25 匂い
「匂い……魔法の匂い……?」
「……あう?」
テオを抱き上げ、その腹に顔をうずめるようにしてイズミは匂いを嗅いだ。さすがは赤ん坊というべきか、テオの体はふかふかで柔らかく、そしてとても温かい。
すんすんと鼻を動かしてみれば、ボディソープやお湯の匂い……いわゆるお風呂上がりの匂いとは他に、イズミの体からは終ぞ感じることのできない、甘いミルクのような匂いが感じられる。俗にいう赤ちゃんの匂いという奴だろう。
が、しかし。
イズミの鼻で感じられるのはそれだけだ。
「うー! うー!」
「もがくな、テオ。嗅げないだろ」
テオがぱたぱたと手足を動かす度に、やっぱり赤ちゃんの匂いがふわりと香る。これはこれで良い匂いなのは間違いないのだが、しかしミルカ曰くそれは魔法の匂いではないらしい。
「ま!」
「人の匂い……じゃないんだよなァ。というか、そもそも魔法に匂いなんてあるのか……?」
「う!」
「だから、動くなって」
「きゃーっ!」
テオを頭の上より高く抱き上げ、イズミはくるくると回った。最近新たに身に着けた、回転とひねりを加えた必殺技である。これをやっとけばご機嫌が取れることは間違いない。
──テオの足先がぺちぺちとイズミの顔に当たる。やっぱり、赤ん坊の匂いしかしない。
「……なにやってるんですか」
「あ」
ミルカが部屋にやってきた。ほんのりと頬が上気していて、髪はしっとりと濡れている。
「どうだった、久しぶりの湯あみは」
「ええ、それはもう最高でした。まさか再び……それもこんなところで上等なお湯を楽しめるとは思っていませんでしたとも……!」
「そいつはよかった」
「……私がお風呂に入った後、ずっとテオの匂いを嗅いでいたんですか?」
「だって……」
「う!」
匂い。魔法の匂い。それすなわち、この世界に魔法が存在することを意味する。先ほどミルカにその事実を告げられた時、イズミは柄にもなく飛び上がらんばかりに驚いたものだ。
当然、知りたがる。実物を見てもみたいし、できることなら覚えたい。使ってみたい。
長くなりそうだと判断したミルカが、そそくさとお風呂に退散して。風呂から上がったらぜひとも聞き出してやろうと決意を新たにしたイズミは、しかしそれが待ちきれなかった。
だから、こうして少しでも手掛かりになりそうなことを試していた……というのが本当のところである。
「俺の世界には魔法なんてものなかったからさ。それこそ夢物語みたいなものだ。気になるのは当然だろう?」
「はあ……。私には、こっちの暖かいお布団や美味しいご飯、良い匂いの石鹸やお風呂のほうがずっと、ずーっと素晴らしい夢物語のように思えますが……」
──ほら、だってこんなに。ミルカは小さくつぶやいて、未だ濡れている自らの髪先を肩元でくるくるといじくる。最近しばらくまともに洗えていなかったのに、あの不思議な石鹸で洗うだけで、自分の物とは思えないくらいに髪がきれいになったのだ。たった一回でこれなのだから、もし日常的に続けたらどうなってしまうのか、ミルカにはちょっと想像がつかない。
「温かなお湯があんなにたくさん使い放題で、運ぶ手間も沸かす手間もない。聞けば、井戸すら使わずにできるというではありませんか。……どれだけすごい魔法が使えても、ここでの生活程快適な暮らしはできませんよ」
「そんなもんかね?」
「ええ、そうですとも」
湯上りのほかほかした状態のまま、ミルカはイズミの隣に腰を下ろす。そこしか座る場所が無い以上当たり前の行動なのだが、それが何となくイズミの心をどきりと跳ねさせた。
なんだか妙に色気が感じられるのは、湯上りだからだろうか。それとも、久しぶりに綺麗にさっぱりしたからだろうか。あるいは、体調が戻って肉付きや血色がよくなってきたからだろうか。
おそらく、その全部なんだろうな──と思いつつ、イズミは邪念を振り払うかのように意識を変える。
「時にミルカ先生」
「はい、質問を許しましょう──イズミくん」
互いにくすりと笑ってから、そしてイズミはミルカに抱き着こうと体を伸ばしたテオを抱えなおした。
「魔法があるってのはわかった。……実際問題として、この世界ではどれだけの人間が魔法を使えるんだ?」
「んー……使えるかどうか、という一点だけで論ずるならば、【全員使える】というのが正しい答えです。ただし……」
「まともに運用できる人間は少ない……それこそ、才能や血統がモノを言う?」
「ええ。イズミさんが魔法のイメージがどの程度の物なのかは存じ上げませんが、一般的な場合、相当に長い時間と集中力をもって、ようやっと貧弱な火種を作れたり、手のひらを湿らせられたり……というのが限度です」
「……うわあ」
