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ハウスリップ  作者: ひょうたんふくろう
ハウスリップ
23/99

23 シーツの血の跡


「いよいよ、だな……」


「ええ……」


 イズミのスマホの待ち受け画面が変わってから三日後。イズミの──というかもはやミルカの寝室と化したそこで、二人は神妙な顔をして向かい合っている。この場で呑気しているのなんて、イズミに抱かれてうとうととしているテオくらいなものだった。


「それでは……!」


「ああ、待て待て。一応、手を……」


「ありがとうございます」


 差し出した手に感じる、安心を求めるかのようにぎゅっと握ってくる温かな感触。ああ、やっぱり細い指だし、傷だらけだったのにずいぶんと艶やかだ、自分があと十年若かったら真っ赤になってたろうな──だなんて、いろんなことがイズミの頭の中を巡った。


 そして。


「……と、ととっ!」


「おっと」


 ぐん、と引っ張られた手をしっかり支え。


 ついでに、勢い余ってがしっと掴まれた左肩の衝撃にもしっかり耐える。


「い、イズミさん……!」


「……おめでとう!」


 イズミの目の前に、生まれたての小鹿のようにフルフルと足を震わせて立っているミルカがいる。その顔は、ぱあっと花が咲き開いたかのように笑顔だった。


「た、立てました……! 私、立つことができました……!」


 ようやく、ミルカは立ち上がれるほどになるまで回復した。まだまだ足元は覚束ないがそれはきっと長い時間ベッドで過ごしていたからだろう。少し歩けば感覚を取り戻せるはずだし、そうしている間には失った足の筋肉も徐々に戻ってくるはずだ。少なくとも、家の中を歩き回る分には全く問題ない。


「どうだい、久しぶりに歩いた感覚は?」


「んー……まだちょっと慣れない感じはしますが、問題ないです」


「痛むか?」


「ちょびっとだけ擦れて痛みますが、これもすぐ慣れるかと思います」


「そうか……そうか! いや、よかった!」


「ええ……本当に、なんとお礼を言ったらいいか!」


 ミルカの足の状態も、かなり快復に向かっているらしい。あれだけベロベロに皮が剥けて目も当てられない状態だったが、ここ数日の間には薄皮が張ってきて、そしてそれらが少しずつ厚くなってきていた。包帯を替えるのもほとんど必要ないくらいで、だからこそこうして立ち上がるチャレンジをしてみることとなったのだ。


「それにしても……」


 ミルカの手を握ったまま、イズミは改めて思う。


 今までずっと、ミルカはベッドに寝ていた。だから、イズミの中のミルカのイメージはベッドに横たわるそれがほとんどだ。


 対して、今は普通に立っている。それだけでもう、普段と印象が変わって見えた。


 ミルカの背丈はイズミより頭半分ほど小さい。女性にしては少々高めとはいえ、身長にして165cmあるかどうかといったところだろう。職業柄(?)か、背筋がぴんと伸びているので、単純な見た目だともう少し高いような印象を受ける。


 なによりも。


「どうかしました?」


「いやァ、綺麗な人だと思ってな」


「あら」


 お世辞抜きに、ミルカはイズミが今まで見てきた中で一番きれいな人だった。初めて会った──あの雨の中、ボロボロの状態の時でさえそう思えたというのに、今はその時よりもさらに綺麗なように思える。


 おそらく、頬の赤みや全体的な肉付きが戻ってきたからだろう。肌の血色はよく、目のクマもない。疲労と衰弱でボロボロだった時とは比べるべくもなく、ミルカは健康的であった。


「うふふ、お世辞とわかっていても嬉しいですわ」


「お世辞じゃないんだが……まァ、ミルカさんならこの程度は言われ慣れてるか」


「またまた」


 うふふ、とミルカは笑ってそれを受け流す。手慣れた感じがすることを鑑みるに、この手のやり取りはもう何度も経験しているのだろう。むしろ、これだけ綺麗なのに声を掛けられ慣れていなかったとしたら、それはそれでどうなんだろうな──とイズミは思う。


「んま! ま!」


「ああ、テオ……!」


 ミルカが立ち上がったことにテオも気づいたのだろう。とろんとした瞳はどこへやら、今は元気にミルカに向かって腕を伸ばしている。あまりにも元気が良すぎて、うっかりしているとイズミの腕から落ちてしまいそうなほどだ。


