30 優しい人/性悪女
「あら……?」
ミルカは、イズミの額にキスをした──いや、ちょっぴり違う。
「どうしたのですか、イズミさん……? こんな、焦らすようなことするなんて……」
未だ自由であった、イズミの右腕。最後の最後の瞬間、イズミが何とかしてミルカの体を押しのけたから……結果的に、キスの場所が額になったというだけだ。
「ああ、もしかして……テオのことですか? 大丈夫、あの子は隣の部屋でぐっすりですよ。夜泣きもしないし、滅多なことでは起きないくらいに寝付きもよくて……イズミさんもよく知っているでしょう?」
妖しく笑ったまま、イズミの右手にもミルカは指を絡ませた。
「それとも……うふふ、恥ずかしいのですか? ろうそくの光よりも頼りないとはいえ、今も結構見えてますからね……」
私としては、明るくても暗くても、今の状態でも構わない──そう、ミルカはイズミの耳元で囁く。焦らすように、からかうように吐息を耳に当てて、イズミの体がビクリと跳ねる様子に気をよくしていた。
「……そうだな、良く見えるほうがいい」
「あら、意外と大胆……ですが、まずはそれよりも……」
く、とミルカはすでに十分に開けた襟元に指をかける。そんなことをしなくても、色々諸々見えてしまいそうで、さらに言うならあえて脱がずに乱れさせているそれこそが、より扇情的で原始的な気持ちを煽り立てている。見る人が見れば、むしろその状態を崩すのは勿体ないと憤るレベルだろう。
この世界に存在する、大きな二つの月。月と月の間には、どこまでも深い谷。魅入られたものを引きずり込み、そのまま逃がさない谷は、なぜだか今はイズミの目の前にある。
でも、それだけだった。
「いや……もう、良く見えた」
「きゃっ!?」
振り払われる両腕。ミルカがひるんだ一瞬の隙をつき、イズミはこの数か月で否応なしに鍛えられてしまった腹筋を跳ね上げた。
必然的にミルカの体は逆に押し返されて、イズミを押し倒すどころか、座ったイズミに真正面から跨るといった──色々と誤解を招きそうなアブナイ体勢となっている。
「あ、その……」
「──あかり、つけるぞ」
有無を言わせず、イズミは枕元に置いてあった部屋の明かりのリモコンのスイッチを入れる。
「……あ」
薄明るいオレンジの光の代わりに、この世界ではここでしか見られないLEDの煌々と輝く真っ白の光が、部屋の中の闇を払った。
座るイズミ。盛大に胸元が開けたミルカ。
さっと顔を赤くして、ミルカは反射的に胸元を隠そう……として。
その手を、イズミが止めた。
「……その、あんまりまじまじと見ないでくださいまし。改めてじっくり見られますと、さすがに恥ずかしいというか……」
「……」
「あと、その、腕も離していただけると……いえ、自分から言っておいてなんですが、こうもがっつりみられるのは……ええと、いえ、悪い気はしないんですけど、もっとこう、ムードとか……」
「……」
「そ、それにやっぱり明るすぎませんか……? これ、下手しなくても昼間ほどに……」
「ミルカさん」
両手をしっかりつかんだ。
「俺の目を見ろ」
「う……」
ミルカの目に、どんどん涙が溜まっていく。
ミルカの顔が、くしゃりと歪んでいく。
ミルカはもう、耐えきれないとばかりに顔を隠そうとして──しかし、その両手はイズミがしっかり握っている。
顔と顔。吐息が触れ合うほどの至近距離。
もう、隠すことも逃げることもできない。
「う……う……!」
「……」
「う、ああ……! う、わああ……!」
「……」
「うあ、あああ……!」
ミルカが泣いている。あの時と同じように……でも、あの時とは全く違うように。涙だけは見せまいと必死になって堪えているのに、ポロポロと止めどなくそれは流れ出て、ミルカの頬とベッドにその跡を残していく。漏れ出た嗚咽も止まることなく、ただただずっと、この小さな部屋に響いていた。
