37 『もう、大丈夫だ』
「……奥様」
「……」
「……奥様?」
「……え、ええ。……聞こえて、いるわ」
ガブラの古塔。この罪人の流刑地に転移させられてから、いったいどれだけの時間が経ったのだろう。あれほど美しかった奥様の髪はすっかりと傷み、その肢体は見ていられないくらいに痩せこけて……綺麗な声も、すっかり掠れ果てている。
「お気を確かに。もうすこし、もう少しだけ耐えれば……きっと、助けが来ますとも」
「ええ……そうね」
ああ、本当にふがいない。あの時自分がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに。もっと早くに敵襲に気づいていれば、もっと自分が強ければ、もっと奴らの残虐さを理解していれば……後悔の念ばかりがどんどんと心を苛んでいく。
「……」
本当に、この塔に閉じ込められてからどれだけの時間が経ったのだろう? 石造りの何もない、本当に寂しげな部屋にずっと閉じ込められているものだから、もう時間感覚もすっかりなくなってきている。一応、天井近くの壁にぽつんと一つだけ明り取りの窓が申し訳程度にはあるが……。
「ねぇ、ペトラ……」
「はい、奥様」
「そこに、いる……?」
「ええ、もちろん」
暗い。本当に暗い。真昼間であるはずの今でさえ、かろうじて相手の体が見えるかどうかといった暗さだ。この中じゃ本を読むことも、編み物をすることも……ボタンを留めることだって難しいかもしれない。
「……あ」
そんな中、ひときわ目立つものと言えば。
「……飯の時間か」
部屋の端にある、小さな魔法陣。私たちがここに転移させられてきたときに通ったそれ。この暗闇の中でもうすぼんやりと輝いていて、一日に一回、わずかばかりの水とほとんど腐りかけた小さなパンが送られてくる。
「奥様。お水が来ましたよ」
「……ペトラ、あなたが飲んでちょうだい。私、喉乾いてないもの」
「……」
「おなかだって全然空いてないから……」
「……」
「ダメよ、ホントに……ちゃんと、日々の糧は感謝しながら頂かないと」
「奥様」
「……塔を探索してくれるのは、あなたでしょう? 私は、何もできないもの。あなたが飲むのが一番いい」
「……」
「私を助けたいと思うなら……そうしてくれると、私は嬉しい」
ああ、どうして。
どうして奥様は、こんな状況なのにこんなにも穏やかに笑われるのか! どうして自らの命を犠牲にしてまで、私なんかを助けようとするのか! いったいどうして、護衛の任務を果たせなかった私に、恨み言の一つも言ってくれないのか!
「今日は……今日も、探索には行けていません」
ガブラの古塔。古より伝わる罪人の流刑地。死刑にできない罪人が罪を償うための修行の地──と表向きにはそういうことになっている。実際私も、こうして奥様と共に転移させられるまでは、その正体なんて想像することすらできなかった。
転移の魔法陣のあるこの小部屋。おそらく最上階なのだろう。過去の罪人の遺したものか、申し訳程度に生活の痕があって、そしてこの部屋唯一の出入り口である扉がある。
あそこを通って、塔の外に出ることができれば。何とかしてこの暗く陰気臭い塔を出ることができれば、それで助かると思っていた。奥様の巫女としての力があれば、たとえこの塔が世界の果てに建てられていたものだとしても、何とかなると思っていた。
が、実際はどうだ。
──オ、オオ……!
「……」
「……元気な隣人さんたちね」
耳をすませば聞こえてくる、動く死体たちのうめき声。錠の一つもトラップの一つもない、簡単な扉だと思って外に出て、階段を下りてみれば。
真っ暗闇の中から聞こえる邪悪で恐ろしい声。見えなくても肌で感じる悍ましい気配。呆然としている間には闇の向こうから萎びた腐りかけの手が伸びてきて、そして私は一目散に元の部屋へと逃げ込んだ。
「……」
ボロ布と大して変わらない囚人服。食料も水も大幅に制限され、何より明かりと武器が無い。そんな状態で、死体たちが蠢く闇の中を突っ切るなんて──無理だ。
「……やっぱり、ちゃんと食べない? あなたの怪我、治るものも治らないわ」
「……かすり傷ですよ。舐めとけば治ります」
行けると思った。最初のうちは、死体なんて素手でもなんとかなると思った。実際、徒手空拳でやたらめったら腕を振り回すだけでも、脆い死体にはそれなりに効果があったのだろう。ほとんど何も見えない闇の中、はるか向こうに見える光だけを目指して、いろんなものをぶち壊しながら駆け抜けて……。
そして、窓の外を見て絶望した。
どこまでも広がる、森。ここが一体どこなのか、皆目見当もつかない。
そして、高い。これじゃあ窓から外に逃げるのは無理だし……なにより、それはここが何層ものフロアによって成り立っていることを示している。あの死体が蠢く地獄のような闇を何度切り抜ければいいのか、まるで想像ができない。
そして、気づく。
もし、万が一……私が探索途中に力尽きたらどうなるのだろう?
