42 決着、そして。
化け物同士の潰しあい。それはまさに、凄惨と言うほかなかった。
数で勝る動く死体に、質で勝る石の騎士。互いに真っ当な生物でないからか、互いに何を攻撃しているのかまるでわかっていないらしい。
石の騎士は、ただひたすらに目の前にいる邪魔な存在を叩き潰していた。イズミという明確なターゲットの前に塞がるそいつらを、敵の協力者だと認識して攻撃していた。
動く死体は、ただひたすらに獲物の匂いを追っていた。その獲物はどうやら強力な壁の後ろにいるようで、さっきから近づこうとしても近づけない。だから、その邪魔な壁を壊そうとそれに引っかいたり噛みついたりしていた。
石の騎士も、動く死体も。互いに互いが邪魔だから……獲物の前に立ちふさがっているから襲っている。もしどちらかに少しでも知恵があり、ちょっと道を避ければ、その瞬間にすべては瓦解し、イズミも奥様もあの世行きになってしまったことだろう。
しかし、そうはならない。ここにきて、まっとうな生物でないというそれがイズミ達の助けになっている。
「い……イズミさんっ!」
「ミルカさんっ!」
石の騎士と動く死体を大きく迂回し、ミルカがイズミの下へとやってきた。もちろん、ミルカに抱かれているテオも一緒である。
「い……いったい何がどうなって……!? あの、大きな石の騎士は……!?」
「ええと……石の騎士は塔の番人みたいなやつで、普通に俺にも攻撃してくるやつだ。だから、動く死体に襲われる奥様がそれを逆手にとって……俺たちじゃ、あいつは倒せなくて……!」
「……そうだ、ペトラは!? ペトラはいったい……!?」
「ペトラさんはまだ塔の中だ! たぶん、ケガをして動けない状態だと思う! 俺はここを動けないから、だから……!」
「お任せください!」
以心伝心。イズミがはっきり言う前に、ミルカは塔の中へと入っていった。あくまで石の騎士の狙いはイズミである以上、イズミがここを動くわけにはいかない。それにどうせ、もう塔の一階に脅威は無いのだ。ミルカが塔の中に入ることに、何の問題も無い。
問題があるとしたら。
「くっ……!」
「ちくしょう……いつまで持つんだこれ……!?」
必死になって石の騎士にしがみつく、奥様の方だろう。単純に、若い女──それも、水の巫女などという明らかに温室育ちであろう彼女が、そういつまでも激しく動くその背中に引っ付いていられるわけがない。ましてや、ろくに飲む物も食べる物もない状態でついさっきまで過ごしていたのだ。衰弱しきっているのは疑いようがない。
そのうえ、奥様は石の騎士にも動く死体にも狙われる存在である。腕の力が尽きたが最後、あっという間に殺されてしまうだろう。今でこそ石の騎士はイズミを狙っているが、奥様が攻撃可能になったらどう動くか……イズミには判断がつかない。
イズミの見立てでは、もって五分。イズミはこの間に、何とかしてこの場をどうにかする方法を考えなくっちゃいけない。
「……チッ」
石の騎士と動く死体。倒せる可能性が高いのは、間違いなく動く死体の方だ。すでに十何匹かが石の騎士によって叩き潰されており、数が減った今ならば殲滅させることは難しくとも、奥様達を逃がすことくらいならできるだろう。
だが、それこそが問題だ。今でこそ石の騎士と動く死体の戦いは拮抗しているが、少しずつ、少しずつ石の騎士の方が押してきている。
それは単純に、動く死体の数というアドバンテージが少しずつ薄れてきたことと、そもそもとして……動く死体の攻撃が、石の騎士に大して効いていないことが理由であった。
「見誤ったか……!?」
数に任せて、動く死体共は石の騎士に攻撃してはいる。噛みついたりひっかいたり、あるいはそのまま押し倒そうとしたり。たが、石の騎士のその鎧は頑丈で、少しも堪えた様子はない。重く大きく頑強なその体は、動く死体共の物理的な圧力を受けても、押しつぶされるはずが無かった。
「状況は、よくないようだな……!」
後ろから聞こえてきた、そんな声。
「……ペトラさん! 無事だったか!」
「ああ、おかげさまで……すまん、借りた鎌、折ってしまった……」