「一方で魔法使いと名乗れる人間であれば、例えばこの森に潜む魔物に対抗できる程度の炎を操れたりします」
「そりゃすごいな」
魔物の定義は不明だが、凶暴で凶悪な生物を火で倒すとなると、マッチや花火なんかのちゃちい火力では到底敵わない。つまり、火炎放射器やあるいは爆弾のような爆発を伴う火力を個人が行使できるということになる。
「無論、修練を続ければ魔法に対する素養は深まり、実力はあがります。ただ、それにも限界がありまして、血筋や才能が優れている者の魔法には敵わないことがほとんどです」
「あらら……」
「そんなわけで、魔法使いを名乗れる人間はかなり少ないです。そして、その実力もピンキリです。ただ、尊い血筋の方には強力な魔法使いが多い傾向があります」
「ふむ……じゃあ、さ」
イズミは、腕の中でころころ笑うテオを見た。
「……テオは、どうなんだ?」
「…………」
たっぷり、十秒ほど。言い淀んだにしては明らかに長すぎる時間を経て、ミルカは言葉を紡いだ。
「……魔法の勝負はやってみるまでわかりません。が、魔法の素養自体はある程度推測することができます。それが……魔法の匂いの強さです」
「……ふむ」
いろいろと引っ掛かることはある。聞きたい気持ちもある。
でも、別にそれは今でなくてもいい。イズミはそう判断した。
「この子の魔法の匂いは、かなり強いです。赤ん坊としては破格なほどに。一般人でこれだけの匂いを持つものはいません……もうすでに、魔法を使えてもおかしくないくらいに」
「……もう使っているかもしれないな?」
「……え?」
「たぶん、こいつの魔法の素養って水とかじゃないか? 風呂に行くとやたらとはしゃぐし、体も髪も、乾くのがすごく早いんだ」
あと、髪先がなんかそんな色しているし……という言葉をイズミは飲み込む。マンガやゲームじゃよくある設定だが、こっちまでそうとは限らない。
「ん! んま!」
にこーっと笑うテオを見て、ミルカも釣られるように笑った。
「……たぶん、無意識的にそれらしいことはしていますね。この子の魔法が水なのは頷けますし、以前はお風呂に入れても体が乾きやすいとかありませんでしたから」
実際、以前よりもはるかにテオの魔法の匂いは強くなっているらしい。魔法の匂いは魔法を使っているときに最も強く発せられるとのことで、ミルカによれば、今現在も魔法のそれに近いことはしているはずだという。
「ん……いや、やっぱ全然わかんねえな」
「うー?」
しかし、やはり何度嗅いでもそれらしい匂いはしない。ただただ、赤ん坊の甘い匂いがするだけだ。
「イズミさんは魔法のない場所から来られた……つまり、魔法の匂いを嗅ぐことに慣れていないからわからない、あるいはその能力が極端に低いのかも?」
「……ちなみに」
「なんでしょう?」
「魔法の素養があれば魔法の匂いが強いってのはわかった。で、みんな大なり小なり魔法の匂いを発していて、魔法を使えばさらにその匂いは強まるってのもわかった」
「完璧な理解ですね」
「じゃあ……魔法の匂いを嗅ぐ能力と魔法の素養の関係はどうなってるんだ? みんながみんな、鼻が利くってわけじゃないだろう?」
「……」
「まぁ、何が言いたいかって言うとだ」
テオの頭をわしわしと撫でてから、イズミは言った。
「魔法の匂いがわからない俺に、魔法の素養はあるのか?」
ミルカはさっと目を逸らした。
「あ……そ、そうか……」
「い、いえ! た、たぶんきっと嗅ぎなれてないのと、テオとずっと一緒にいたせいで気づかなくなってるだけですよ!」
「ホントかぁ?」
「そうです、そうですってば! ……そうだ! 私が今から魔法を使いますから、それで確かめてみてください!」
「あ、やっぱりミルカさんも魔法使いなんだな。……イイナー、みんなお揃いで……なぁ、テオ?」
「うー!」
「ああっ!?」
いえ、私も魔法使いの中では下の方ですから……と必死になって弁明するミルカ。イズミはいじけてテオに泣きつくふりをしながら、その様子をしっかり見て楽しんだ。
別に深い意味はそんなにない。ただ単に、ちょっとふざけてみたかっただけである。
「まぁ、マジな話そこまでショックを受けたりはしないさ。残念ではあるけどね」
「うぅ……そうですよ、イズミさんは魔法なんて使えなくてももっとすごいことされてるじゃないですか……!」
「俺じゃなくて、俺の家の力なんだよなァ……と、まぁそれはともかく、一応試すだけ試してみたいから、やってみてくれないか?」
「もぉ……」
しょうがないですね、と軽く咳払いをして。
ミルカはすっと目を閉じた。
「おぉ……!?」
