠くなってきて、イズミの口からは大きなあくびが漏れた。


 何気なく窓の方を見てみれば、空が真っ赤に染まっている。紛れもなく夕焼けだ。さっきまでは全然気づかなかったが、イズミが起きたのはどうやら午後の遅い時間であったらしい。


 大あくびを擦るイズミの様子を見て、ミルカが優しく声をかけた。


「あら……おねむの時間ですか? まだ本調子ではないですし、今日はここらでお開きといたしましょうか」


「ん……そうだな、どうせ時間はたっぷりあるんだ……飯の時間になったら、起こしてくれると嬉しい」


「ええ。では、そのように……もう、結構しっかり食べられそうですか?」


「あー……スープと、卵粥くらいで。デザートも何かあるといいな」


 にこっと笑って、ミルカがそれを了承する。そして、再びイズミをベッドに横たわらせようと、その肩を支えよう……として。


「あ……ちょっと待って、ミルカさん」


 イズミが、それを止めた。


「わがままだってことはわかってるんだが……テオ、テオを抱きたい。ちゃんとした抱っこはダメだろうが、ベッドの上で……膝に乗っけて抱っこするくらいならいいだろ?」


「体は痛く……いえ、痛かったとしてもやり通すって顔してますね」


「そりゃな?」


「……奥様?」


 最後の最後。まだ、イズミはテオの顔を見ていない。無事だっていうことは頭では理解しているし、奥様もペトラもミルカもこうしてここにいる以上、心配することなんて何一つとしてないのだが……それでも、眠りに落ちる前にどうしてもイズミはテオのことを抱きしめておきたかった。


 もしかしたら。


 この瞬間が夢で、起きたらまたあの悪夢のような現実に引き戻されるのかもしれない。今この光景は、蛇毒に魘された自分が見ている最後の夢なのかもしれない。現実の自分は、まだあの塔の前で倒れ臥せっているのかもしれない──なら、夢の中であろうとも、テオのことを抱きしめておきたいと、そんな心がどこかにあったのかもしれない。


「是非もありません……そろそろ起こさないと夜眠れなくなっちゃいますし、抱っこしてあげてくれますか?」


 そんなイズミの心を見透かしたかのように、奥様は柔らかく微笑んで、その旨を了承した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ペトラが着ているクソダサTシャツは、安かったからネットで適当に買ったものだ。白地に落書きのような間抜けな表情の猫が描かれていて、その横には【あいらぶおさかな】とこれまた気の抜けた字体で書き…
[良い点] やはりジャージは最高
[一言] 家に帰る魔法ではなく、家が帰ってくる魔法ww
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