「いいんだよそんなもん!」
「そうですよ! それよりあなた、もっと自分のことを……!」
「はは、それはお互い様だろうに……」
ミルカに肩を支えられたペトラは、明らかに負傷していた。命に別条のあるようなそれではないが、どうやら足を痛めているらしい。一応何とか歩くことはできているが、先ほどまでのように全力で動くというのは無理だろう。今だって、相当無理をしていることが──一歩進むたびに、苦痛に顔をゆがめている。
「……どうする? どうしてこうなったのかはわからないが……たぶん、この様子だと動く死体は倒せるだろう。だが、石の騎士は……」
「待ってくれ……! それを今、考えている……!」
逃げる。たぶんできる。だがそれでは意味が無い。ペトラとミルカとテオだけ逃がす。それもできる。でもやっぱりそれも意味が無い。可能であるなら、ペトラとミルカの力は借りたい。というか一人で何とか出来る気なんてまるでない。
そうなるともう、石の騎士の打倒は絶対条件。どうにかして倒さなければ、みんなでここから逃げきるというそれは達成しない。
「動く死体どもも……くそ、さすがに爪だの噛みつきだのではあの石の騎士は倒せないのか……。数が多くても、それが届かない……!」
「……いっそのこと、私が奥様の代わりになるというのはどうでしょう? そもそもとして、奥様とイズミさんが合流出来たら解決できるって話ではありませんでしたか……!?」
「魔封じの外まで出ないとダメだってよ……! あとミルカさん、そういう自己犠牲的な奴は……」
「ならばなおさら! イズミさんと奥様が魔封じの外に出ればいいってだけじゃないですか! それに、奥様が魔法を使えたら、あんな石の騎士なんて……!」
「冷静になれ、ミルカ。……そもそもどうやって、石の騎士の背中に張り付くつもりだ? 動く死体の中を突っ切るのか? 突っ切れたとして、あの騎士の隙を突いて背中に回れるのか?」
「……う」
話している間にも、動く死体は次々に「動かない」死体になっていく。今ではもうすっかり、最初の時ほどの圧はない。このままでは全滅するのは時間の問題……いや、そもそも全滅を待たずに、動く死体がイズミの方へ突撃してくる恐れさえあった。
「ちくしょう……! なんか、なんかないのか……!? 石の騎士の弱点は……!」
「普通、あの手の化け物は魔法で倒すのがセオリーだ……。剣や弓が効かないなら、そうするしかない……」
「でも! その魔法がここでは使えないんですよ! それに、仮に使えたとしても私の風魔法じゃ……! やるなら、火の魔法で思いっきり爆発させるとか……!」
「──それだ!」
火の魔法。爆発。そんな言葉が、イズミの頭の中で一つの線を結んだ。
「あるじゃねえかよ……! 使えそうなやつが……!」
「い……イズミさん? それは、いったい……?」
イズミは黙って、ミルカの腰元のホルスターを指さした。
「それ──クマよけスプレーだ。そいつをぶち込もう」
「え……でも、これ、生き物にしか効かないって……あの石の騎士、どう見ても普通の生き物じゃない……」
「──そいつな、火気厳禁なんだよ。うっかり火が燃え移ると、爆発する」
多くの例に漏れず、クマよけスプレーも火気厳禁の一品だ。噴射のために高圧ガスを使用している以上、それはある意味当然ともいえる。そのパッケージには裏の方に大きく【火気厳禁】のそれが示されていて、イズミのその考えに相違ないことが見て取れた。
「虫よけスプレーもあったよな? あれも火気厳禁で、火が点いたら吹っ飛ぶぞ。俺のクマよけスプレーも併せたら、都合スプレー三本分……! これなら、きっと!」
「い、いやしかし……! どうやって火をつけるんだ!? 導火線も何もないし、ここで点けて投げ入れても、奴には届かないかも……届いたとして、威力は確実に減衰するぞ! あとは、玉砕覚悟で火をつけたまま突っ込むか……!」
「──ありますよ、導火線!」
「何ィ!?」
ミルカが取り出したのは、道中では終ぞ使うことのなかった爆竹だ。本来なら害獣を脅かすために持ってきたものであり、爆発としての威力はあまり期待できないが、爆発物であるため導火線はついている。
