34 森の旅路
旅は概ね、順調であった。
「ふー……っ」
帰らずの名を冠する森だ。当然、道らしい道なんてあるはずがない……と言うのがイズミの見解だったが、思った以上に中は開けていて、普通に歩く分にはそこまで苦労しない。藪なんかも多いことには多いが、そこまで背丈が高いわけでもなく、鉈を使えば簡単に切り開くことができた。
「もっとこう……道なき道を歩むものだと思っていたが」
「着の身着のままの私でも、何とか突破できたくらいですからね……」
「うー!」
イズミはミルカの前に立ち、邪魔な枝を切り払い、余計な石ころを蹴飛ばしながら進んでいく。そうして進むことでできた「道」ならば、ミルカが通るのに負担もない。イズミの全身が緑の匂いに包まれるのだけが難点だが、それはもはや気にしてもしょうがないことだ。
嬉しいことに、出発してから早三時間。魔獣の類にも遭遇していなかった。やはり特製の魔獣避けのマントが効いているのか、それとも単純に運が良いだけか。もしかしたら、音を立てながら歩いているのも効果があるのでは……とイズミは考える。
「ミルカさん、虫刺されとかは大丈夫か?」
「ええ……結構しっかり肌は隠していますから。それよりも……」
「暑いか、やっぱり」
予想外だったのは、その暑さだ。外気温はそこまででもないはずなのに、毒虫や切り傷を警戒してしっかり着込んだために、服の中に熱がこもってかなり蒸れる。ミルカの額はすでに珠のように汗が浮かんでおり、時折つうっとこめかみから頬のほうまで伝っていた。
もちろん、ミルカよりも重い荷物を持ち、先頭を歩くイズミのほうが汗は酷い。すでに服の中はぐしゃぐしゃで、出来得ることなら今すぐ全裸になって風呂に飛び込みたい気分であった。
「やはり、首元のタオルが……」
「気持ちはわかるけど、外すなよ。ヒルにやられたら大変なことになる」
「ひぇっ……」
「それにミルカさん、俺なんかよりずっと美味しそうだし」
「どういう意味ですかぁ!?」
軽口を叩く余裕がある──いや、軽口を叩かないとやってられないとも言う。歩けど歩けど森の景色に代わり映えはなく、時折現れる木の切り株や大きな岩くらいしか目立った目印はない。むせ返るような森の匂いに、ギャアギャア鳴く鳥の声、ヂィヂィとうるさい虫の音……と、変わらない景色と相まってだんだんと五感がマヒしてくるような、そんな気さえした。
歩いて、歩いて、ずっと歩いて。お昼は大きな樹の陰で食べた。
ミルカの作った特製サンドイッチは、初日の昼だからこそできるフレッシュな野菜と卵を使ったものだ。イズミはそれに加えて、梅干しの握り飯までついている。
「う! うー!」
「なんだよテオ、お前も梅干し食いたいのか?」
「あう!」
「ミルカさん?」
「……ほんっとに一欠片だけですよ?」
銀シャリの中から覗く梅肉を、ミルカが爪の先ほどだけ千切り取る。ぱぁっと顔を明るくしたテオは、そのまま何の疑いも持たずにミルカの指に食いついた。
そして。
「うきゅ……!」
「おー」
今までに見たことが無いくらいのシブい顔。眉間にしわが寄って、口がきゅっと窄まっている。全体的に顔のパーツが中央に寄って、そしてこれでもかというくらいにシワシワになっていた。
「すんげえ酸っぱそうな顔」
「……うきゅ」
「本当に酸っぱいですもの。初めて食べた時はびっくりしましたわ」
「栄養もいっぱいあって夏バテにも効いて、さらに殺菌作用もあるから弁当に使うにはぴったりなんだが」
「何事も完璧というのは存在しないのですね……」
「言ったな? 帰ったら覚えておけよ? 梅を美味いって言わせてやるから」
「あら、それは楽しみですわ」
昼ごはんが終わった後も、ひたすら歩く。歩いて歩いて、たまに方向を確認して。基本的には常に同じ方向を歩いていて、誤差修正もごくごく軽微なものであったが、時折びっくりするくらいに方向がずれていることもあった。
「なんだこれ……ほぼ真横になってるじゃんか……」
「ああ……道なりに歩いていたつもりが、少しずつずれていたのかも……」
「こんなに派手に方向が変わってたら気づくと思うんだが……あるいは、これが帰らずの由縁か……」
そうしてちょこちょこ方向を確認しつつ歩いて……そろそろ今日の野営地を決めようかという頃に、イズミはそいつに気づいた。
「……ミルカさん。二匹、いる」
「……っ!」
藪の向こうのほう。家の周りでも何度か見かけた野犬のような獣がうろついている。獲物の肉でも漁っていたのだろうか、頻りに地面に鼻をこすり付けていて、こちらに気づいた様子はない。
「……スプレー、します?」
「……なるべく節約したい。一瞬噴いて、それを使って……できるか?」
「やってみせます」
ミルカが精神を集中させる。なんとなく神秘的な雰囲気があたりに漂い、そして。
「……えい」
しゅっと一噴き。ここからじゃ到底奴らの下へと届かないはずの小さな霧は、しかし明らかに何かに導かれるようにして漂っていって……。
──ギャアッ!?
