24 おふろふたたび
「やっぱり無理があるんじゃねえかなァ……」
「い、いえ! そんなことないですからっ!」
風呂場。
すっぽんぽんのテオを抱っこしたまま鏡の前に腰掛けるイズミは、鏡に映る真っ赤な顔をしたミルカにそう問いかけた。
なんだかんだでいろいろあって、風呂に入ると決まったのがついさっきのこと。ミルカがイズミの背中を流すと言い出したのもついさっきのこと。そして、それには及ばない、わざわざそんなことをしなくてもいい……といったイズミの言葉を跳ねのけてミルカがここにやってきたのもついさっきのことだった。
「ミルカさんがどうしてもって言うならそれでいいけどさ……」
別にイズミとて、ミルカに背中を流してもらえて嬉しくないわけがない。まっとうに生活をしていて、お金を払ったわけでもないのに美女に背中を流してもらえる機会なんて、そうそうあるわけがない……というか、むしろ奇跡に近いレベルだろう。
加えていえば、ミルカがついてくれている分、テオのことをある程度任せることができる。なんだかんだ言っても、赤ん坊と一緒に入浴するというのは大変なことなのだから。
それでもって、イズミはミルカの前で裸になるのにそんなに拒否感はない。そりゃあ、諸々丸出し状態って言うのは憚られるが、下腹部にタオルを一枚巻いておけばそれで十分だ。その程度で恥ずかしがるような年齢はとっくに過ぎている。逆に、「これってセクハラにならないのか?」という方面での危惧の念を抱くくらいである。
問題なのは、ただ一つ。
「ウチの風呂、そんなに広いって程じゃないだろ?」
「う……」
一般的な家庭の、一般的なお風呂。片方は背中を流すだけとはいえ、二人が入るには浴室は少々狭い。
「やっぱりこう……あれか? なんかただっ広い部屋に浴槽がドンって置かれてるようなのをイメージしてた感じか?」
ボディソープを入念に泡立てながら、イズミはのんびりと語り掛けるようにつぶやく。自分一人の時では絶対にここまでやらないだろってくらいにきめ細かくなったふわふわの泡を、優しく丁寧にテオにこすり付けた。ナイロン製のボディタオルでは、赤ん坊の肌には刺激が強すぎるのだ。
「そうですね……この国の貴族のお風呂と言えば、おおむねそういったものがスタンダートなので。てっきりイズミさんのもそういうものだと思っていました」
「あっ、やっぱり貴族とかいるのか……いいねぇ、一度は貴族の風呂って言うのを楽しんでみたいもんだよ」
「いやぁ、それはどうなのでしょうかね……」
風呂の沸かし方。水やお湯の出し方に、シャワーの使い方。ボディソープとシャンプーの違いと、イズミはほとんど使っていない……もはや置物と化したリンスの使い方。
そういったものの説明を受けて、鏡の中のミルカは困ったように笑った。
「こんなに簡単にお風呂を沸かせて、好きなように水もお湯も使える……こんなに真っ白で上等な石鹸に、すごくいい匂いの髪油……。はっきり言って、貴族のお風呂よりもここのお風呂のほうがずっと上等ですよ。さすがは賢者の秘法です」
「賢者の秘法じゃなくて、純粋な企業努力の賜物なんだよなァ……」
広くはない。が、その空間にはすべてが詰まっている。収斂された機能的でコンパクトな空間といったほうが正しいのだろう。
「うー! うー!」
「よーしよしよし、暴れるなよ……」
くすぐったいのだろう。腕の中でけらけらと笑いながら身をよじらせるテオに、イズミは慎重にシャワーを浴びせた。もちろん、温度も水の勢いもしっかり確認済みである。
「いつも、こんな感じでテオを洗った後に湯船に浸かってるな。今は半分程度しかお湯を張ってないけど、ミルカさんが使う時は普通に目一杯お湯を張ってくれていいから」
「え……でも、イズミさんでも半分しか使わないのに、私がそんな……」
「半分しか使わないのは、テオが溺れないようにってだけだから。一人の時は溢れんばかりにやってるよ。どうせタダだし労力がかかるわけでもない。使わないのは逆に損だ」