「いいぞ……! そうだ、こいつをあの鎧の中にぶち込んで、中から爆発させてやろう……! スプレーも一緒に入れておけば、絶対に引火して爆発してくれる……!」
「威力の減衰どころか、これ以上ないくらいに効果的ですわ……! 離れる時間も、稼げます!」
そうと決まれば、話は早い。
「奥様ーっ! 聞こえるかーっ!」
大きく大きくイズミは叫ぶ。イズミの気持ちが届いたのか、単純に呻く動く死体が少なくなってきたからか。ともかく奥様はイズミのことをはっきりと見て、大きくうなずいた。
「なんとかして、その騎士の兜を取ってくれーっ!」
「首の後ろに、留め具があるはずですーっ! そこを外せば、あとは少し押すだけで取れますーっ!」
ペトラのその言葉を聞いて、奥様は必死になりながら騎士の首元を弄りだした。元より不安定な体勢で、そして騎士は動いている。やりにくいことこの上ないだろう。
「いける……いけるぞ……! 動く死体もかなり減っている……! これなら、なんとか隙を突いて鎧の中にスプレーを突っ込めれば……!」
見えてきた勝ち筋。照らされた一条の希望の光。順調で、しかし波乱万丈な旅の終わり。予想外の困難を乗り越え、最後の最後の試練にも打ち勝てそうな兆しが見えてきた。
「──あっ」
「……え」
落ちた。
奥様が、騎士の背中から落ちた。
力尽きたのか、それとも留め具を外す際に油断したのか。細かい作業に集中しすぎて、うっかりしていた可能性もあるが……いずれにせよ、その事実は変わらない。
──ガ、ゴ、ギ、ゴ
──オォ、オ、オオオォォ!
「……あ」
さっきまで背中に引っ付いていたそいつ。粛清対象だったそいつが、ようやく剣の届くところに出てきてくれた。
さっきまで壁の向こうにいたそいつ。美味しそうな匂いのするそいつが、ようやく手の届くところに出てきてくれた。
石の騎士と動く死体の気持ちを言葉にしたなら、きっとそう言った感じになるのだろう。重要なのは、奥様が石の騎士の背中から落ちた段階で、両者ともに目の前の存在と戦う必要が無くなったということだけだ。
「お、奥様ぁぁぁ!」
「逃げて、逃げてぇぇぇぇぇ!」
ペトラとミルカが叫ぶ。
しかし、何の意味も無い。
当然だ。そんな叫び声の一つや二つで奴らが動きを止めるのなら、イズミ達だってここまで苦労していない。
──ゴ、ゴ、ゴ、ゴ
石の騎士が大剣を振り上げる。動きそのものは鈍重だが、それはどこまでも、果てしなく大きい。斜めから振り下ろせば、すぐ下で横たわっている奥様なんて、あっという間にぺしゃんこにすることができるだろう。
「やめて、やめてぇぇぇぇ!」
奥様の顔に、大きな影が迫る。
奥様は、ちらりとこちらの方を向いて──にこりと笑って、静かに目を閉じた。
「うあああああんっ!!」
血なまぐさいこの場に似つかわしくない、赤ん坊の泣き声。
それと同時に、一条の水が薙ぎ払われた。
何が起こったのか──イズミには、まるでわからなかった。ただ、絶体絶命だと思われたその瞬間、傍らから閃光のように水が迸ったのだ。ウォーターカッターのように鋭いそれは、イズミ達の目の前にいた動く死体の胴を両断し……そして、石の騎士の膝の関節を撃ち抜いている。
当然、膝の関節を撃ち抜かれたならバランスは崩れる。ましてやあの巨体で、あの重量だ。そんな状態で狙った場所に剣を振り下ろせるはずはなく──剣が叩きつけられたのは、奥様のすぐ隣、何もない場所であった。
「あ……あなた、まさか……!?」
イズミには気づかなくとも、ミルカとペトラにはわかった。
「テオ……!? あなた、魔法を……!?」
「嘘だろ……!? この魔封じに打ち破るほどのものを……!?」
「うああああんっ!」
もしイズミが魔法の匂いを感じることができたのなら、振り返るまでもなく「それ」をしたのがテオだということに気づけただろう。魔封じが効いているだとか、赤ん坊はまだ魔法を使えるはずがないだとか、そんな常識をあっさり否定できるほどに、今そこにはテオ自身の魔法の匂いが強く残っている。