なんとなく神秘的な雰囲気。集中力が高まっているのが嫌でもわかる。聖女のように荘厳な感じがして、芸術作品を見ているかのようにその顔から目が離せない。手で触れたくてたまらないのに、触れたら汚してしまいそうで恐ろしい……そう思わざるを得ないほどの、繊細な美しさ。
「こいつぁ……!」
集中している姿だけで、金がとれる。イズミは心の底からそう思った。
「きれいだ……いや、かっこいい……?」
「うー?」
「なんだよ、魔法使いってみんなこうなのか? おいテオ、お前も将来気をつけろよ? 迂闊に魔法を使う姿を見せたら、そこらの女が群がってくるぞ」
「きゃう!」
「マジで様になってて綺麗でカッコいい……カメラで撮っておかないと……こりゃあ、顔が良くないと無理だな。俺がやっても滑稽なだけ……お?」
ミルカの顔がじんわりと赤みを帯びてきている。それに伴い、イズミの鼻が新たな匂いを捉えた。
甘くて優しい、暖かな匂いだ。どこか懐かしい何かを思い出しそうになると同時に、甘酸っぱさで目の前がくらくらしてしまうような。なんとなく青春のあの頃を彷彿とさせる、ちょっぴりの切なさも混じっている。どこまでも安心できて、これを自分だけのものにしてしまいたい……そんな独占欲さえ呼び起こす──いろんな気持ちを呼び起こす、甘い匂い。
「あ……わかったぞ。ミルカさんからも、俺からはしない良い匂いがする。これが魔法の匂いだな!」
「……」
「そっか、こんな良い匂いなのか……! なるほど、テオの甘い匂いとはちょっと違うな。ミルカさんのほうが濃いのは、それだけミルカさんの魔法の素養がある……いいや、大人の魔法使いと比較できるほどの匂いを持つ、テオの素養を褒めるべきか?」
「……」
「本当に、本当に良い匂いだ……。魔法の匂いがこんなに甘くて良い匂いだなんて」
「…………」
「ところで、ミルカさん」
十分に満足した後で、イズミはさっきから気になっていたことを口にした。
「これ、何の魔法? いったい何をしたんだ?」
イズミの言葉に反応して、ミルカの長いまつ毛がふるふると震える。
ゆっくり、ゆっくりと瞼が開いて。
「……ばか」
「……えっ」
上目遣いで見つめてきた、涙で揺れる瞳。頬が真っ赤になっているのは、たぶん尋常じゃない羞恥心のせいだ。
「……まだ、魔法使ってません」
「ええ? でも、確かに俺からは感じない甘い匂いがミルカさんの方から……」
すんすん、とイズミが鼻を動かす。
ミルカの顔が、さらに真っ赤になった。
「……私の魔法の匂いよりも、テオの匂いのほうがずっと強いですっ!」
「わっ──!?」
強い風。油断してると仰け反りそうになるくらいの勢いの風が、イズミの顔を撫で、そして部屋のカーテンを大きく揺らした。
「今この瞬間もっ! テオの魔法の匂いのほうがはるかに強いですからっ!」
「そうか……? ミルカさんのほうが甘い匂いは強いぞ? 魔法を使っているミルカさんよりも使ってないテオの匂いが強いってのはおかしくないか?」
「テオは赤ちゃんだから魔力を使いこなせてないだけです! 今は大人のほうがきっちり使えるだけで、素養そのものは、魔力そのものはテオのほうがずっとずっと上ですよ……! それこそ、垂れ流しているだけで魔法を行使した私よりも強い匂いがするくらいに!」
「え……」
つまり、イズミがしっかり魔法の匂いを感知できていたのなら、間違っても【ミルカのほうが強い匂い】という感想は出てこない。ミルカの魔法の匂いを理解したことで、今まで慣れてしまっていたテオの強い匂いに気づくことができたとしても、それだけはないはずなのだ。
「じゃあ、これが魔法の匂いじゃないのなら、この甘い良い匂いはいったい……?」
「い……言わせないでくださいっ!」
イチゴのように真っ赤になったミルカは、失礼しますと頭を下げてイズミの自室に逃げていく。たったそれだけの動きで空気が揺れて、イズミの鼻にふわりと良い匂いが届いた。
──ああ、そういうことか。
ここにきてようやく、イズミはその匂いの正体に……ひいては、ミルカが真っ赤になった理由を察した。
「テオぉ」
「うー?」
「良い匂いがするって誉め言葉だよな? 別にあそこまで恥ずかしがることじゃない……と思うんだけど」
「んま」
「女心ってわかんねえよなァ」
ぺちぺちぺち、と腕の中のテオがイズミの頬を叩く。どうやら、程よいじょりじょり感が気に入ってるらしい。成されるがままに、イズミはテオに語り掛けた。
「テオぉ」
「う?」
「お前だから言うけどさ……」
「んま」
「俺さァ……夏の暑い日の体育の後、机に座ってて……隣を女子が通るの、結構好きだったんだよな」
「…………」
「なんか言えよ」
「……きゃう」
男が長年抱え続けたとある秘密。初めてその秘密の共有者となった赤ん坊は、そのぷにぷにの手で男の頬をぺちぺちと叩いた。




