18 一撃
「──と、こんな感じだよ。……どうせ信じられないだろうけれど、そこはまぁ、元気になってから好きなだけこの家を調べてくれていい」
彼女への説明を終え、イズミはふうと息をつく。自分は日本という国で生活し、ある日突然この森の中に家ごと迷い込んでいた──だなんて、改めて振り返ってみれば荒唐無稽にもほどがある。もしイズミが逆の立場で説明を聞いていたのなら、絶対に話を信じなかったことだろう。
「……事情がある、というのはよくわかりました。残念ながら、私には賢者様の言っていることの大半はよくわかりませんでしたが」
「賢者だなんて、俺はそんなたいそうな人間じゃない」
「では、イズミ様で」
「様、も止してくれ」
「……では、イズミさん、で」
意外なことに、彼女はイズミの説明を聞いてもそれほど驚いた様子を見せていない。あるいは、わけがわからなさ過ぎて驚けるだけの理解に至っていないのか。どちらであろうと、イズミにとってはそれほど違いは無い。
「よし。……じゃあ、次はあんたの番だ」
「私は……」
彼女は言い淀む。
「ミルカ、と申します。この子は……テオ、と呼んでいます」
ミルカのほうはおそらく本当の名前だろう。しかし、テオ……赤ん坊の方の名前は愛称かそれに近いもののはずだ。普通に答えるにはあまりにも長すぎる沈黙が、それを物語ってしまっている。いくらなんでも、あんなにも意味ありげなそれを見逃す人間はいない。
とはいえ。
「そうか、ミルカさんにテオか……、ようテオ、これでようやく名前を呼んでやれたな」
「だーう!」
イズミにとってはそれで充分である。少なくとも今は、このけらけらと笑う泣き虫の赤ん坊の名を知れただけで、これ以上とない収穫であった。
「よし、今日のところはこんなものでいいだろう。もっと詳しい話は明日の朝になってからにしようと思うが……ミルカさん、何か聞きたいこととかやってほしいこととかはあるか?」
「……聞かないんですか?」
「……」
聞きたくないと言えばウソとなる。ここはどこなのかだとか、なんで森を彷徨っていたのかだとか、あるいはこの子の父親はどうしたのかだとか……それこそ、聞きたいことなんて山ほどある。
でも、ミルカは目覚めたばかりでまだまだ休養が必要だ。そして、イズミには時間だけはたっぷりとある。
「聞いたところで、今の俺が理解できるとは思えない。言っただろう? 気づいたらこの森の中にいたんだって。たぶん、当たり前の社会常識すら俺は知らないんだろうなァ」
「……」
「ああでも、一つだけ言っておこうか」
「……なんでしょう?」
テオを抱きなおし、イズミはなるべく和やかな笑みを浮かべた。
「ミルカさんがどうしてこの森を彷徨っていたのかは、そのうち教えてくれればいい。とりあえず、この家の中なら絶対に安全だってことと……好きなだけ、遠慮なくこの家にいてくれていいってことだけは、はっきり伝えておこう」
イズミの宣言に、ミルカは目に涙を浮かべ──そして、くすりと笑った。
「……それ、一つではなく二つでは?」
「……そういやそうだな」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「……さて」
なんだかんだで話し込み、気づけばすっかり夜も更けてきている。体感的には夜の九時とかそれくらいだろうか。すでに腕の中のテオはおねむであり、あどけない寝顔ですやすやと寝息を立てていた。
「俺とテオはあっちで寝るから。一応、ここも少しだけ戸を開けておくから……何かあったら、すぐに声をかけてくれ」
「あ……でも、この子の面倒まで見てもらうのは……」
「ミルカさんのその状態で、テオの面倒をみられるのか? 気にするな、すでに何日間か一緒に過ごしているから、大きなヘマはしない……はず」
それに、いくらなんでもケガ人のベッドに赤ん坊を寝かせることはできない。どちらにとっても、いい結果には成り得ないだろう。
「すみません……何から何まで」
「大したことじゃないから……と、それよりも」
すやすやのテオを万年床と化したいつもの場所──ソファの下の布団に寝かしつけ、そしてイズミはミルカに向き直る。
「包帯を、換えようと思うんだが」
「……あ」
ここでようやく、ミルカは自分が包帯だらけであることに気づいたらしい。
「そういえば、手も、足も……本当に、ケガをしていないところがないくらい……」
「そういうことだ。定期的に替えておかないと、治るものも治らない」
「あの、思い出したらすごく痛くなってきたんですけど……その、私の足ってどうなってますか……?」
「……聞かないほうがいいだろうなァ」
イズミの言葉に、ミルカはさーっと青くなった。
「あの、その、たぶん、自分でもすごくグチャグチャで酷いことになっているなとは思っていたのですが……」
皮がずり剥けて、ピンクの肉からよくわかんない汁が滲み出ている。信じられないくらいにパンパンな腫瘍のような血豆ができている。思い出すだけでも背筋が震えるような光景を、イズミは口にすることができなかった。