それに、そろそろしっかりさっぱりしたいだろう──という言葉に、ミルカは少し恥ずかしそうにうなずいた。
「使い方はあらかたわかったよな?」
「ええ。ですので……」
ミルカは壁にかけられていたボディタオルをしゅるりと取った。見よう見まねでポンプをぽこぽこと押し、そこへボディーソープをきっかり三プッシュほど。あとはそのままわしわしと揉みこむように泡立てれば準備は万端だ。
「お背中をお流しさせていただきますね?」
「いや……ま、いいけどさぁ」
「うー!」
なんだか妙に背中がこそばゆい。力強くごしごしって感じじゃないが、ただひたすらに丁寧だ。程よい力加減ってやつなのだろう。ともすれば物足りなさを感じかねないのに、残るのは確かな満足感である。
ちら、とイズミは湯気で曇りかけている鏡を見た。
両腕の袖を腕まくりし、必死にイズミの背中を流しているミルカがいる。もうほぼ取れたとはいえ、手にはまだいくらか包帯やガーゼが残っている。泡がしみ込んで痛いんじゃないかと思わずにいられない。
そして、よくよく考えなくてもミルカは未だにパジャマ姿であった。
「変なこと聞くけどさ」
「はいはい、何でしょう?」
「ミルカさんが着てた服……あれって給仕服とかメイド服ってやつだろう?」
「……ええ。おかげで、こうしてイズミさんの背中を流すのに不自由はしておりません」
「……」
「誤解のないように言っておきますが、殿方の背中を流したのはこれが初めてですよ」
「あう!」
別にそこはあんまり気にしていないし、突っ込んだ事情も聴き出そうと思っていない。イズミが心配しているのは、あの泥だらけだけど高そうな服に、漂白剤を使ってもよかったのかどうか……というその一点であった。
「いや、その……高そうな服だったし、洗濯の仕方とか間違ってなかったかなって」
「うふふ、そんなこと……これでもプロですから。ワインだろうとスープだろうと、どんな染みが残っていようとも抜いてみせますよ」
「そいつぁ頼もしいや」
人に背中を流されるというのは、どうにも手持無沙汰である。テオを抱っこする以外、やることがまるでない。ましてやイズミが誰かに背中を流してもらったのなんて、それこそ小学生以来である。必然的にミルカとの会話も多くなっていた。
「それにしても、イズミさん……」
「どうした?」
「いえ……思いのほか、広いお背中をされているな、と。お召し物の上からでは気づきませんでした」
「ああ……こっちに来てから少なからず、いい運動をしているからかな」
二日か三日に一度は必ずある化け物どもの襲来。いくらクマよけスプレーでほぼ無効化できるとは言え、命と命のやり取りだ。イズミだって本気になるし、全力で事に当たっている。デスクワークだけをしていたころに比べれば体に筋肉もついて、はるかにがっちりした体格になったことだろう。
「そう、ですね……イズミさん、いつも戦ってくださるんですものね……」
「コツを覚えて、油断さえしなければどうにでもなるさ。それに俺の場合、安全地帯から無力化して、そのうえでシメてるだけだから……ミルカさんもケガが完全に治ったら、クマよけスプレーの使い方くらいは覚えておいた方がいい」
「すぷれー……ああ、あのオレンジ色の霧のやつですね」
温かなシャワーがイズミの背中を流れていく。どうやら至福の時間は終わったらしい。ついでに頭も洗ってもらえたら最高に気持ちいいんだろうなと思いつつ、イズミは湯船に手を突っ込んでお湯の温度を確認した。
「う! う!」
「よーしよしよし、すぐ入れてやるからな……」
早く浸からせろと言わんばかりに、テオが腕をぱたぱたと動かす。あまりにも勢いよく動かすものだから、イズミの下腹部の最後の砦まで取っ払われそうだ。さすがにそれは、ミルカにとって気の毒なことになってしまう。
「ありがとう、ミルカさん。ここまでで十分だよ」
「え……あ、ああ! そ、そうですね!」
「……どうした?」
「いえ、なんでも……」
おほほ、と上品に笑ってミルカはそそくさとその場を退散した。
「……なんだってんだ?」
「うー?」