私は別にいい。自らの役目を果たせなかった愚かな人間だ。ここで朽ちるのも、それが自身の運命だったのだと受け入れることができる。
だけど……残された奥様はどうなる?
この暗く陰気臭い、死体が蠢く塔の中、暗い小部屋に閉じ込められて……最後まで一人で孤独に過ごす? あの、奥様が?
──そんなの、絶対にあってはならない。
「……私のことなんて気にせず、探索に行ってもいいのよ。あなた一人なら、もしかしたら逃げられるかも」
「何を仰いますか。そんなことしたら、また奥様に食事の量をごまかされてしまいます」
「……ちゃんと、あなたに全部あげてるじゃない」
「私に全部渡したから怒っているのです」
もっと、気を付けておくべきだった。『あなたが探索している間に、待ちきれなくて自分の分は全部食べた』……だなんて、どうしてそんなウソを私は信じてしまったのだろう。あの奥様に限って、そんな卑しい真似なんてするはずがないのに。
「……ねえ、ペトラ」
「なんでしょう?」
奥様の、か細い枯れるような声。
「この塔を出られたら、私……やりたいことが」
「……」
「私と、テオと。ミルカもあなたも……そして、あの人。みんな一緒に、家族で……」
「……」
「か、家族、で、ご飯を……た、べられ、たらなぁって……っ!」
「……」
「わ、私、そんなに……そんなにおかしいこと、言ってるかなあ……? な、なんで、みんな仲良くできないのかなあ……? どうして……」
ああ、本当に。どうしてこの奥様は。
「どうして、あの人のことを好きになっちゃったんだろう……! どうして、あの人はテオを愛してくれないんだろう……! どうして、まだあの人のことが好きなんだろう……! どうして……どうして、こんなにも辛くて苦しいんだろう……!?」
「……奥様」
純真過ぎたのだ。穢れも何も知らないから、あんな見かけだけのクソ男にひっかかってしまったのだ。人としての汚い部分を知らないから、『遊びだけ』という概念なんて理解できなかったのだ。そういうものから奥様を守ることこそが私たちの使命の一つでもあったのに……本当に、本当に自分が情けない。
「いつか……いつかきっと、坊ちゃんと会えますよ。私たちが捕まってしばらく経っても、ミルカが捕まったという話はなかったじゃないですか」
「……」
「あのミルカですよ? あいつは上品で澄ました顔しているから、良いとこのお嬢さんみたいに思われがちですが……ご存じの通り農村育ちの平民ですからね。やると決めたからには根性を見せて……ええ、きっと坊ちゃんを守り倒しています。それこそ、どんな手を使ってでも」
「……うん」
「だから……きっとすぐに、助けは来ます。きっとミルカは辺境伯の下まで逃げ延びて、助けを呼んできてくれます。すぐに、また……みんなでご飯を食べられますとも」
「そう、だね……うん、きっとそう。……ありがとう、ペトラ」
今の私には、そう囁いて奥様を抱きしめることしかできない。
──私が塔を攻略することも、助けが来ることも絶望的だなんて、言えるはずが無かった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
──そうして、どれだけの時間が経ったことだろう。
もう何十日も経ったのかもしれないし、またほんの数日のことかもしれない。曇りの日でもあったのか、闇がずっと続くこともあった……いや、そう思っているだけで、実際はそんなことなかったのか? 相も変わらず時たま魔法陣からわずかな水とパンが送られてきているが、その感覚も随分長くなってきている気がする。
……これも、ただ単に私が飢えてきているからそう思えるだけなのか? もう、何が何だかわからない。
「……ペトラ、いる?」
「ええ、もちろん」
ああ、奥様の声がなんと痛ましいことか。絞り出すように出された小さなかすれた声が、妙に心を悲しくさせる。これが小鳥の歌声よりも綺麗な奥様の声だなんて、とても信じられない。
「……やっぱり、あなたは部屋を出るべきよ。そのほうが、少しでも」
「馬鹿を言わないでください。奥様を置いていけるわけないでしょう?」
「……雇い主としての、命令よ?」
「その命令だけは、聞くわけにはいきません」
「でも……私はもう無理でも、あなたならまだ可能性があるわ。こんな暗くて寂しいところで朽ち果てるよりも……私は、あなたに生きてほしい」
ああ、なんで。
なんで奥様は、この期に及んでこんなことを言うのだろう? どうして、ご自身の命をあきらめてしまっているのだろう?