「よっしゃオラァッ!!」
ひるんだその瞬間に、勝敗は決した。とても文明人だったとは思えない速度でイズミが躍りだし、まずは手前のそいつの首に一撃、続けて流れるように奥のそいつの脳天に一撃……で、終わりである。
「このッ! このッ! とっととくたばれッ!!」
もちろん、致命傷を入れたところで油断はできない。死に至る傷であろうと、動くときは動く。だからこそ、イズミはわかってはいても追撃の手を止めない。
──ア、ア
「ふうっ!」
ぴく、ぴくと動いていたそいつらも、イズミの呼吸が整うよりも前に息絶えた。
「よ、よかったぁ……! 上手くできた……!」
「ミルカさんの風の魔法とクマよけスプレー……良い相性だな」
本来、敵に気づかれないように近づくには風下からというのが鉄則だ。特に相手の鼻が利く場合、風上からではかなり遠くからでもその存在を感知されてしまう。一方で、クマよけスプレーは自身が被害に及ばないよう、風下からの使用を避け、極力風上から使用することを推奨している。
なるべくバレずにあっさり始末してしまいたいイズミ達にとって、これはあんまりよろしくない。
だけど、ミルカの風の魔法を使えば別だ。
風下の、それもかなり遠くから対象へクマよけスプレーをピンポイントで叩き込むことができる。もう少し練習すれば、ある程度「発射元」をごまかすように動かすこともできるだろう。
「もうちょっと進んだところで今日は野宿としようか」
「ですね……さすがに、死体のそばで寝るのは薄気味悪いですし」
そうして野営地に選んだのは、森の中にたたずむ大きな岩の陰であった。理由としては単純に、ここなら背後の警戒をしなくて済む……と言うそれだけである。それが正しい判断なのかどうかは、イズミ達にはわからない。
「道中で薪を拾っておいたけど……」
「少々、いえ、かなり煙いですわね……」
「うー……」
とっぷりと暮れた夜。闇を払うかのようにイズミとミルカは焚火に薪を焼べていく。ほんの少しでも明かりを小さくしては敵わないとばかりに、二人は片時もそれから目を離さなかった。
「一応、今日のところは悪くないペースで進めたな……」
「ええ……魔獣と出会ったのも一回だけ。特に危険なことも無く、アクシデントもなく……」
「……テオが大人しいのがちょっと意外だったよ」
「まあ。テオが良い子なのはいつものことでしょう?」
「そういや、そうか」
夜の寂しさを紛らわすようにイズミとミルカはぽつりぽつりと語っていく。すでにミルカに抱っこされているテオはおねむで、すやすやと小さな寝息を立てていた。
「明日には川が見つかると良いですわね……飲み水もそうですし、その」
「汗が酷いもんなァ……。自分でもわかるほどに汗臭いし、泥臭いし……冷たい水でさっぱりしたいところだ」
「ええ……もう、タオルで拭いても何の意味もないですし……。なまじ今まで清潔でいただけに、自分の汗臭さがより気になって……」
「…………」
「…………なにか?」
「いえ、なんでも?」
恨めしそうにミルカがイズミの脇腹を小突く。その顔が赤く見えたのは、果たして焚火のせいなのか。もしこの後イズミが心の中で思った本音を告げたなら、きっと焚火よりも赤くなることだろう。
「……くしゅっ!」
「寒いか?」
「そう、ですね。ちょっぴり肌寒いかも……汗で冷えたのかな」
「いや……確実に気温は下がってる。毛布を使わないと、風邪ひくぞ」
「む」
「……どうした?」
「いえ……あんまり火の近くだと、毛布を使うのも怖いな、と」
「ああ……」
パチパチと爆ぜる焚火。その暖かな光は体を温めてくれることに間違いはないのだが、しかしあまりに近づきすぎてしまえば毛布が燃えてしまう。当然、焚火から遠ければ十分に温まることも難しい。
「テオが湯たんぽ代わりにならないか?」
「……こういう時、さっと誘える方がスマートですよ」
「お」
すすす、と毛布を片手にミルカがイズミの真横にぴったりと着いた。そのままばさりと毛布を広げて、イズミもろとも自分をしっかりと包んで。
こてん、とイズミの肩にミルカの頭がもたれかかった。
「なんだよ、ちょっとドキドキするじゃんか」
