26 夕ご飯
「ミルカさーん」
「…………」
「夕飯の時間だけど……」
「……行きます」
真っ赤な顔をして部屋に引きこもっていたミルカは、イズミのそんな言葉でようやっと天岩戸と化していた戸を開けた。恥ずかしさのあまりベッドの上で毛布に潜り込んでいたのか、せっかくの風呂上がりだったというのに髪が乱れてしまっている。
そういえばドライヤーの使い方を教えていないし、櫛についても言い忘れたとイズミは思い当たる。男でそこまで髪の長くないイズミは、部屋に籠ることが多いこともあって、面倒くさいときはタオルでガシガシ拭いてそのまま……にしてしまうことが多いのだ。
「……あ」
すんすん、とミルカは鼻を動かす。
「どうだ、良い匂いだろう?」
「お願いですから、もう忘れていただけませんか……!?」
「……あの、今は普通の意味で言ったつもりだったんだけど」
「うー!」
デリカシーが無かったなァ、と呟いてイズミはテオを抱きなおす。頬を赤らめたままぷるぷるとしているミルカに声をかけ、そして食卓へといざなった。
「快気祝い……にしてはちょっと味気ないかもしれないが、それなりにご馳走にしたつもりだ」
「わぁ……!」
目をキラキラと輝かせて、ミルカはイズミの向かいへと座った。
「シチューとサラダとパン……病人食明けだから、それなりに消化に良さそうで栄養もありそうな組み合わせにしてみた」
イズミが用意したのは、具がたっぷり入ったクリームシチューと、これまたいろんな具材を使ったサラダであった。
シチューの方は、材料に制限が無いことをいいことに肉も玉ねぎもジャガイモも、何もかもをふんだんに使って作った逸品である。普段は少しケチるバターもたっぷり入っているし、隠し味として鳥ガラの素も入っている。使った牛乳は当然の如く「乳飲料」ではなく「成分無調整生乳」であり、文字通りの本物だ。
材料に妥協をしていないからか、普段イズミが作るシチューに比べて明らかに香りが濃く、深い。もしこの匂いが帰り道に家の方から漂ってきていたら、おそらく十人中九人が駆け足になることだろう。今だって、イズミの腹の虫は「さっさと食わせろ」とうるさくがなり立てている。
これで市販のルウを使っていなければ、イズミの中ではパーフェクトの中のパーフェクトであった。テオの面倒を見ながら作るシチューでは、これが限界なのである。
「すみません……私もお手伝いしていれば……」
「おいおい、さっき言ったばかりだろう?」
「あ……そう、ですね。ありがとう、でしたね」
「そうそう。それに、これはあくまでミルカさんの快気祝いのつもりなんだ。主役に作らせるわけにはいかねえよ」
「まぁ……それでは、この体が本当の意味で以前の状態になった時は……その時こそ、私にお手伝い……いいえ、お料理を任せてくれますか?」
「そりゃ……願ってもないな。最高じゃないか」
「うふふ……言質、取りましたからね?」
冷めないうちに、イズミとミルカはスプーンを手に取る。まだいくらか頼りなさがあるものの、ミルカの手つきはしっかりとしていた。
「まぁ……! 本当に、本当に美味しい……! こんなにしっかりした深みがあって……!」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。……やっぱ最近のルウはバカになんねえよなァ」
「ルウ、ですか?」
「うん。こう……シチューの素って言うのか? 切った具材を入れた鍋にこいつを入れて煮込めば、それだけでもうシチューが完成するんだよ。簡単便利、そして俺みたいなものぐさでも美味いシチューが作れるすごい奴さ」
「あらまぁ、ご謙遜を」
美味しそうに次の一口を食べて、ミルカは頬をほころばせた。
「お野菜はしっかり同じ大きさに切られていますし、お肉だって一口大で……そして、とっても柔らかく煮込まれています。シチューは大きなお鍋で煮込んで作りますから……」
「ふむ?」
