27 彼女の仕事:炊事/洗濯/お裁縫
「おはようございます、イズミさん」
「ん……」
朝。
ゆっくりと目を開け、イズミは既に開かれているカーテンと、そして部屋に吹き込む朝の風に意識を覚醒させる。今日も今日とて天気は良く、涼やかで清々しい空気は日本ではちょっと味わえないほどの極上品だった。
「ミルカさん……?」
隣ではまだ、すやすやとテオがあどけない寝顔を晒して寝息を立てている。時計を見ればまだ六時過ぎといったところ。普段イズミが起きるのはもう少し後だ。
というか、いつもだったらイズミのほうがミルカよりも先に起きている。そして、身支度だの朝餉の支度だのをしているのだ。
「あれ……俺、寝過ごしたか?」
「いえ、そんなことはないと思われますよ」
すでにミルカの戦闘態勢は整っている。顔もしっかり洗ってあるし、髪だって整えていた。恰好がパジャマだが、それは単純にそれ以外にミルカの部屋着が無いというだけである。ぱっちり開いたイキイキとした目を見れば、ミルカが怠惰にも二度寝をしゃれ込むようには到底思えないだろう。
「ああ、イズミさんはまだお休みになっていてください。単純に、私が居ても立っても居られないというだけですから」
「いや……ん? えーと、つまり……」
半ば寝ぼけて混乱している頭をフルに動かし、イズミは答える。
「どういうこと?」
「台所と、食材の使用許可……あと、エプロンをお借りしたく」
「ん、りょーかい……。エプロンは、その辺にあれば適当に……」
それだけ言って、イズミは再び眠りの渦に引き込まれる。最後に思ったのは、「エプロンなんて使ったことねェや」というどうでもいいことであった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「マジか……」
「どうされました?」
あれから一時間後。思いのほかぐっすりと眠りこけてしまったイズミは、朝を象徴するようなパンの良い匂いで目覚めることとなった。
すでに食卓は整っている。焼かれたパンに、ふんわりとした美味しそうなオムレツ。サラダが少々と、野菜スープと、剥いたリンゴがいくらか。もちろん、テオの分の離乳食──今日はパン粥だ──もきっちりと。
「なんか、うすぼんやりと朝にミルカさんと話をした記憶はあるんだけど……こうもしっかりした朝飯が用意されているなんて」
「うふふ、これでも本業ですから。それに、いつまでも面倒を見てもらうばかりにはいきませんし。この程度のことはさせてくださいよ」
「なんか悪いな……いや、ありがとうだな」
「まう!」
あえて触れるまでもなく、ミルカの作った朝食は美味しかった。オムレツは見た目通りふんわりと柔らかく、同じ卵を使っているはずなのに明らかにイズミが作ったそれと見た目が違う。イズミのが家庭で作る「パパのオムレツ」とするならば、ミルカが作ったそれは「おしゃれな街でおしゃれなOLが食べるおしゃれな店のおしゃれなオムレツ」と言ったところだろう。
サラダだって、なんか見た目が違う。盛り付け方に気を使っているのだろうか、とにかく見栄えが良いのだ。適当にぱしゃりと写真を撮ってインターネットに投稿すれば、それなりに評判になりそうなくらいに整っている。
「美味しいな……やっぱ全然敵わないよ」
「ありがとうございます……とはいえ、まだまだ精進すべきところは残っていますが。コンロにせよトースターにせよ、使いこなせているとは言えませんし」
「昨日さらっと教えただけなのに、普通に使えている時点ですごいと思うけど」
火が出る、水が出る、焼ける。冷蔵庫の中は冷えていて、この辺に調理器具がある。イズミが台所について教えたのはこれくらいで、ミルカにとっては初めて使う機能ばかりだというのに、これだけの料理を作り上げてくれたのだ。もし電子レンジやミキサー、その他未だ使用方法を教えていない調理器具にまで熟達したら、いったいどれだけの物になるというのか。
「あと……やっぱあれだな。朝ご飯の匂いで目が覚めるってのはいいもんだな」
「ああ……わかります。本当に幸せな気分になれますよね。……ふふ、この数日はイズミさんがそうやってくれていたんですよ。毎朝、どんなものが食べられるのか楽しみにしていたんですから」
「うー! うー!」
「おっと」
手足をぱたぱたと動かして、早く飯をよこせとテオがせがんだ。そんな様子を、ミルカは幸せそうに見つめている。
「それはそうと、イズミさん」
「ん?」
「本日のご予定をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「あー……」