「うふふ……良い感じに温まってきたでしょう? 私の読みは間違っていませんでしたね!」
「……ちなみに本音は?」
「……その、良い感じにもたれかかれるものが欲しかったなあって」
「素直でよろしい」
「しょうがないじゃないですかぁ……! 岩とか樹とか、ゴツゴツしていて硬いし……! それに引き換え、イズミさんはなんかちょうどいいし……!」
女子高生(と同じ年頃の娘)に湯たんぽやクッション代わりに使ってもらえるなんて、日本だったらお金を出してもやってもらうのは難しいことである。よもや三十を過ぎてそのような経験ができるなんて、いったい誰が想像したことだろう。
「そういやァ、ミルカさん。足の方は大丈夫か?」
「ええ、おかげさまで。靴が良いのか、イズミさんが気を使ってくださってくれるからか……靴擦れも無ければ血豆もない、いたって健康な状態ですわ。これなら明日も明後日も、普通に歩けますとも」
「そうか……そっか!」
「……妙に嬉しそうですね?」
「いや……この後しばらく俺が夜番だろ? その間ずっと肩を貸すわけだし、終わったら今度はミルカさんに膝枕でもしてもらおうかなって」
「ひ、ひざ……!?」
「ちゃんと対価を要求しておかないと、またミルカさん拗らせちゃうし……」
「こ、拗らせ……!? い、言うに事欠いてあなたって人は……!」
ぷっと膨れて、そしてミルカは言い放った。
「私の膝くらい、いくらでも貸してあげますから! 求めるならもっとこう、ちゃんとしたものにしてくださいましっ!」
「おっと、こいつぁ予想外」
ちなみに、本来であるならば夜番の見張りはいつでも動ける状態でなくてはならない。二人一緒に毛布にくるまっていたり、ましてや膝枕なんて言語道断だ。もし魔獣が襲ってきたとしても、咄嗟の行動ができなくなってしまう。
が、二人ともそこは割り切っていた。そこまで近づかれてしまった時点で終わりである。だからこそ、岩を背にして──そして、手元にクマよけスプレーを備えているのだ。
「そうだな……じゃあ、足のマッサージとか……」
「利子分にすらなりませんね」
「もっと手料理食べたい」
「日常の範囲内ではありませんか」
「テオと一緒に三人並んで寝たい。やましい意味じゃなくて、こう……わかる?」
「……言いたいことは、なんとなく」
爆ぜる炎をぼんやりと見ながら、ぽつぽつと会話は続く。
「イズミさんがそれを望むなら、私は喜んでそれに応えるまでですわ」
「お、意外と言ってみるもんだな」
「もちろん、これで返しきれたとは思っていませんからね?」
「そういうことにしておくよ……そろそろ、寝たほうがいい」
「……それでは」
すと、とミルカはイズミの胸元に体を預けた。なんだか今まで何度かやったような、そんな光景だ。肩だけを貸していた時よりも、ミルカとしてははるかに楽な体勢になったことだろう。直接触れてるわけじゃないのに、イズミは首元辺りがくすぐったいような気がしてならなかった。
「……」
テオはミルカに抱っこされている。ミルカはイズミに抱きしめられるように体を預けていて、そんな三人を毛布がまとめて包んでいる。傍から見れば、ちょっとおもしろい光景かもしれない。
「……やっぱりさ」
ミルカの寝息が聞こえてから、イズミはぽつりとつぶやいた。
「──信頼してもらえて、互いに素直に話せる今が一番嬉しいよ」
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二日目も、同じように歩いた。午前中に一度魔獣を返り討ちにし、うっかり手を返り血で血塗れにしてしまったイズミは、昼餉をミルカに食べさせてもらうことになった。テオと同じように扱われたのに、なぜだかちょっと悪くないと思ってしまったのは、イズミだけの秘密である。
また、道中にてミルカの背中に大きなナナフシもどきがひっついているのをイズミが見つけた。そのあまりの大きさにミルカは腰を抜かしそうになっていた。『蟲が特別苦手なわけではないが、サイズがサイズなので』とミルカは呟き、そしてナナフシもどきはイズミの手により適当な木に移された。