「本当にものぐさな方が作られた場合、火の通りが甘い具材がたくさんあったり、逆に底の方を焦がしてしまったり……一つ一つは些細なことでも、出来上がったものに明確に「それ」は出てきてしまうものなのですよ」
「あー……じゃあ、レシピとルウの販売会社がすごいんだろうなァ。こう言っちゃなんだが、俺の料理なんて適当で大雑把なものしかないし」
「……もしかしたらイズミさんは、すごくお料理の上手い人ばかり周りにいたのかもしれませんね。でも、少なくとも──」
──今この瞬間のこの気持ちだけは、本物ですよ。
口はシチューを楽しむのに忙しい。だからミルカは、目で、表情で、笑顔だけでそれを語ってみせた。美味しいものを美味しいと伝えるのに、それ以上のものはこの世に存在しない。
こうまでされてしまえばイズミも、照れたようにスプーンを動かすしかなかった。
「あら、どうしました?」
「や、その……なんか、照れるな。こんなこと、面と向かって言われたことなかったし」
「……昨日までも、食事の時は同じくらい感謝の気持ちを込めていたつもりですが」
卵粥、鶏粥、パン粥、その他……とあっちの部屋で食事をしていた時も、ミルカはいつだって同じくらいに美味しいと言っていた。ただの一回たりとも、偽りの言葉を述べたことはない。本当に、心の底から美味しいと言っていたのだ。
「場所が場所だし、食事は食事でも俺がミルカさんに食べさせる……って形だったからかな。内容も味気ない病人食だったし」
「あの病人食も本当に美味しかったですけど……言われてみれば、食卓についての【食事】というのは今回が初めてですね」
「……そうだな」
ああ、そうか。だからか──と、イズミはようやっとここで気づいた。
今までのミルカは【病人】だった。一も二もなく保護対象で、イズミが面倒を見るべき相手だった。実際の立場云々は別にして、物理的にそういった役割が出来上がってしまっていたのである。
だけど、数時間前からは違う。まだまだ万全ではないとはいえ、ミルカは普通に動くことができる。ようやくベッドから一人で起き上がれるようになって、もたつきながらも一人で風呂まで入れるようになった。
つまり。
イズミの目の前にいる彼女は、保護すべき【病人】から、同じ空間で生活を営む【同居人】に変わっていたのである。
「それにしても、本当に美味しいですね。普段私たちが食べているシチューとは明らかに……深みが違うというか」
「鳥ガラの素かな。あと、ルウにはなんかいろいろ入ってるみたいだし。ミルカさんが普段食べてるものはよくわかんないけど、肉の質も野菜の質もそれなりに高水準……だと思う」
「それはまぁ……この白いパンを見ているだけでも、実感できますわ」
食卓に添えられた白いパン。一斤の食パンから中身だけをくりぬいた、サンドイッチみたいな形になっている奴だ。焼いてはいないので、そのフワフワ具合はいまだ健在である。
ちなみに、残った耳の部分にシチューを入れてオーブンで焼けば、シチューパンの完成である。本当に作るかどうかは、この後イズミとミルカがお代わりをしないかどうかにかかっている。
「私の……職場もそれなりに良いパンを扱っていましたが、もっと色味が混じっていましたし、ここまで柔らかくはありませんでしたとも」
「ほぉ」
「それに、サラダにもずいぶんたくさんのお野菜が使われていますし……このほぐし身はお魚ですよね?」
「ツナ缶だな。保存食とは思えないくらい美味しい……あと、ちょっと話したかもだけど、マジで食料の心配はしなくていいから。明日になったら全部戻ってるし」
「……信じがたいですが、イズミさんが言うならそうなんでしょう。……よろしければ、あとで食糧庫を拝見させていただいてもよろしいですか? その、疑うわけではないのですが……」
「わかってるって。……今のうちから何を作ろうか考えてくれるってことだよな?」
「……ハイ、そうです。あと、ホントに遠慮なく食べて良いのか不安になるじゃないですか……!」