「ごめんね、抱っこはもうちょっとだけ待っててね……!」


「やっぱりまだ、自信はないか?」


「ええ……行けるとは思うんですけど、それでも万が一があったら怖いですから」


 愛おしそうにテオの頬を撫で、ミルカはすっとイズミの方へと顔を上げた。


「それで、その」


「……ん? ああ、快気祝いに桃缶食べたいのか?」


「ち、違いますっ! 食べたいのはそうですけど、そうじゃなくて!」


 こほん、と一度咳払いをしてからミルカは語りだす。


「この通り、最低限の生活はできるくらいに回復いたしました。つきましては、このお部屋──イズミさんのお部屋から、場所を移りたく」


「ああ……」


 ミルカが使っていたのは、紛れもなくイズミのベッドだ。あの時倒れたミルカを無我夢中で寝かしつけて以来、そのまま使っている。当然、元々の使用者はイズミ、即ち家主であるわけで、ミルカの状態が回復した以上、それを元の持ち主に返すのは当然の行動と言えよう。


「そっか……そうだよな。でも、回復したって言ってもまだ完全じゃないだろう? ベッドのほうが寝起きするにはいいんじゃないか?」


「あらやだ、イズミさんったら。お借りしているのは私の方ですわ。こんな豪華なベッド、家主を差し置いていつまでもお借りするわけにはいきませんもの」


「そういう意味じゃなくて……それに、そんなに高いってほどでもなかったんだが」


「うふふ。それにこう見えて私、どんなベッドでも眠れるタイプなので。それこそ床でだって眠れますし。それに、実は……このお家の中がどうなっているのか、見るのを楽しみにしていたんですよ」


「あっ」


 立てるようになったら、このお家の中を探検してもいいって言ってましたよね──なんてにっこり笑いながら、ミルカはイズミの自室から唯一行けるそこ……すなわち、リビングへと足を踏み入れた。


 やっべぇ、とイズミが思ったときにはもう遅い。


「……えっ?」


「あー、その」


 リビング。


 大きめのテレビ。テレビが設えられているラックの棚にはゲーム機とDVDプレイヤーもある。その前にはちょっとおしゃれな透明の机があって、映画やゲームのお供としてコップやお菓子を楽しめるようになっていた。


 本やその他こまごまとした雑貨が収められているサイドボードのようなもの。その上には箱ティッシュやお菓子ボックスといったものが置かれていて、その傍らにはどこにでもあるようなプラスチック製のごみ箱がある。


 次に目に付くのは、やはりその大きなソファだろう。L字型をした紺色のもので、すっごいふかふかの素材でできている。ぽすんと座り込んでみればちょうどいい位置に背もたれのそれがあり、体がゆっくりと沈み込んでいくという優れた逸品だ。ひじ掛けのところの高さも申し分なく、これを枕にして寝転がれば……否、普通に座っているだけで安らかなる眠りの世界に誘われること請け負いである。


 止めとばかりに、大きくて抱き心地の良い四角のクッションまでおまけについている。女子供でなくとも思わず抱き着いてしまいそうになるくらい……それこそ、イズミが一目ぼれして購入してしまったほどのものだ。


「あ、ああ……!」


「……」


 そんな、異世界人から見れば信じられないような光景。この世界ではどこに行っても見られないだろうインテリアの数々。


 しかし、ミルカがずっと見ていたのはもっと別のところだった。


「な、なな、な……!?」


 ソファ。ソファであるのは間違いない。


 ソファのそのすぐ下。分厚い敷布団に、ぐちゃっとまとめられている毛布。継ぎ足すように配置された座布団と、ふかふかの枕。


 敷いたままそのままになっている──いわゆる万年床を見て、ミルカは絶句していた。


「いや、その……な? 最初のうちは、ちゃんと片付けていたんだよ。だけどホラ、まだ俺もテオの寝るタイミングを完全につかんでいるわけじゃないし、ちょっと手を放したいときにソファに寝かせるのは危ないし……」


 本音六割、建前四割といったところである。嘘自体は別に言っていないが、だからと言ってそのすべてを肯定できるわけでもない。布団を少し畳んで部屋の隅に置いておく程度なら、時間も力もあり余っているイズミになら簡単にできる。