そして。
──ガ、ギ、ギ、ギ
撃ち抜かれた膝。巨体を支えていたそれ。大事なものがいきなり使えなくなれば、まともにバランスを取れるはずもない。剣を杖代わりになんとか倒れずに踏ん張っているが、つまり。
「よくやったテオぉッ!!」
走る。
後ろを振り返ることも無く、イズミは全力で走った。
その意図が読めたのだろう。ほんの一拍遅れて、同じように誰かが地面をける音が聞こえた。
「ああああああッ!」
走る。
全力で走る。
近づくほどに大きくなる、その巨大な石の鎧。ほんの少し前は、コイツから逃げるために──頼むから気づかないでくれと心の底から祈りながら走ったが、しかし今は違う。
今はむしろ、逆。
イズミは、こいつを打ち倒すために走っている。
「往生せいやぁッ!」
石の騎士の膝裏への、全力のタックル。撃ち抜かれて脆くなっているとは言え、元が石とも鉄ともつかないそれだ。イズミの肩からはぐしゃりと何かが砕ける音がして、そして今までに感じたことのない程の激痛が頭のてっぺんから足の先までビリビリと走っていく。
が……確かに。
間違いなく、そのタックルにより石の騎士の体勢がぐらりと揺れた。
「お背中、失礼しますッ!」
背中に感じる、衝撃。
気づいた時には、同じように走り出していたミルカがイズミの背中を踏み台にして、石の騎士の背中に張り付いていた。
──ゴ、ゴ、ゴ、ゴ
「ええい、おとなしくしてなさいッ!」
片足が砕けてなお──体勢を戻そうと、石の騎士は無理やりに動いている。目の前にいる敵を抹殺せんと、己が役目を果たそうと必死になっている。しかしそれを実行するには大剣を振るう必要があり、それをしようとすれば──間違いなく、倒れる。
結果的に、石の騎士のその抵抗は、ミルカを振り落とすまでには至らなかった。
──ガチッ
酷く重い、金属質な音。
「留め具、取れました!」
「よっしゃ! ──せーのでいくぞ!」
「ええ!」
痛む肩を考えないようにし、イズミは石の騎士から五歩ほど距離を取る。
「せぇぇのッ!」
そして、再び全力でその膝裏にタックルをかました。
それと同時に、ミルカは兜を押し、背中を蹴るようにして騎士の背中から飛び降りる。
脆く、体を支えられない脚。不自然に押し出された上半身。振り子のように大きく揺れた巨体は、やがて物理法則に則り──ドスン、と大きく倒れた。
「よっしゃああああ!」
留め具を失った兜は、その勢いでゴトリと落ちる。首無しの鎧は起き上がろうともがくが、元々そういう風には作られていないのだろう。明らかに関節の可動域が足りず、まるで手足がもげた虫のようにぴくぴくと奇妙に蠢くことしかできていない。
何より重要なのは──イズミの目の前に、虚ろでがらんどうな鎧の首元の穴があるということだ。
「覚悟しろよオラァ!」
クマよけスプレー。虫よけスプレー。すぐ使えるように専用のホルスターに入れておいたそれを、イズミはためらうことなくその鎧の中に突っ込んだ。
「よくも奥様とペトラを……!」
爆竹。家から持ち出してきたものを全部まとめて、ミルカも鎧の中にそれを突っ込んだ。自分の腰にあったクマよけスプレーも、当然のように投げ入れている。
「ミルカさん、火は!?」
「……ああっ!?」
「受け取れぇッ!」
後方からぶん投げられた松明。ペトラが投げたそれは、くるくると回転しながらイズミ達の目の前に落ちた。イズミはそれをろくに見ずにひっつかみ、流れるように鎧の中に投げ入れる。
「奥様! ミルカさん! ずらかるぞ!」
返事を聞く前に、イズミの体は動いていた。近くに倒れていた奥様の腕を取り、無理やり立たせて肩を貸す。同じくミルカも反対側に回り、奥様の腕を自らの肩にかけた。
「走れぇッ!」
走る。
二人で奥様を抱えるようにして、走る。もう、後ろなんて見ていられない。やるべきことをやったのだから──というより、もはやそんなことを考える余裕すら今のイズミにはなかった。
一歩、二歩、三歩。
通常だったらあっという間のその距離を進むのに、とてもとても長い時間がかかり、そして。
──ヂヂ、ヂヂヂ!