「まぁ、幾分かマシにはなった……と」
いつも通り毛布を跳ねよけようとして、気づく。
いくらなんでも、妙齢の女性が今まさに寝ているベッドで、そんな狼藉をするのは拙いのではなかろうか。医療行為とは言え、色々諸々絵面がイケナイことになってしまうのではないか。
「その……動ける? 包帯を換えるから、足を出してほしいんだが」
「あ……」
ミルカもイズミが言わんとしていることをなんとなく察したのだろう。
「あのっ! 自分でやりますから、おかまいなくっ!」
「……そうは言っても、その体でできるのか? いや、俺の治療も完全とは言えないけど……それでもやらないよりはマシだし、今ここで下手をすると……一生残りかねないぞ」
「う……」
赤ん坊を抱く力すら残っていない、自分で座り続ける力すら残っていない女性が、どうして自分の足先の治療なんてできるだろうか。しかも、包帯を巻く……と、そこそこ器用さを求められる作業である。
「これくらい……きゃっ!?」
無理に起き上がろうとして、そしてミルカは体勢を崩した。けが人の腹筋だけで毛布を跳ねのけ、そして起き上がろうとするなんて土台無理な話である。
「え……ちょっと待って……今更だけど、私、何を着て……」
「……」
「それに、なんか妙にさっぱりしている……」
「……」
「あの……」
「……さすがに、ずぶ濡れ血塗れ泥まみれの状態で、放置はできなかった」
「……で、ですよね」
沈黙。互いに何を言えばいいのかわからない。イズミはイズミでそれなりの引け目があるし、ミルカはミルカで理性としては納得できるものの、一般的な価値観としては泣きたくなっている。寝ている間に見知らぬ男に着替えさせられて、笑って許せる女がいるはずもない。
「……誓って言うが、変な真似はしていない」
「ええ……信じることにします……さすがに、あの状態の私を見て変な気を起こす方でしたら、今頃もっと酷いことになっていたでしょうし……」
「ああ、確かに」
「……その、本当はテオがイズミさんに懐いていたから、大丈夫だって判断したんですけど。そんなに私、酷い状態だったんですか?」
「……最初の日は、包帯が本当に酷いことになっていた、とだけ」
「ひえぇ……!」
その言葉を聞いて、ミルカも覚悟を決めたのだろう。さすがに、足に一生モノの傷を残すのは頂けないようだった。
「……お願いします」
「……ん」
ミルカに近づき、イズミは彼女の背中に腕を伸ばす。ミルカの方はイズミの首にしがみつくように両腕を絡め、その全体重をイズミに預けた。そのままイズミがミルカの膝裏のほうにもう片方の腕を伸ばせば──変則的なお姫様抱っこのようにして、彼女の体の向きを変えることができる。
──やっぱなんか良い匂いがすんだよなァ。
雑念を振り払い、イズミは彼女をベッドボードにもたれかけさせる。ちょうど電車の座席の一番端の、ベストなあそこで半身を預けるような形だ。
「んじゃ、ちょっと失礼します……」
ミルカのパジャマのズボンをまくり上げる。さすがにちょっと緊張するが、もう何度も見てきたものだ。抱き着かれるよりかは衝撃も少ない。
「あの、その、まじまじと見ないでくださいまし……!」
素足を見られる、というのはこの世界の女性──少なくとも、ミルカの価値観では、相当恥ずかしい行為に当たるらしい。イズミが思っていた以上にミルカの顔は真っ赤で、羞恥のためか泣きそうになっている。必死になって顔を背けているところを見ていると、イズミの心によろしくない火が点きそうにさえなった。
「悪い、すぐに終わらせるから──!」
こりゃあ、なるべく早く終わらせてやったほうがいいな──そんな、イズミの親切心。
残念ながら、それがいけなかった。
慌てたように、包帯を解いていくイズミが──ミルカの患部に巻かれた最後の一巻きを解いた瞬間。
「い゛……ッ!?」
女の人から聞こえちゃいけない声。まさしく悶絶といった苦悶の表情。
癒着しかけていた包帯をいきなりべりっとはがされたのだ。そりゃあ痛いに決まっている。察するに余りあるを超えて、聞いているだけで背筋がぞわぞわするほどだろう。
女の最後のプライドとして、ミルカは悲鳴だけは何とか飲み込むことができた。
が、肉体の方はそうはいかない。
「がフッ!?」
とても傷ついたけが人のそれとは思えないほど、ミルカの足が振り上がる。痛くて痛くて飛び上がった、というのが実際のところだろう。痛みによる反射として、それは至極当然のことだ。
問題なのは、ミルカの面前──足のすぐ前には、包帯を取り換えているさなかであったイズミがいたということだ。
要は、ミルカの足がイズミの顎を蹴りぬいたのである。
「あ……がっはァ……!?」
「~~~~っ!?」
完全なる不意打ちに悶えるイズミと、蹴りの衝撃という予想外の第二波でさらに身悶えするミルカ。
異世界の夜に、男女が痛みに歯を食いしばる音が響いた。