さらに、この日は途中で食べられる果物を見つけた。やっぱりイズミは返り血で手が汚れたままだったので、『大きくお口を開けましょうね?』というミルカの笑顔を甘んじて受け入れるほかなかった。
初めて食べる異世界の果物は、思った以上に甘酸っぱい味がした。
この日は大きな木の陰で休むことになった。夜中に二度ほど魔獣が近づく気配がしたが、焚火に焼べて火のついたそれを投げたら、そいつらはあっという間に逃げていった。
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三日目もやっぱり同じように歩いた。さすがに耐えきれなくなったのか、少しばかりテオが不機嫌でぐずっていたが、小さく砕いた飴玉の欠片を与えたら、にこーっと笑って大人しくなった。飴玉は疲労回復にも効果があるようで、口に含んで行動したら心なし今までよりも速いペースで動けているような気がした。
また、この日は清水を見つけることができた。透明できれいな水がこんこんと湧き出でていてちょっとした川のようにもなっており、その沿いを下ってみれば小さな池のようなものも発見することができた。イズミもミルカも喜びの声を上げたのは語るまでもない。
まだ日の高いうちに、イズミとミルカはその近くを野営地とすることに決めた。
代わりばんこに水浴びをすることになって、イズミはひそかにドキドキしたが、幸か不幸か特にこれと言って変わったことは起きなかった。しいて言うなら、久しぶりの水浴びにはしゃいだテオに股間を蹴られそうになったくらいだった。
その日の夕餉はパンとインスタントのスープであった。食後にはお湯にチョコレートを溶かしたなんちゃってココアも楽しむことができた。
この日は月が二つとも満月で、雲一つなかった。綺麗な夜空を見ながら飲むココアは、普段家で飲むココアよりもずっと美味しかった。
なお、夜遅くにはぐれの魔獣が近くまでやってきたらしい。『物音だけはしましたけど、魔獣除けのマントをばさばさしてたらすぐにどこかへ行ってしまいましたわ』と、イズミは起きてからそのことを聞くことになった。
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四日目。
朝早くに、水の補給をしっかりしてからイズミ達は野営地を後にした。
旅は概ね、順調だった。
二日目よりも、三日目よりも。
明らかに、ミルカの手の中にあるアクセサリーが放つ光は強くなっている。最初は昼間だと目を凝らさないと気づけない程度の強さだったのに、今では視界の端に映れば嫌でも気づくくらいの強さになっていた。
そして、出発してから──およそ、三時間と少し。お昼の時間にはまだちょっと早いかなという頃合いになって。
ようやく、それは見つかった。
「これが……【ガブラの古塔】……!?」
森の中。突如開けた視界。高校のグラウンドほどの広さのそこに立つ、古びた塔。外国の幻想物語に出てくるような、古代の遺跡のようにも見えるそれ。天然の権化とも言えるこの森の中に佇む、明らかな人工物。
朽ちた見た目と絡んだ蔦を鑑みても、それはこの森の中で一際異質であった。
「そんな……うそでしょ……!?」
どれくらいの高さがあるのだろうか。こんな塔よりももっと高い建造物なんてイズミはいくらでも見てきているが、しかしちょうどいい例えが思い浮かばない。
明り取りであろうガラスの嵌っていない窓の数から鑑みるに、七階建てくらいの塔なのだろう。なんとなく、ずんぐりむっくりな灯台のような印象をイズミは受けた。
ただ、それ以上に。
「上手くいきすぎだとは思っていたが……そりゃ、着いて終わりとは思ってなかったが……」
旅はおおむね順調だった。
──問題なのは、ゴールの方だ。
「すっかり忘れてたぜ……ここはファンタジーだったな……」
異臭。いや、腐臭。思わず鼻をつまみたくなるような、肺に入れることすら躊躇ってしまうほどの臭気。そんな臭気の発生源たちが、イズミ達の視線の先で蠢いている。
──オオオ、オ、オオ
ガブラの古塔。森の中の開けた土地に佇む、その罪人の流刑地は。
「ゾンビがいるなんて聞いてねェぞ……!」
──化け物どもに、囲まれていた。