ふうふうとパン粥を冷ましながら、イズミは思案する。
予定。この数か月間、まるで使わなかった言葉だ。以前だったら使わない日なんてないくらいに使っていた単語なのに、今じゃ死後のように「ああ、そんな言葉もあったな」くらいにしか思えない。
「特にないな。いつも通り、家事をしてテオの面倒を見るくらいだ」
「それでは……私にお洗濯とお料理をお任せしてもらえませんか? あと、裁縫道具を少々……」
「それは別にいいけど……手は大丈夫なのか?」
立ち歩けるようになり、身の回りのことはある程度一人でできるようになったミルカだが、未だにテオを抱っこしたことはない。力仕事をさせるつもりはイズミにだって毛頭ないし、ミルカもそのあたりは十分に理解しているだろうが、それでも気になってしまうのが人のサガというものだ。
「おかげさまで、かなり回復してきていますよ。それに……テオを抱っこするためにも、少しずつ慣らしていかないと。ある程度は動かしていかないと、治るものも治りません」
「ミルカさんさぁ」
「なんでしょう?」
「……働くの、好きなタイプ?」
ミルカはにっこりと笑った。
「勤勉だとは、よく言われましたわ」
▲▽▲▽▲▽▲▽
それからミルカは良く働いた。
「まずはエプロンですね……」
「確かお袋が使っていた奴が部屋に……」
手早く朝食の後片付けを終えた後に、まず最初に探したのがエプロンだ。やはり仕事着としてないと落ち着かないのだろう。元々の給仕服が使えない今、それで手を打つしかなかったのである。
「えーと……あった」
「あら、素敵」
いかにも田舎のおばあちゃんが愛用していそうな、赤白チェックの面白みもなんともないエプロン。腰回りにたくさんのポケットがついている。かなり長いこと使われた年代物で、アイロンをかけてもなお取りきれなかったうっすらとした皺に、全体的にいくらか色褪せている。
「……」
「どうされました?」
そんなダサいとしか言いようのないエプロンでも、ミルカが着けるとなると話が変わってくる。腰の紐を結ぶその仕草だけでくらくらしそうになるし、何より体のメリハリがすごい。婆のエプロンから、家庭的な女性のエプロンに早変わりだ。
「いやァ……家庭的な女の人っていいものだな、と」
「そんな感想、初めて聞きましたが……悪くはありませんね」
どちらかと言うと新婚さん感が凄まじくて大変よろしい……とは、イズミは口が裂けても言えない。下手なことを言ってエプロンをつけてくれなくなるのは大変よろしくないのだ。
「ああ、それと……布や反物はありますか?」
「どうだったかな……たしか、有ったような無かったような……」
亡くなってからろくに開けていない母の部屋の押し入れ。ガサゴソと漁ってみれば、天袋の方にまとめてそれは仕舞われていた。
「うぉ……結構あるな。これ、好きに使っていいよ」
赤、青、その他もろもろ。手芸屋さんで良く売られている、100cm幅程度の長方形のアレだ。綿や麻といった一般的なもののほか、キルト生地やイズミには名前さえよくわからないものもある。
「う……その、大変ありがたいのですが、さすがにこれは……」
「あー……ずっと仕舞い込んでいたから、ちょっとかび臭いか?」
「そうではなくて、上等すぎるのです……その、テオのおしめを作ろうと思っていたので」
「あー」
たしかに、おしめにするにはあまりにも上等すぎるものである。
「離れとかにも探せばあるだろうけど……とりあえず、今はこれでやってみてくれ。もしかしたら、こいつも消耗品扱いで補給されるかもしれないし」
「……そういえば、冷蔵庫の中身も昨日の状態に戻っていましたね」
わかりました、と言ってミルカはいくつか布をチョイスする。検証のため、まずはほんの少しだけ端を切り取ってテオのよだれかけを作り、布が補給されることが判明したら本格的におしめやその他の小物を作っていくらしい。
「裁縫道具も適当に使っていいぜ。どうせ俺じゃ使いこなせないし」
「うわぁ……! すごい立派じゃないですか……! こんなに上等なものがたくさんあるだなんて……!」
これまたやっぱり、田舎のおばあちゃんの部屋にありそうな裁縫箱をイズミは押し入れの中から取り出した。木製のごっつい見た目をした、年季の入りすぎた逸品である。年寄りの手だと引っ張ってくるのも大変なものだから、ここ数年程ずっとお日様の光を浴びていない。
もちろん、中身は無事だ。縫い針、待ち針、ハサミにボタン、たくさんの糸に指ぬき……と、在りし日の現役バリバリのまま、今もそこに静かに佇んでいる。
「……イズミさんのお母様は、とても裁縫を嗜んでいらしたのですね」