「……ッ!」
後方から聞こえてきた炸裂音。思わず足がもつれ、倒れ込んだ。
──ォォンッ!
最初に聞こえたのは、爆竹の音だった。何十連あったかわからないが、そのすべてに一斉に火が点いたのだろう。元よりそういう風に作られているだけあって、弾けたそれが鎧の中で何重にも反射し、反響して、まるでお寺の鐘を滅多打ちにしているかのような音が聞こえていた。
その次の瞬間には、思わず耳を塞ぎたくなるような大きな音が、ほぼ同じタイミングで重なるように三つ聞こえた。クマよけスプレーと虫よけスプレーに引火したのだろう。それが松明の火によるものなのか、爆竹によるものなのかはわからないが──いずれにせよ、けたたましい爆竹の音をかき消すほどにそれは大きく、離れていたイズミ達の体を震わすほどのものであった。
「……やったか!?」
おそるおそる、イズミは振り返る。首元から白とオレンジの混じったような煙を絶え間なく漏らした鎧は、ピクリとも動いていない。
「……なんとか、なりましたの?」
ミルカが不安そうにつぶやく。首無し鎧は、少なくとも遠目では大きな損壊は見受けられない。腹の中で爆発したことには間違いないが、さすがに鎧を吹き飛ばすほどには至っていない。
沈黙。
火薬の匂いと、クマよけスプレー特有の刺激臭が風に乗ってわずかにイズミ達のところへと届く。動く死体の腐臭は、鼻が慣れて感じ取れなくなっていた。
「……あ!」
イズミとミルカに支えられた奥様が、声を上げた。
「魔封じが……どんどん弱まってる……! もう、今にも完全に……解けた!」
「え……それって……」
魔封じが弱まる様なこと、イズミはした覚えがない。それができるなら、真っ先にそうしている。そもそも、魔封じがどんな仕組みで、どこにどうやって仕掛けられているのかもしらないのだ。イズミがやったことなんて……文字通り、あの石の騎士の腹の中を爆破したくらいである。
「──あの騎士を、倒したってことですよ! きっとあいつが、魔封じそのものも司っていたんです! もう、そうとしか考えられないです!」
「……マジか」
本当かどうかはわからない。重要なのは、魔封じが解けたということと──あの石の騎士が、本当に石になってしまったかのようにピクリとも動かないということだけだ。
「奥様、ミルカ、イズミ殿……大丈夫か!」
「ペトラ!」
ペトラが、痛む足を引きずるようにしてやってきた。
──その腕には、ミルカから託されたテオが抱かれている。
「ああ、テオ、テオ……!」
「うあああん!」
ペトラの腕の中で、テオは泣きじゃくっている。そんなテオを見て、奥様は目に涙をいっぱいに浮かべ、心の底から安心したように笑った。
「よかった……よかったぁ……! また、会えた……!」
「ええ──あなたの、お坊ちゃんです。ミルカとイズミ殿がここまで守ってくれた……あなたのテオ坊ちゃんです」
「……抱いてやりなよ、奥様」
「ええ……! 今までできなかった分、強く、強く……!」
イズミに支えられて立ち上がった奥様は、震える腕をそっと伸ばした。ミルカがその腕をそっと支えて、ペトラがそこにテオを手渡す。
「ああ……! テオ……!」
「……う?」
泣きじゃくっていたテオが、ぱちくりと瞬きして。
「……んま!」
奥様の顔を見て、にこーっと蕩けるような笑みを浮かべた。
「テオ……!」
奥様はテオを愛おしそうに抱きしめた。強く、優しく抱きしめた。
抱きしめられるのが心地よかったのだろうか、テオは今までに見たことないくらいににこにことほほ笑んで、キャッキャと笑っている。
「……いいもんだな」
「ええ……! なんだか私も、もう泣いてしまいそう……!」
「いいんじゃないか、泣いても。どうせここには俺たちしかいないんだ。わんわん泣いたところで、動く死体でさえ寄って来やしないよ」
「あら……それではお言葉に甘えて、胸をお借りしてもよろしいですか?」
「……そういう時は、何も言わずにさっとそうするほうがかわいいと思うぜ」
「あら、言いますわね」
