28 予兆 -彼方からの手紙-
「いよいよ、だな……」
「ええ……」
ミルカが家事をするようになってから三日後。やっぱりなんだかんだで未だにミルカの寝室と化しているそこで、二人は神妙な顔をして向かい合っている。今この場で呑気しているのなんて、イズミに抱かれてきゃっきゃとはしゃいでいるテオくらいなものだ。
「行くぞ……?」
「ええ……」
「まうー?」
イズミの手から、そっとミルカの腕にテオが渡る。
「……きゃーっ!」
「ああ……!」
ミルカの腕の中で、テオがきゃっきゃとはしゃいでいる。久しぶりのその感触が堪らなくうれしいのだろう、今までにないくらいににこーっと満面の笑みを浮かべて、これまた忙しく手足をパタパタと動かしていた。
──テオがこんなにも動いているのに、ミルカの腕に不安なところは見られない。
「イズミさん……!」
「ああ……おめでとう!」
イズミの目の前に、テオと同じくらいに嬉しそうに笑っているミルカがいる。あまりにも嬉しすぎたのか、その目は若干潤んでもいた。別にイズミは涙もろいほうではないが、なんだかこっちまで目頭がジーンと熱くなってくるほどだ。
「だ、抱けました……! 私、テオを抱っこできました……!」
ようやく、ミルカはテオを抱っこできるほどに回復した。ここまでくればもう、完治したといってもいいだろう。すでに日常の生活は問題なく行えているし、洗濯も裁縫仕事もばっちりだ。出来ないことなんてもう、何もない。
「あう! うー!」
「ふふっ……もぉ、テオったら……!」
「なんだよこいつ……嬉しそうにしやがって……! そんなにミルカさんの方が良いのかぁ?」
「ええ、そうでしょうそうでしょう! テオは素直な良い子ですもの! ……イズミさん、ここしばらくの私の気持ち、理解できました?」
「ちくしょう……めちゃくちゃ妬けるなこれ……!」
「うー!」
口ではそんなことを言いながらも、イズミもまたこれ以上に無いくらい笑顔であった。そらそら、とテオのほっぺを突き、手足をくすぐってじゃれている。あまりにふざけすぎて顎を蹴りぬかれても、だからどうしたと言わんばかりにだらしない笑顔を浮かべているから始末に負えない。
もし何も知らない第三者がこの光景を見たなら、紛うことなき親バカだと断じたことだろう。それくらい、その光景は暖かで眩しかったのだ。
「ああ……これでようやく、イズミさんの負担を減らすことができますわ……!」
「全然負担じゃないんだけど……」
「うふふ、ダメですよ? 今日からはイズミさんがベッドで、私がお布団です。もちろん、テオの面倒を見るのもぜーんぶ私!」
「ええ……なぁ、ちょっとくらい……!」
「まさか! 大事な恩人に子守を頼むなんて真似、とてもできませんわ!」
おほほ、とミルカは笑う。桃缶お預けだぞ、とイズミが脅す。
寝室に響く、三者三様の笑い声。魔獣が跋扈する帰らずの森のど真ん中とはとても思えない優しい風景。いいや、こんなにも素晴らしい風景は、きっと世界のどこに行っても見られないだろう──そう思えてしまうほどの、夢のような時間。
──ガタッ!
「……え?」
そんな時間は、たった一つの物音だけで終わりを告げた。
「い、イズミさん……!?」
「ああ……」
外から聞こえてきた物音。感じからして、何かが突進してきた音だろう。別にこれ自体は何ら不思議じゃない。多いときは日に二回、普段でも二、三日に一回は魔獣がこの家に襲来して、石垣や門扉、謎バリアにガンガンと攻撃をするのだから。おそらくこれも、何らかの生物が突撃してきたものだと考えて間違いない。
問題なのは。
──アア、ア、ア。
「……ち、近くないです、か?」
「ああ……こいつ、中にいる」
ガタガタ、バタバタと聞こえる物音。イズミもミルカもはっきりとわかるほど近い──すなわち、石垣の中。謎バリアを通過したこの敷地内に、そいつはいるらしい。
幸か不幸か、そこまで好戦的な生物ではないらしい。さっきからなにやらどたばたとしているが、音の感じからしてその場から動いた様子はない。それどころか、その鳴き声は荒らぶり猛った雄叫びではなく、痛みに悶えて今にも消え入りそうな悲しげなものだ。
とはいえ。
「……行ってくる」
「お気をつけて……!」
油断なんて、出来るわけがない。
「ミルカさん、絶対に外には出るなよ。あと、クマよけスプレーの使い方はわかるな? それに、えーと……包丁でも持っていてくれ」
「イズミさんこそ、気を付けてくださいまし……!」
鉈、クマよけスプレー、プロテクター一式。すっかり馴染みとなった相棒を手早く装備し、そしてイズミは外に出た。
「……」
いる。
家の裏手の方、ちょうど雨戸を閉め切っているところあたりにそいつはいる。ぶつかったのが窓ガラスでなかったことにひとまず安堵し、そしてイズミは先手のクマよけスプレーを確実に決められるように、心を落ち着けてその角を曲がった。
──アー! アー!
「……ん?」
鳥だった。
ワシとかタカとかハヤブサのような、そんな凛々しい顔つきを見るに猛禽の類だろう。ただ、イズミの知っているそれほどは大きくなく、せいぜいが公園でよく見かけるハトを二回り程度大きくしたくらいだ。他に目に見える特徴と言えば全体がヒスイを思わせる深い碧色であることだが、似たような色合いの生物をイズミはこの辺で何度か見かけている。
「なんだこいつ……?」
──アー!
じたばた、じたばた。
何らかの拍子にここに突っ込んで、翼を痛めてしまったのだろうか。見る限り折れてはいないようだが、動かし方がぎこちない。少なくとも、飛べるような感じではなく、バランスが取れずにひたすらもがいている。
「……」
そもそもとして、どうしてこいつは謎バリアをすり抜けることができたのか。すでにイズミは、たとえ空中だろうと謎バリアがしっかりこの敷地を守ってくれることを確認している。ほかならぬ凶暴な鳥が、この家に突っ込もう……としてバリアに激突し、伸びている光景を何度も見ているのだ。
ともあれ。
「何があるかは、わかんねえからなァ?」
表情をすっと消し、イズミは鉈を構えた。
たとえクマよけスプレーによる無力化がなくとも、手負いの獣──それも飛べない鳥に止めを刺すことなんて、造作もない。仮に奴に超常の力があったとしても、この距離ならそのそぶりを見せた瞬間に仕留めることができる。
すでにイズミは、その判断が無意識にできるほどに、野生に染まっていた。
そして。
「悪く思うな……ん?」
気づく。
奴の弱点である首……ではなく。
バタバタともがいていた翼に隠れていた、大きさの割には立派な脚。鋭いかぎづめをさらに飾り立てるように。
「おいおい、マジかよ……!」
手紙と、アクセサリー。
お話の中でしか見たことのないそれが、その鳥の脚に括りつけられていた。