奥様は、私に生き恥を晒せとおっしゃっているのだろうか? それこそが、役目一つ果たせなかったみじめな私に相応しい罰だというのか?
「……情けない話ですが、仮に一人だったとしても、私では闇に蠢く動く死体に対処する術がありません」
「それなら、いい案があるわ。ええ、本当にステキなアイディア。バカな私なのに、自分でびっくりしちゃうくらい」
「……」
「──私を囮にすればいいのよ。ええ、みんな食いしん坊さんたちだもの。きっと夢中になってくれるわ。……なんなら、手足をいくらか引きちぎっていけば道中でも──大丈夫、私、あなたのためならそれくらいへっちゃ──」
「何をバカなことをッ! たとえ冗談でも、そのようなことを口にしないでくださいッ!」
ああ、奥様は私のことが嫌いなのか!? 守るべき主君を犠牲に──あまつさえ、動く死体の餌にするためバラして持っていけ? 見捨てていけ!? そんなの、できるわけがないだろう!
「いいですか! あなたが本当に私のことを思っているなら……! 最後まで、最後まであなたの傍にいさせてください! その信頼が、その思いこそがこのちっぽけな私の最期の誇りとなるのだと……なぜ、わかってくれないのですか!」
「……誇りだけじゃ、あなたを助けられないのだもの」
「私の望みは、最後まで奥様の傍にあり続けることです。それこそが私を私足らしめ、そして私の魂の安寧を得る唯一の方法であるのです」
「……ペトラ」
「……なんです?」
「ごめんね……ありがとう」
「“ありがとう”だけ受け取っておきましょう」
まずい。もう、奥様の心は限界だ。元々ただでさえ弱っていたのに……ここにきて、こんな暗い空間に幽閉され、ろくに飲み食いもできていないのだ。死者のうめき声が精神をどんどん侵し──おそらく、そう遠くないうちに奥様は“戻ってこれなくなる”。
「……くそ!」
やはり、私がなんとかしないと。私が何とかして、この塔から奥様を連れ出さないと。来るかどうかもわからない救助なんて、待っていられない。
どうする? 玉砕覚悟であの闇の中を突っ切ってみるか? たぶん、直下の階だけならなんとかなると思う。一度は行って帰ってこれたし、あの窓のところまでは間違いなく行けるはずだ。
そのあとは……窓から飛び降りる? どう考えても人が死ぬ高さだけど、私がクッションになればあるいは……いけるか?
──オ、オオ……!
「……元気ねえ。……元気って言うのかしら?」
いや、タイミングが悪い。どうも、今日に限って動く死体共の動きが活発だ。さっきからひっきりなしにうめき声が聞こえるし、どたばたと動いている気配がある。
いつもはもっと穏やかに、這いずる様な音しか聞こえない。うめき声も、こんなに頻繁には聞こえずに……時折、思い出したように響くくらいのはずだ。
──オ、オ
──……ン! ガ……ン!
──ア、ギャ
「……」
「……」
おかしい。明らかにおかしい。ちょっと動きが活発だとか、なんとなく声が大きいとかそんなレベルじゃなくて……明らかに暴れまわっていないか? この静かな塔に、明らかにいつもと違う音が響いていないか?
──ギャ、ギャ
──ダンッ!!
