2 閉じた世界
「…………は?」
とりあえず、イズミは扉を閉めた。
「……頭バグったのかな、俺」
もう一度開けてみる。
「…………」
家の敷地までは良い。見慣れたいつも通りのものだ。びわの木も、物置小屋も、何ら変わりはない。
だが、石垣を越えた先からがダメだ。
「…………ええ」
鬱蒼と茂る樹々。むせ返るような自然の匂い。いくらイズミの住んでいるそこが田舎だといっても、これはあまりに酷い。まるで真夏の山の中を歩いているかのような、土と樹とちょっぴりの水の匂いが混じったそれだ。仮にも人間の生活範囲内で嗅げるような匂いじゃない。
「うっそだろオイ……」
聞きなれない鳥の鳴き声。イズミの家の近くにいる鳥は、「ちちちち」って綺麗に鳴くやつか、「きょきょきょきょ」ってコミカルに鳴くやつか、「グゥーッ、グゥーッ」って怒ったように鳴くやつのどれかしかいない。だけど今聞こえるそれは、「ヂィヂィヂィ」と、少々耳障りな鳴き声であった。
いや、百歩譲って鳥の鳴き声は良いとしよう。もしかしたら、いわゆる外来種のそういうペットの鳥が逃げ出してきたって可能性もある。
だけど、空に浮かぶ二つの月はダメだ。そもそもとして、なぜすでに九時を過ぎているはずなのに、こんな明け方かどうかみたいに空が暗いのか。
「落ち着け、落ち着け」
呆然としたまま、イズミはその言葉だけを繰り返す。冷静でいるというよりかは、あまりの出来事に頭の処理が追い付いていないといったほうが正しいだろう。
「まずは、頭がバグった可能性」
ほっぺをつねる。痛かった。
「次に、俺が夢を見ている可能性」
ほっぺを叩く。痛かった。
「そして、拉致られた可能性。この際どこかの秘密組織でも、宇宙人でもいい」
しかし振り向けば、いつもと変わらない愛しの我が家がある。それに、石垣を越えるまでは、いつも通りの愛すべき家の風景なのだ。
となれば、拉致られた可能性は無い。イズミ一人ならともかく、家を丸ごとなんて不可能だ。
「あとは……」
夢ではない。病気でもない。拉致でもない。
自分の体は正常で、家はいつも通り。ただ、家の敷地の外だけがおかしい。イズミの家の周囲はこんな森の秘境なんかじゃなくて、もっと長閑な田園風景のはずだ。
「……とりあえず、寝よう」
【何か機械が壊れたら、とりあえず再起動を試みるべき】──それが、イズミの長年の経験で得た知見であった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「やっぱ夢じゃないか……」
一度寝て起きた後も、外の風景は変わっていなかった。太陽が完全に空に昇った後も
──そもそもそれを太陽と呼んでいいかすらわからないが──黄色と水色の月はうっすらと空で輝いており、なんとも非現実的な印象をイズミに与えてくる。
「どこなんだろうな、ここは」
幸いにして、すぐさま何か危険があるというわけではないらしい。鳥の声や虫の声はひっきりなしに聞こえるものの、獣の雄たけびの類は未だイズミは聞いていない。妙な乱入者もいなければ、ドッキリだと看板を見せつけてくる趣味の悪いテレビ局の人間もいなかった。
「そだ、まずは」
とりあえず、外部への通信をイズミは試みた。
「……ちっ」
電話はつながらなかった。110番にかけても、119番にかけても、呼び出し音が続くばかりでそこから先に至れない。当然、出前の番号やその他知っているあらゆる番号にかけても結果は変わらない。
「……ん?」
が、パソコンのほうは様子がおかしい。電話がダメならインターネットもつながらないだろう……というイズミの予測に反し、電波の強弱を示すアイコンはバリバリの三本だ。そして、当然のようにページの移動ができている。
が、しかし。
「……書き込みはできない、と」
ページを読むのはできるのに、何かに書き込むことはできない。掲示板も、ニュースへのコメントも、あらゆるすべてだ。当然、メールを送っても送信ができなかったことを告げるエラーメッセージが返ってくるだけであった。
「読めるのに書けないなんてあるか? 読み込んでいる以上、通信は成立しているはずだろうに……」