「どうだろうな? 今と違って昔は何でも手作りだったから、みんな大なり小なり出来ていたはずだ。この裁縫箱も、どの家にもあるようなものだったし」
「どの家にあるものでも、手入れをきちんとしていなければすぐにダメになってしまいますよ。これだけ使いこんでいるということ自体が、如何にお母様が裁縫を好んでいらっしゃったのかを語っていると思います」
「……まぁ、そうかも」
ふと、イズミは思う。
給食袋も、雑巾も、手袋も、マフラーも。ぱっと思いつく布製品の大半が、母の手によって作られたものだった。想えばいつも、母は夜遅くまで針をチクチクと動かしていた気がする。元気にそこらを走り回ってズボンの膝や尻に大きな穴を開けたとしても、二日と経たずにそれは直されていた。
「やっぱそうだな……お袋が大事にしてんだから、なおさら仕舞っておくのは忍びねえや。ミルカさん、大事に使ってやってくれよ」
「……ええ、そうさせて頂きますね」
「あと、そのうち慣れたら……これ、ミシンの使い方も教えるよ」
「ミシン、ですか? 察するに、これも裁縫道具かと思われますが……」
「その認識で合ってる」
裁縫道具と材料を見繕った後は、いよいよもってメインイベント──洗濯であった。
すでにもう、洗濯機の存在についてはミルカに教えている。というか、ある理由より「自分が洗うわけじゃないから」と教えざるを得なかった。最初は半信半疑だったミルカも、テオの面倒を見ながらにしては明らかに少ない時間で洗濯をこなしているイズミを見て、その存在には納得してくれた。
なので、普通の日常的なそれについては問題ない。今日もまた昨日の洗濯物がたんまり洗濯機の中にあるが、こんなの洗剤を入れてスイッチを押せばどうにでもなる。
問題なのは──
「いいお天気ですし、このシーツをやっつけてしまいます」
未だに血の跡が残っているシーツ。そうでなくとも、もうかなり長い間洗濯していない。それはイズミが使っている布団や枕カバーも同様なので、ついでとばかりにそっちも片付けることになった。
「なんだかんだで昨日はなぁなぁで済ませてしまいましたが……今度こそ、きっちりベッドを整えて、イズミさんにお返ししますからね」
「ええー……別にそのままでもいいんだけど……」
「……一応聞きますが、どういう意味ですか?」
ほのかに顔を赤らめながら、ミルカはじとっと睨んできた。
「そりゃ……俺がベッドに戻ったら、テオと一緒に寝られなくなるじゃん。……こいつさ、寝ぼけて俺の手とか耳とかぎゅっと握ってきてさ……いや、ホント可愛いんだよ……!」
「あ……そ、そうですよね!」
「……それ以外に何か、あったっけ?」
「忘れてくださいましっ!」
実際問題、どうしようとイズミは考える。自分がベッドに戻ったとして、テオを同じようにベッドに寝かせるのは少々怖い。若い女であるミルカを今の自分と同じように万年床に寝かせるのも気が引ける。母の部屋で布団を敷いてもらえれば万事解決する気がしなくもないが、それはそれでなんか寂しい。
「テオぉ……お前、俺と一緒に寝たいよな?」
「うー?」
「……寝たいって言ってる。だから、ミルカさんはそのまま俺のベッド使ってくれよ」
「イズミさん……あなたって人は……」
冗談はともかくとして、とミルカは洗濯に必要な道具類の確認を行っていく。「賢者」ならば何でも持っていると思ったのか、それともイズミ……ひいては日本の科学力について理解が深まってきたのか、粉せっけんや固形石鹸、ボディーソープの違いやら「こんなものはあるか」……といった様々なことを聞いてきた。
イズミは一つ一つ丁寧に、わかっている限りで質問に答えていく。何もかも説明し終えたところで、ミルカはぱっと笑った。
「それでは、洗面所かお風呂をお借りしますね。洗剤は……洗濯機に使われているものを使ってもいいですか?」
「何を使っても大丈夫だけど……病み上がりなんだしあんまり無理はしなくていいからな? その手だって、まだお湯や洗剤は沁みるだろ?」
「なんの、これしきのことで音を上げるわけにはいきませんわ!」
あとで洗濯機の使い方だけ教えてくださいまし──そう言って、ミルカはイズミとテオを締めだした。
「……締め出されちゃったな?」
「うー!」
「……締め出す必要、あったかなァ?」
「まうー……」
「女心ってのは、やっぱよくわかんねえなァ……」
ぽつりとつぶやき、イズミはテオを抱っこしながら洗面所を去る。
──数時間後。「乾燥機って便利ですね」と言う満面の笑みと共に渡された自身の畳まれたパンツを見て、ようやくイズミは女心を少しだけ理解することができた。