「ミルカさん」
「う、う……っ!」
握っていた腕を離す。
「うわああああん!」
今度こそ、心の底から──ミルカが、イズミに抱き着いた。
「わた、わたっ、わたし……! わたし、本当に最低だ……っ!」
「……」
「こんなものしか渡せない自分が……! こんなにも浅ましい考えの自分が……本当に嫌だ……!」
「……ミルカさん」
嗚咽を漏らして泣きじゃくるミルカを、イズミはそっと抱きしめ返した。
「なんで……なんで、どうして! どうしてイズミさんは、こんなに優しいんですか……!」
「俺はミルカさんの味方のつもりだよ。優しくて当然じゃないか」
イズミの耳元で涙を流すミルカは、自嘲するように強い語気で吐き捨てた。
「こんな私の……味方? 本当に、本当に本気でそう言えるんですか!?」
「ああ」
「たとえ理由を言わずに、いきなり死ねと言っても!? 理由も言わずに、ただ黙って信じろと言っても!? ……そんなの、無理な話でしょう!?」
「いいや。ミルカさんが望むならそうしてもいいと思えるくらいには……俺は、ミルカさんのことを大事に思っているつもりだよ」
嘘偽りのない本音。イズミの心からの本心。
今まで全く思ってすらいなかったが、もうすでに気づいてしまった。この何も知らない広い広い世界の中、深い森にぽつんと佇む家にずっと一人だなんて……もしもミルカとテオがこの家から去って、また一人で暮らすことになったとしたら。
おそらくもう、イズミは立ち直れない。人の温かさを知ってしまった以上、以前の繋がりを絶った状態に戻ることはできない。きっとすぐに、寂しさと不安と恐怖でいっぱいになって、そう遠くないうちに人としてどうしようもならないことになってしまう。
そんなことになるくらいなら。
だったらまだ──大事に思える人のために行動したい。そっちのほうがずっといい。
「あなたって人は……!」
「この答えじゃ不満か?」
「ええ、そうですとも! あなたがそんなにも優しすぎるから……! 私は、その優しさに頼っちゃうんじゃないですか……! これじゃあ私、あなたの優しさに付け込む性悪女じゃないですか……!」
「……」
「あなたが対価を求める人なら、私だって気兼ねなく頼めたのに……私に払えるものはもうこれしかないのに、それすら受け取ってくれないだなんて……もう、私はどうすればいいんですか……!」
「……」
「イズミさん、答えてくださいまし……! あなたの優しさに付け込む性悪で、体一つ抱いてもらえないような女が、どうすればあなたに誠実を貫くことができるのか……! どうすればあなたに……!」
「ミルカさん」
「ひぅ」
イズミはテオをあやすように、ミルカの頭の後ろの方をそっと撫でた。
「普通に頼んでくれれば、それでいいんだよ」
「でも……っ!」
「正直俺は、どうしてミルカさんがそんな風に思っているのかわからない。何があってこうしようと思ったのか、ミルカさんが俺に何を望んでいるのか、わからない」
「……」
「わかっているのは、ミルカさんが苦しんでいるんだろうなってことだけだ」
イズミはなるべくゆっくり、落ち着かせるように語り掛けた。
「だから、そんな風に苦しまれるくらいなら……頼ってほしい。一人で全部抱え込まないで、俺を頼ってほしい」
「でも、私は……! あなたにこれから、酷なことを……!」
「そっちのほうがずっといい。頼むから、俺を一人にしないでくれ。……俺はミルカさんの味方だ。だから……ミルカさんも、俺の味方でいてくれよ」
──それが一番、俺にとって嬉しいことだから。
「……っ!」
強く押し付けられた体。小さな部屋に、大きく大きく響く嗚咽。しとしとと冷たい何かがイズミの首元を濡らし、温かな何かが堪らないと言わんばかりに抱き着いてくる。
「あり、がとう……!」
震えるその体を落ち着かせるように、イズミは優しくミルカを抱きしめた。