「だから、その……自堕落ではあるんだが」


「……」


「これくらい、見逃してほしいな……なんて」


「……」


 ──こりゃ、ヤバいかもなァ。


 イズミは子供のころ、自室であるのをいいことに布団を上げていなかったことがあった。いちいち押し入れに戻すのは面倒だし、敷きなおすのも面倒だ、なら大して問題もないのだからこのままでいいじゃないか──という、一時の過ちがずるずると長引いてしまった結果である。


 当然、母親にはすぐにバレた。そして、そりゃもうびっくりするくらいにこっぴどく叱られた。


 思うに、ミルカも似たようなタイプだろう。初めて会ったときに給仕服を着ていたことから、その手の道の人間であることは簡単に推測できる。つまり、こういうズボラなことは許せない性格であるはずだ。


 が、イズミの心配は杞憂に終わった。


「い、イズミさん……!」


 ミルカは真っ赤になって、イズミに振り返った。


「なんで……なんで言ってくれなかったんですか! どうして……床で寝ているんですか!?」


「……えっ?」


「わ、わた、私、今までずっと命の恩人を床に寝かせて、自分だけベッドで寝てたんですか!? そんな、そんな恩知らずで無礼なことしてたんですか!?」


「いや、えーっと……」


「どうして、もっと早くに言ってくれなかったんですか!? こんなの、周りに知られたら……!」


「その、ウチの国は元々床で寝る文化だから……別に、無礼とかそんなことはなくてだな……」


「ご冗談はよしてくださいましっ! だったらどうして、イズミさんのお部屋にベッドがあるのですか!?」


 イズミは知る由もないが、この世界はベッドで寝るのが普通であった。どんな貧しい家でも、ベッドだけは必ずある。ベッドこそが家具の中で一番重要なものであり、ベッドのない家は家として認められずただの作業場でしかない。逆にいえば、ベッドさえあれば他に何もなくてもそこを家だと誰もが認めることだろう。それくらい、この文化圏ではベッドの持つ意味合いは大きかった。


 特別な事情でもない限り、ベッドで寝ないのはそれこそスラムの浮浪児くらいである。


「それについては……ああもう、なんて言えばいいのやら」


「ともかく、即刻私はこちらに移らせてもらいますっ! ベッドもきちんと元に戻しますからっ! これ以上イズミさんに失礼な真似をするわけにはいきません!」


 そう言って、ミルカは真っ赤になりながらイズミの自室へと戻っていく。


 なーんか嫌な予感がするんだよなァ……というイズミの直感は、間違っていない。


「……あああっ!?」


 ミルカがイズミの部屋に入って、たっぷり二十秒後。そんな、悲鳴にも落胆にも聞こえる声が響いた。


 いざってときはなんとかしてくれよ……と腕の中にいるテオに語り掛けながら、イズミが後を追ってみれば。


「う、うそ……うそでしょ……!?」


 掛け布団を払いのけた状態のまま固まったミルカがいる。


「い、イズミさん……!?」


「今度はどうした?」


「こ、これ……」


「……あー」


 涙目になりながら、震える指でミルカが指したのは。


「血の痕、だよなァ。やっぱり結構ついちゃってたか」


 シーツに点々と残っている血の痕。気のせいと見過ごすにはあまりにも大きなそれ。すでにかなりの時間が経っているから、赤というよりも褐色のそれに近い色合いになっている。黄色のようにもオレンジのようにも見える染みは、おそらくぐちゃぐちゃになった足から出ていたアレだろう。