「……ねえ、ペトラ。聞こえた?」
「……ええ」
明らかに、その音は近づいてきている。動く死体のうめき声もどんどん大きくなって……もう、耳を澄まさなくとも、そいつがこの塔を駆け上っていることがはっきりと感じられる。
力強い音だ。しっかりと足を踏みしめているのだろう、たまに塔全体に響くようなひときわ大きな打撃音のようなものが聞こえる。雄叫びのような野太い声も、柔らかい何かが盛大に潰れる音も……ぴしゃり、ぴしゃりと何かが滴る音も聞こえる。
「……助けが、来たのかなあ?」
「……だといいですが」
そんなはずはない。
この塔は、どこにあるかもわからない深い森の中にある。そして、塔の周りにも動く死体は蠢いていた。どう贔屓目に考えても、ここまで到達するほどの規模の救援となると……ある程度の人数が必要になるはず。
だけど、そんな気配は一切ない。塔の外に軍がいるわけでもなければ、塔の中に大量に人間が踏み込んでいるわけでもない。音から察するに、暴れまわっているのは──一人、ないしは一匹。
たった一人で、動く死体が蠢くこの塔を登る? そもそも、たった一人でこの森の中を踏破することができるか? どんなに強力な魔法使いでも、こと場所が場所なだけに絶対無理な話だ。
と、なれば。
「……覚悟を決める時が、来たのかもしれません」
強力な魔物が踏み込んできた、と考えたほうが妥当だろう。あるいは、特別強力な動く死体の個体がいたか。案外、あまりにも腹が減りすぎて新たな魔物として覚醒した個体が暴れている……ってオチもあるかもしれない。
いずれにせよ。
──バァン!
「……近いね」
「ええ」
強大な力を持つ何か──おそらく人間ではないそれが、私たちに近づいてきているのは間違いない。
「ペトラ?」
動かない体を無理やり動かし、奥様と扉の間に立って構える。もはや体力なんて残っているはずもないが、それでも体当たりくらいは──不意の一撃くらいは、入れられるはずだ。
「……この身果てようとも、あなただけは守ってみせます」
「……最後まで、私の傍にいてくれるんじゃなかったの?」
「む……」
「騎士の役目だ、私より先に死ぬわけにはいかない……とか言うつもりだろうけれど、あなたはさっき自分が言ったことを曲げるつもり?」
「いえ、決してそういうつもりでは──」
──ダァン!
近い。すぐそこ。思わず私も奥様も、口をつぐんだ。
たん、たん、たんとそれの足音が近づいてくる。それの荒い息遣いもなんとなく聞こえる気がする。それ以上に、バクバクと激しく暴れまわる自分の心臓の音が煩くて、油断したら口からそれがまろびでてしまいそう。
ああ、たぶん。
たぶん、これが最後だ。
ちら、と暗闇の中で背後にいるはずの奥様に振り返る。ろくに見えなくとも、せめて心の中には強く残しておきたかったから。
そして。
──ジャ、リ。
とうとうそいつが、この部屋の扉の前に立ったのがわかった。
「ペトラ……!」
「奥様……!」
来るなら来い。たとえはらわたを引きずり出されようとも、力尽きる前に喉笛を噛み切ってやる。
──コン、コン
「……えっ?」
今、何が聞こえた?
「おーい、誰かいませんかぁ?」
「「……えっ?」」
再び聞こえた、ノックの音。それに混じって、ブツブツと何事かをつぶやく……人の声!?
「っかしいな……? ここが最上階のはずだぞ……? 他に部屋は無かったし、階段を見落としたってこともないし……」
「あ、ああ……!?」
まさか。
まさか。
まさかまさかまさかまさか!
「あー……この先にまだ階段があるパターンか? ……まさか、もう手遅れってことはないよな?」
がちゃ、と扉が開く。
──眩しい光が、私たちを照らした。
「あ、あああ……!!」
「……!? 野郎、ここにもいやがった……ッ!?」
ああ、まぶしい。なんて、なんて眩しいのだろう。こんなにも強い光が、この世に存在していただなんて。
「んん……? ……ああ! あんたら、生きてるな! そうか、つまりあんたたちが──奥様と護衛だな!」
ああ、ダメだ。まだダメだ。なのに、どうしてこんなにも──
「──助けに来たぞ。もう、大丈夫だ」
「……っ!」
こんなにも、涙が止まらないのだろう?