にこやかに笑いながら、ミルカは指でそっと目元をぬぐう。これは自分の方から抱きしめに行くべきだったか──と踏んだイズミは、一周回って振り切れてしまったテンションのまま、ミルカの肩をそっと抱いた。ミルカもまた、遠慮がちに……されど、甘えるようにしてイズミの胸元に頭を預ける。
響く笑い声。殺伐とした空気はどこへやら、今そこには確かに、暖かな空気が流れている。
「……おい、後ろッ!」
だから、気づくのに遅れた。
「え──」
振り向く。
大きな──マムシとよく似た黒い蛇が、特徴的な威嚇音を発しながら、飛び掛かってきていた。
どこから来たのか、なんてことを考えている余裕はない。スローになった、まさしく人生の走馬灯を見ているような時間のさなか、はっきりわかっているのはそれがテオに食らいつこうと飛び掛かっているということだけ。今まさにそいつの体は空中にあって、あと瞬きを二回するうちにはその毒牙をぶっすりとテオの柔肌に突き立てることだろう。
もし、イズミに余裕があったのなら。
そいつが──誰にも注目されていなかった、転がり落ちた兜の中から出てきていたことに気づけたかもしれない。
「……っ!」
奥様が、テオを抱きしめるようにしてかばう。
「……!」
ミルカがさらに、その背中を守るように壁となった。
「させるかァ!」
反射。
ほぼ、意識すらしていない。
自分でも驚くほど自然な動きで、イズミは今まさにテオに飛び掛かっていた蛇の鎌首をひっつかんだ。
飛び込んだ勢いが一気にゼロになり、その蛇はぶらりと大きく振り子のように振れる。当然、途中で掴まれてしまっては、テオの下までその毒牙は届かない。
「へ、へへ……! てめェ、せっかくの親子の再会に水を差すんじゃねぇぞ……!」
がっちり、がっちり掴んだ。イズミの手のひらからは、蛇が必死に逃げようと動くあの独特の感覚がしっかり伝わってくる。
所詮、蛇は蛇だ。最大の武器である頭を抑え込んでしまえば、あとはもう煮るのも焼くのもこちらの自由である。そりゃあ、海外の大きな蛇であればこの状態でなお腕を締め折られることもあるだろうが、この大きさならばその心配もいらない。
あとは、そのままぐるぐると振り回してぶん投げるだけ。
──普通だったら、それで終わりだった。
「覚悟はいい……あ」
するり、とイズミの手から蛇が滑り落ちた。
何のことはない。
汗だの血だの──そういったもので、イズミの手が酷く滑りやすくなっていたというだけだ。
──シャウウ!
「あ」
気づけば、首に違和感。
確認するまでもなく、その蛇がイズミの首元に噛みついていた。
「イズミ殿ぉ!」
あれ、おかしいな──とイズミは思う。
どうして、ペトラの声がこんなにも上の方向から聞こえてくるのだろうか。どうして、体全体がこうも気だるく、指の一つも動かせないのだろうか。どうして、背中から土の感触がするのだろうか。
どうして、こんなにも体が寒くて……そして、目がかすむのだろうか。
「やられた──こいつ、毒蛇だ!」
ああ、自分は噛まれたのだと薄い意識の中でぼんやりとイズミは考えた。たった一噛みでここまでの威力と即効性を持つ蛇だ、きっと異世界特産のヤバい奴なんだろう──と、イズミはすっぱりと切り落とされて転がっていく蛇の頭を見て、そんなことを思った。
「くそっ……! ここまできて──ミルカ!?」
あれ、おかしいな──とイズミは思う。
蛇はもう死んでいるはずなのに、さっき噛まれたところが妙にムズ痒い。おまけになにか暖かで柔らかいものが自分の上半身に載っていて、なんだかとてもいいにおいがする。どこか懐かしいような、いとおしいような。さっきまでは血と泥の匂いしかしなかったというのに。
そして、首元がとてもくすぐったい。
「こんな……認めませんよ! 一緒に帰るって、三人で並んで寝るって約束したでしょ……!? あなた、私に恩の一つも返させずに死ぬなんて、絶対嫌ですから……!」
ああ、そうか。
首元がくすぐったいのは、ミルカがイズミの噛まれたところに吸い付いて──毒を吸い出そうとしているからだと、イズミは合点がいった。
「や、め……ろ」
「イズミさん!? ……いいえ、やめません! もう話さないで下さいまし!」