「女ってわっかんねえよなァ」
「だう!」
テオから目を離していなかったからこそ、イズミは気づいていない。
タオル一枚を下腹部に覆うだけだったら──そんな状態で、鏡の前に腰掛けていたのなら。
ふとした拍子に、鏡に映ってしまうということを。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「ふーい、上がったぞ……と」
「あら、お帰りなさいませ」
湯上り。まだまだ体からほかほかと湯気の出ている状態でリビングへと戻ってみれば、ミルカは律儀にも何をすることもなく、ソファで座って待っていた。一応イズミが事前に渡しておいた着替えくらいは傍らにはあるが、本当にそれだけである。
「う!」
「あら、テオ。ずいぶんとさっぱりしましたね」
「こいつ、この年頃にしては珍しく、顔にお湯がかかっても怖がらない……どころかキャッキャとはしゃいでいるからなァ」
半裸のテオは、今日もいつものデカパンスタイルだ。おむつじゃない分、色々風通しもよくて気持ちいいのだろう。その動きやすさを存分に生かしてミルカに抱き着こうとするテオを、イズミはしっかりと抱きあげる。
「あうー……」
「もうちょっとだけ我慢してくれな」
「……あ」
思わず、といった感じにミルカが声を漏らした。
「なんだかテオ……すごくいい匂いが」
「ああ、なんかわかる……なんだろうなァ、シャンプーの匂いもそうなんだが、この……赤ん坊特有のミルクみたいな甘い匂いがするんだよな」
抱っこしていることをいいことに、イズミはすんすんとテオの匂いを嗅いだ。やはり、テオからは優しい甘い匂いが確かに感じられる。同じシャンプーを使っているのにどうしてこうも違いが出るのか、初めてそれに気づいた時からイズミは不思議でならない。
「それもそうですけど……やっぱり、強まってる?」
「……強まってる?」
「イズミさんは気づきませんか……あら?」
「きゃーっ!」
テオの手のひらをこちょこちょとくすぐっていたミルカが、はっとしたようにイズミの顔を見た。
「……ちょっと失礼をば」
「うおぁっ!?」
すんすん、すんすん。
目をつむり、甘えるようにして──ミルカがイズミの体の匂いを嗅いでいる。肩とか胸とか首筋とかに鼻を押し当てるように近づけている。美人の顔がすぐそこにあるってだけでも緊張するのに、火照った体に吐息が当たるものだから余計にそれを意識せざるを得ない。
「あ、あの、ミルカさん?」
「……やっぱり」
すんすん、すんすん。
ややあってから、ミルカはすっとイズミから体を離した。
「イズミさん……変な匂いがしますね」
「ええっ!?」
マジかよ、とイズミの心の中で大量の冷や汗が流れる。一応こう見えて、体臭にはそれなりに気を使っているつもりがイズミにはあった。さらに言えば、ミルカがここに来てからは余計に気を使っていたのに、である。
イズミだって男だ。高校時代に部室や体育後の男子全体として『男くせえ』と女子に言われたことはある。だけど、それはそういうものだと理解していたし、なによりイズミ個人を特定して言われたものではない。
が、今回はイズミ個人が、他でもないミルカによってそう言われてしまったのだ。ショックを受けないはずがない。しかも、今まさに風呂から上がったばかりなのに。
「え……ウソだろ……まさか、加齢臭か!?」
「加齢臭? 何をそんなご冗談を……普通に落ちつ……じゃない、男の人って感じの匂いですよ?」
「いや、だって、男で変な匂いって言ったらそれくらいしか……! あれ、自分では気づかないって言うし!」
「そうです、気づかない……というより、全く無いんですよ」
「……え?」
「だから、イズミさんからは──全然魔法の匂いがしないんです」
加齢臭疑惑よりもさらに大きな衝撃。ミルカの口から発せられたその言葉。イズミの知っている日本では、絶対に聞かないであろうその単語。
「……魔法って、あるの?」
「……ありますよ?」
イズミの常識が、再び音を立てて崩れ落ちた。