とはいえ、仮にもオンラインで繋がっているのはありがたい。それに、よくよく考えてみれば、外部に連絡が取れたところでどうにかしてくれるとも思えない。悪戯と思われるのがせいぜいで、仮に信じてくれたとしても……さて、そこからどうしてくれると言うのだろうか。
もしイズミがそんな相談を受けたとしたら。おそらく、なるべく当たり障りのない言葉で病院へ行くことを勧めただろう。
「次だ、次」
とても家の中にいるとは思えない緊張感に包まれたまま、イズミは台所へと向かった。
「よっしゃ、水は生きてる……!」
蛇口をひねれば、いつもと変わらない様子で綺麗な水が出てきた。つまみの位置を反対に向ければ、少し遅れて熱いお湯も出てくる。どういう理由かはわからないが、水道とガスは生きているらしい。
「コンロも問題なさそう……ガス漏れとか、してないよな?」
念のため、イズミは窓を全開にして数分待ってみた。
──ガスの匂いも、水が漏れるような音も、何もしない。
「電気は……ああ、最初っから明かりがついている」
煌々と輝く明かりに、待機状態を示すテレビのランプ。若干タコ足気味なテーブルタップのランプを見れば、電気が通っていることもまた疑いようがない。
「……」
テレビをつけてみる。
どのチャンネルも、砂嵐であった。
「砂嵐って久しぶりに見たぞ……」
一応、録画した番組は見ることができるらしい。だから、テレビ本体が壊れたわけではなさそうだった。単純に、リアルタイムで流れているそれを確認することができないというだけだろう。
インターネットの閲覧はできていたのにテレビは見られないとはおかしい話だが、そもそもすでに十分におかしな状況である以上、細かいことだと切って捨てるほかないだろう。
ともあれ。
「水よし、ガスよし、電気よし……」
生活に必要な、最低限の機能は生きている。ひょっとしたら明日にも使えなくなってしまう可能性はあるが、まずは喜ぶべきことだ。
あとは。
「……ふむ」
食べるもの。いくら水があったとしても、きっちり栄養を取らなければいずれ栄養失調で死ぬ。
「そこそこはある……よな?」
田舎の一人暮らしもあって、イズミは基本的に食料は買い込む傾向があった。なるべく保存の利くものを中心に、それなりにバラエティも溢れている。さすがに生魚なんかは買い込み直後くらいしかお目にかかれないが、幸いなことにそれ以外だったら割とある。
幸か不幸か、最後にネット通販を使ったのは三日ほど前だ。二週間に一度通販を使っていたことを考えれば、上々といっていい。
加えて。
「備えあれば憂いなし……よく言ったものだよ、ホント」
まさかこんなことになるとは思わなかったけど……と思いながら、イズミはいくつかある床下収納の一つのふたを開けた。
「……よし!」
米に小麦粉、味噌に醤油。缶詰がたくさんに、チンするだけのレトルト食品。乾パンもあれば、社畜御用達の栄養バーまでそろっている。
計算が間違っていないのなら、贅沢しなければ四人家族が一か月過ごせるほどの……一人暮らしならば、四か月分に相当する食料が揃っていた。
「使うことは無いだろうとは思っていたけど……まぁ非常事態ってそういうことだもんな」
イズミが住んでいた──もはや住んでいた、のほうが正しいのだろう──日本では、数年おきに大きな災害が起きている。地震に水害、その他もろもろ……とあまりにもその手のことが多すぎるので、今やどの家庭でも非常事態に備えた準備をするのは当たり前なのだ。
「食料も……冷蔵庫の中を考えれば、四か月と半分くらいは、よし」
水、電気、ガス。食べるものに、温かい寝床。
これだけあれば……さしあたって、今すぐ死ぬってことは無い。
「……日本じゃ、ないんだろうな。いいや、そもそもとして──俺の知っているあの世界ですら、ないのかもしれない」
窓から見える二つの月を見て、イズミは呟く。
ここがどこだかわからないが、元のあの土地に戻れるとは考えにくい。これが海外ならまだ可能性はあるが、月が二つもある以上、運が良くて宇宙に存在する地球とは異なる星、運が悪くて──次元や時空を超えた、今風にいえば異世界にいると考えるほうがまだしも論理的だろう。
でも、まぁ。
「四か月は、生きられる。それだけは、好きに、自由に……何したっていいんだ。今はそれでいい」
そう思うことにして、イズミは昼餉の支度にとりかかった。