「みる、か、さんも……あぶな、い。ど、く、うつ、る……」
「こんな時くらい自分のことを心配してください! ちょっとでもよくなるなら、あなたに助けていただいたこの命……惜しくはありません!」
「ばか、やろ、う……こ、れ、ほん、とに、やばい……」
漫画や小説の中でよくある、【毒を直接吸い出して応急処置する】……というのは、仕組みだけ見れば強ち間違ってもいない。あくまで応急処置レベルという前提のもと、ポイズンリムーバーなどはまさに物理的に毒を吸い出す機構に他ならないのだから。
問題なのは、それを人の口でやるというその点に尽きる。ちょっと噛まれただけですぐ人一人を倒すような強力な毒が、吸い出されて人の口の中に入ったら……どうなるかだなんて、子供にだってわかることだろう。
「……ぐっ!?」
「ほ、ら……おれの、こ、とは、いいから……やめ、ろ」
「やめる、ものですか……!」
──ちゃんと元気な時に体験したいシチュエーションだったなァ。
薄れゆく意識の中、イズミは場違いにもそんなことを思った。
──まぁでも、目的は果たせたかな。
奥様も護衛も助けた。母と息子は無事に再会できて、追われていた四人はこうして、無傷と言えないまでも無事に自由の身となっている。どうせ死んだと思われているだろうから、あとは目立たずつつましくしていれば──普通の、それなりの人生を歩めるだろう。
「──させませんよ、そんなこと」
何かが、イズミの胸に触れている。
そこから──自分でも恐ろしくなってくるほど深い【どこか】から、例えようの無い流れが注ぎ込まれ……否、湧き出づるのを、イズミは確かに感じ取った。
「な、ん、これ……ッ!?」
「──言ったでしょう? 私とイズミ様が、魔封じの外に出ることができれば万事解決だって」
大いなる予兆。何か偉大なるものが、確かにイズミの体から滾滾と溢れてくる。それはとどまることを知らず、今にもイズミの体を突き破って噴き出しそうなほどであった。
「ミルカ……鍵を。鍵を、イズミさんに」
「え……ええ!」
胸元を弄られるのを、イズミは感じた。
金属質のそれが、自分の手のひらに押し付けられて……ぎゅっと、握りしめられた。ちょうど、二人で一緒に握る様に。指と指を絡めて、絶対に落とさないように。
「さぁ……怖がらないで。これは元々、あなたの力。あなたの奥底に眠っていた、あなた自身の本質。私はただのきっかけ──あなたの流れを後押しし、そしてしかるべき方向に導いているだけにすぎません」
もう、イズミの体ははじけ飛びそうだった。体が熱くて熱くて、どうにかなってしまいそうだった。
でも、不思議と恐怖はない。これは自分の力なのだと、これは自然なことなのだと、本能で理解できている。
「さぁ……願って! あなたの望みはなんですか? あなたはこの力を、どう使いたい? あなたは何のために、この力を振るいますか?」
「お、れは……」
頭の中に浮かぶのは──テオの笑顔と、ミルカの笑顔。
「かえり、たい……! いえに、かえりたい……! あったかい、ふとんでねて、あったかい、ふろにはいって……! みんなで、あったかい、めしをくって……!」
家。暖かな場所。団欒。幸せなひととき。
富も名誉も権力も、イズミには必要ない。イズミが心の底から望むのは──そんな、ありふれた安らぎと温かさに満ちた、幸せな時間だ。
「ならば願って! 強く望んで! あなたが望めば──それは現実になる! あなたの力は、そのためにある!」
もう、言われなくてもわかった。
わかったというよりかは、感じ取ったというほうが近いかもしれない。
それは、自転車の乗り方を覚えるように自然なことで。そして、人に瞬きの仕方や手足の動かし方を教えられないのと同じように、出来て当然の……当たり前すぎる感覚であった。
「……」
鍵を握る右手が熱い。
当然だ。
鍵というのは、そのために存在するのだから。
「……はう、す……り、っぷ」
──【House slip】
薄れゆく意識の中。
イズミは、見慣れた門扉と玄関のドア──懐かしの我が家を見た。