 最初の方は、換えた包帯がひどい有様だったのだ。包帯にしみ出しているということはつまり、包帯を貫通しているというわけで、シーツが汚れるのも当然のことである。


「こ、これ、もしかしなくても私の足の……!」


「あー、うん。さすがに立てないけが人がいるのにシーツ交換とかできないし……」


「上掛けにも、毛布にもこびりついてる……し、しかも血だけじゃなくて、これ、泥まで……やだ、こっちのって泥水の跡……!?」


「あの時は無我夢中だったからなァ。とにかく寝かせなきゃって思って、そのまま寝かせたんだっけ」


「え……あの、あの時私、たぶん泥とか血とかでぐちゃぐちゃで、おまけにずぶ濡れだったと思うんですけど……」


「ごめんなあ。ホントはもっとさっぱりしてやってから、寝かせられたら良かったんだが」


 やはり、あの不衛生な状態で寝かしたベッドを、その後も普通に使い続けるのは問題だよな……なんて、イズミが思っていたら。


「……お、おい?」


「も、申し訳ありません……!」


 ミルカのぱっちりとした目から、大粒の涙がポロポロと流れた。


「本当に、本当に申し訳ありません……! 面倒を見ていただいたばかりか、こんなにも高価なものを汚してしまい……! お詫びの言葉もございません……!」


「いや、本当に大丈夫だから! 頼むから、頼むから泣いてくれるなよ……!」


「もう、今の私には差し出せるものなんて何もないのです……いいえ、仮に差し出せるものがあったとしても、これに釣り合うかどうかも……!」


「頼むミルカさん、話を聞いてくれ……!」


「お願いです、イズミさん……! 私はもう、どうなってもいいです。だから、それでも、テオだけは……!」


「ええい、話を聞いてくれ!」


「きゃっ!?」


 テオを抱っこしたまま、イズミはミルカの肩を強めに叩いた。


「いいか、シーツなんて外して洗濯すればいいだけの話だ。仮に汚れていても、使う分には全く問題ないだろう?」


「で、ですが……! これ、すごくふわふわで、あったかくて、絶対お高いやつ……!」


「そんなことないよ。ホームセンターで……いくらだったっけなァ、諸々込みで五万円もしなかったはずだ」


 消費税分についてはここでは考えないことにする──とイズミは頭の中で補足を入れる。


「だいたいミルカさん。この程度のことで……本当に、俺が怒ると思ったのか? ……もう結構、打ち解けてきたと思ったんだけどなァ」


「あ……」


 ちょっと悲しいぜ……とわざとらしくジェスチャーしてみれば、ここでようやっとミルカは落ち着きを取り戻したらしい。


「本当に、本当に……?」


「くどいぜ。そりゃ、ミルカさんが家に勝手に入ってきた挙句、めちゃくちゃに部屋の中を荒らして開き直るような奴だったら許さないけど……」


「……」


「俺が助けて、きちんとありがとうって言ってもらえた。それでもう、十分じゃないか。他の細かいことなんてどうでもいいんだよ」


「……すみま、せん」


「だから……」


 イズミは精いっぱい、安心してもらえるような優しい笑みを浮かべる。


「そういうのよりも……ありがとうって感謝の言葉のほうが俺は嬉しいぞ」


 目に涙をいっぱいに溜めたまま、ミルカは笑顔で言った。


「はい……! ──ありがとう、ございます……!」



▲▽▲▽▲▽▲▽



「……それにだな」


「はい?」


 ミルカが落ち着いて、ややあってから。唐突に、イズミはぽつりとつぶやいた。


「ミルカさんは気にしすぎなんだ。汚れたのなんだの、もう今更じゃないか」


「え? それってどういう……?」


「こういうことだよ」


「あ」


 いつのまにかぐっすりすやすやと寝ていたテオ。そんなテオを、イズミは高い高いをするように持ち上げた。


 露わになる、イズミの服の前面。すごく特徴的な、濡れた跡があった。


 あえて触れるまでもないが、テオの下半身もぐっしょりである。


「あ、あー……」


「な?」


「あの、その、本当に申し訳ありません……いえ、ありがとう……んん……?」


「この場面でありがとう……は、ちょっと厳しいかな? いや、ちゃんと健やかに育ってくれてありがとう……か? 食う、寝る、出すは赤ん坊(テオ)の仕事だからな」


「……ふふっ、そうかもしれませんね」


「ちなみに、抱っこ中もそうだし夜のおねしょもあるからな。本当に、血とか泥とか今更なんだよ……と」


 テオを元の位置に戻し、イズミは何気なく口にする。


「ちょっと早いが、今日は風呂にするか……せっかくだ、ミルカさんにもウチの風呂の使い方を教えよう」


「あら、それでは……」


 ミルカがにこりとほほ笑みながら放ったひとこと。それは、イズミにとってはあまりにも強烈すぎた。



「僭越ながら……お背中をお流しいたしますわ」

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