「律儀というか心配性というか……」
「真っ当な良識を備えていれば、普通のことだと思いますよ……」
本当の意味での、楽しい食卓。笑顔があふれて会話の弾む、夢のような時間。イズミが誰かとこうして家で何の気兼ねもなく食事をしたことなんて、それこそ数年ぶりと言っていい。ましてや相手がミルカのような他人──否、若い女であるだなんて、初めてのことであった。
「う! まう!」
「おっと」
ミルカとの食事を楽しみすぎてしまったからだろうか。イズミの膝の上で、テオが不満の声を上げた。先ほどから大人二人だけで盛り上がって美味しいものを食べている様を見せつけられて、そのうえ自分には何もない……ときたら、そりゃあ怒るというものである。
「悪い悪い……と、とと」
いつもと同じく、テオのご飯はミルク粥だ。テオのためだけに特別に作られた逸品である。
今日もイズミはしっかりとそれを冷まし、くちびるで熱くないことを確認してからテオの口元へと運んでいく。もう何度も行ったことだから、すでにその動きはプロレベルに達していた。
「だ! だう!」
「よーしよしよし……そうか、美味いか!」
にこーっとテオが笑い、イズミの膝の上でぱたぱたと手足を動かす。下あごのあたりがおよだで大変なことになっているが、それすら愛おしい。元気にものを食べる赤子ほど、可愛いものは無いんじゃないかとイズミは本気でそう思うことができた。
「まう! ま!」
「待て待て、もっとゆっくりとだな……」
「ふふ……っ。テオったら、本当に嬉しそう……」
「全くだ。……だけどこいつ、たまに大人が食べてるものも食いたがるのが困るんだよなァ」
「それは……実際、美味しいですし……。それにこのくらいの時期なら、大人が食べているものに興味を持ち出すのはそんなにおかしくないですよ」
「へぇ……」
ミルカと話をしながらも、イズミはテオから目を離さない。左腕はテオの体をがっしりと抱きとめていて、右腕はテオの口に貢物をせっせと運んでいる。こんなことができるようになるなんて……否、こんなことをするようになるなんて、数か月前には思いもつかなかったことだ。
「実際、どうなんだ? そろそろちゃんとしたものを与えてもいいのかな?」
「段階を踏んで少しずつ、としか……。普通の家だったら、お乳を卒業するころにはいつの間にか兄弟たちとご飯の取り合いをするようになっていたり……そもそも、こんなにしっかりしたものが食べられるとは限りませんから」
「……」
「硬いパンを塩の味しかないスープに浸して食べて。ああ、スープにはちょっとの野菜くずがあって、本当にたまにお肉の欠片が入っていて……」
「……あの、その」
「とまぁ、だいぶ脚色しましたが一般的な農村ではそんな感じです。イズミさんのように気にされる方は、あんまり聞いたことないですね」
それが異世界のスタンダードなのか、ミルカが経験してきたことなのか。判別するにはあまりにも今のイズミには情報が足りない。
たしかに、それなりに奮発して作ったシチューではあるが、それにしたって一般的な家庭料理の範疇であって、偉い政治家やお城の王様が食べるようなご馳走でないことはイズミも理解している。
だけどもしかしたら、この世界では本当の意味での御馳走の可能性がないわけではない。しかしそうなると、ミルカの話やその態度にどうにも違和感というか、しっくりこない感じもある。
結論。
「……きちんと食えるだけありがたいってことか」
「ええ、そうですとも」
考えてもわからないことは、考えないに限るのだ。
「そのうちさ、この世界での普通の生活ってのを教えてくれよ……ま、俺がこの家から出る機会なんてないだろうけどさ」
「ええ、機会があれば……でも、その前に」
「その前に?」
ぴた、とスプーンを動かす手をミルカは止めた。
何やら少し恥ずかしそうにイズミ……ではなく、テオを見ている。
なんにもわかっていないテオは、ミルカに見つめられてにこーっと満面の笑みを浮かべた。お口の端の状態はこの際気にしないこととする。
「私も、一回でいいからその……ミルク粥を食べてみたいなあって」
ミルカの視線の先。今まさにテオがぱくっと食いつこうとしているミルク粥がある。
「ミルカさん……いや、食欲があるのは良いことだけど、テオの飯までは……」
「ち、違いますよ!? 普段イズミさんがどんなものを食べているのか知らなくちゃ、お料理だってできないじゃないですか!」
「……本音は? まさか、俺が普段から離乳食を食べていると本気で思ってるわけじゃないだろう?」
よくよく考えなくてもわかりきっている指摘。自覚はあったのだろう、ミルカは素足を見られた時と同じくらいに赤くなった。
「……テオが、いっつも美味しそうに食べているから。ど、どんな味がするのかなあって……」
「う!」
「ああ、なるほど……」
テオはいつだって、美味しそうにご飯を食べる。ミルク粥に限らず、イズミが口に運んだものなら夢中になって食らいつき、そして輝かんばかりににこーっと可愛い笑みを浮かべるのだ。あまりにも素敵な笑顔なものだから、ついついご飯を上げ過ぎそうになったことは少なくない。
「でも、こう言っちゃなんだがそんなに美味しくはないぞ? 離乳食だから味は薄いし食べ応えはないし……」
「まう! んま!」
「……イズミさんにとっては、でしょう? こんなにテオが嬉しそうにしていますし、もしかしたら私たちにとってはとても美味しく感じるのかも」
「……そんなに言うなら」
ふう、ふうとしっかり冷まして。自らのくちびるで熱くないことをちゃんと確認してから。
「ほい、あーん」
「うー!」
イズミはミルク粥のスプーンを、ミルカの口元へと持っていった。
「…………」
「ミルカさん?」
「うー! うー!」
「こら、暴れるなって」
左腕でがっしりテオを支え、そして右腕はまっすぐ伸ばしている。別段辛い体勢ではないが、あまりゆっくりしていると腕が震えてミルク粥がこぼれそうになる。できれば、なるべく早く食べてほしいところであった。
「いえ……なんでもないです」
「──あ」
少しだけ前のめりになって、ミルカがそれを受け入れた。
「あ……ホントだ、ほとんど味はしない……薄いミルクをそのまま口に含んだかのような……」
「う、うん……」
「……なんで、そんなにもじもじしているんですか?」
やる直前になって、イズミは気づいたのだ。
何気なくやろうとしたその行為は、実はとっても気恥ずかしいものだったんじゃないかって。
「や、その……なんかちょっと、照れたというか……」
「やってみるまで気づかなかったんですね……自分で言うのもなんですが、もう何度も同じことはしたじゃないですか」
「そうだけど……そうだよ、今までは大義名分というか、ミルカさんが一人で食べられなかったからっていう理由があったけど、今は別に……」
これじゃあまるで、イチャついている夫婦のようではないか。イズミとミルカが本当の夫婦だったら照れる必要なんてないのだろうが、しかしそういうわけではない。自分からやりだしたことも相まって、イズミは今予想外の自傷ダメージ(?)を受けていたのだ。
「……てっきりテオと同じ扱いをされたと思ったのですが」
「そりゃあ俺だって男だからな。ミルカさんみたいな綺麗な人と食事をしてるってんだから、緊張だってするさ」
「あらやだ、お上手ですこと。……お礼と言っては何ですが、今度は私がやってあげましょうか?」
──はい、あーん。
異界の夜。深い森からは、光が漏れるカーテンに映る団欒のシルエットを眺めることができた。この森で一番優しい影絵に応えるのは、名もなき小さな虫たちの鳴き声しかない。
「……昼間の仕返しかもしれないけど、そこでミルカさんが照れてちゃ意味無いんじゃないかなァ」
「……慣れないことはするもんじゃないですね」
「おっと、そいつぁもったいないや」
「きゃっ!?」
「ううー!」
異界の夜に、温かな声が木霊した。




