17 一息ついて
「……落ち着いたか?」
「……はい」
ややあってから、ようやっと彼女は泣き止んだ。女の泣き顔なんてほとんど見たことのないイズミだけれども、彼女の顔はいくぶんかすっきりさっぱりしたように──いわゆる、憑き物が落ちたような表情をしている。
「その、お恥ずかしいところをお見せしました……」
「いやァ、これくらいどうってことないんじゃないかな」
目を伏せ、頬を赤らめる彼女を改めて見てみる。綺麗であるのはもちろんのこと、とりあえず日本人とは全く違う顔立ちだ。明るめの茶髪にヘイゼルの瞳と、色合いからしてヨーロッパとかそっちのほうの人のように見える。
さっきまでは多少幼げな言葉遣いだったが、今はずいぶんと丁寧な口調になっている。取ってつけたような雰囲気は一切しない……どころか、ある種の風格すら感じるところを見るに、普段からこういう言葉遣いなのかもしれない。
落ち着いた、大人びた雰囲気すら醸しているところを鑑みるに。おそらく二十代の半ば頃かな、というのがイズミの見解であった。
「あの、その、それで……」
「ああ、まぁ互いに色々聞きたいことはあるだろうが……まずはあんたの体が一番だ。覚えているかどうかはわからんが、あんたはここにやってきてすぐに倒れて……今までずっと、三日間ほど起きなかったんだから」
喉も乾いているだろうし、おなかも空いているだろう……と、イズミが言葉をつづけるも、彼女はなぜか要領を得ない。ちらちらと恥ずかしそうにイズミを見ては、さっと目を逸らすといった謎の奇行を続けている。
「どうした?」
「……その、一つお尋ねしたいのですが」
彼女は、消え入りそうな声で囁くように言った。
「……賢者様は、服を着ないのが普通なのですか?」
「あ」
ぺちぺちぺち、と赤ん坊がイズミの胸板を叩く。かぁっと赤くなった彼女が、止めなさい、と赤ん坊の腕を押さえた。
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「一応弁明するけど、服を着てなかったのは風呂上がりだったからってだけだから」
いつもの青いシャツを着て、そして台所にオレンジジュースを準備しに行ったイズミは彼女の下に戻ってくるやいなや、開口一番でそう言った。決して変な意味はありませんよ、自分はあくまで普通の人間ですよ……との弁明である。
無論、彼女のほうもそれはわかっている。やり取りの一部始終は彼女だって見ていたのだから。ただちょっと、彼女は男の上裸に対して免疫が無かったってだけである。
「う! う!」
「こーら、お前は飲んじゃだめだ」
「だうー……」
「そんな顔しても……いや、これくらいならいいのかな?」
オレンジジュースに手を伸ばす赤ん坊をたしなめ、イズミは彼女にそれを渡そうとする。ちょっとお高めの、100%のオレンジジュースだ。味がめちゃくちゃ濃くて、なんかビタミンとかそういう栄養素がふんだんに入っていそうな逸品である。
「……う」
「……そっか、まだ手は万全じゃないか」
コップを受け取ろうとして、彼女は思いっきり顔をしかめた。きっとものすごく痛いのだろう。あの擦り傷切り傷打撲だらけの腕が、たかだか三日かそこらで治るはずもない。さっきは気合で動かしていただけに過ぎないのだろう。
「上手くできるかわからんが……」
飲ませてやる、と構えを取ったイズミを、彼女が目で制した。
「その、助けていただいてそこまでお手を煩わせるわけにはいきません……。それに、そんな上等なお飲み物までいただくなんて……」
普通のお水で十分です、それですら申し訳ない気持ちでいっぱいですと彼女は続けた。
「それに……その透明なグラス、もしかしなくても相当な値打ち物でしょう? もし万が一のことがあったら……」
「……それも含めて、状況の擦り合わせが必要そうだな」
ともあれ、イズミに彼女の言葉を聞いてやる理由はなかった。
「けが人が変な遠慮なんてしなくていいんだ。あんたはまず、自分の体を一番に考えろ」
「……ご配慮、痛み入ります」
イズミはそっと、彼女の口元にコップを持っていく。くちびるにコップの縁を当て、ゆっくりゆっくりと慎重に傾けた。小さくこくりと彼女の喉が動くのを確認してから、また少しずつコップを傾けていく。
「おいしい……!」
「そいつはよかった」
しばらくまともに取っていなかった水分だ。文字通り、体の隅々にまで染み渡っていくような心地だろう。最初は遠慮がちだった彼女の喉も、今では逆に清々しくなってくるくらいに気持ちよく動いている。
「あ……」
つうっと、彼女の口の端からしずくが伝った。
「うー!」
「こら、はしゃぐな」
何が面白かったのだろうか。イズミに抱っこされながら赤ん坊はけらけらと笑う。一方で彼女の方は、羞恥心から顔を赤くしていた。
「……うぅ」
「しょうがない、けが人なんだから」
──とはいえ、恥ずかしいもんは恥ずかしいよなァ。
近くにあったタオルで、イズミは彼女の口元をぬぐう。くちびるの左の下の方に、妙に色気のあるほくろがあるのが気になり、そして彼女の右目にも泣きほくろがあることに気づいた。
「ひとまずは落ち着いた、ってことでいいかな?」
「ええ、ありがとうございます」
「う! う!」
長い時間をかけて水分補給をして。ここにきてようやく、仮とはいえ話し合う時間が生まれることとなった。
「まずはどこから話すべきか……」
「……賢者様のお名前をうかがってもよろしいでしょうか」
「む」
自己紹介。この世界での一人ぼっちの生活が長いイズミにとっては、久しく行っていなかったことだ。そもそも人と会わないのだから、紹介どころか自らの名前を使う機会すらなかった。
しかしこうして人と対面している以上、必ず必要となるのが名前だ。彼女の提案も、頷けるものがある。
ついでに言えば、イズミはまだ彼女の名前も赤ん坊の名前も知らないのだ。今まではいろんな意味で二人とも話せなかったからイズミが一方的に語り掛けるに過ぎなかったが、今度からはそういうわけにもいかない。
だけど、それ以上に気にかかることがある。
「その、賢者様っていうのは?」
「え……違うのですか?」
「そう名乗った覚えはないな」
「その……ここは、帰らずの森です……よね?」
「森の名前まではわからないけど、深い森のど真ん中であろうことは間違いない……と、思う」
「……?」
彼女の顔に困惑の表情が浮かぶ。
「帰らずの森の中に住んでいて、おまけに……この、見たことのない内装。不思議な明かりに、使い方さえ想像できない道具類……それに、あっちの天井についているやつからは、暖かな風が出ているような……」
ここまで言って、彼女は一度言葉を区切った。
「てっきり、俗世間を離れて研究に没頭している賢者様なのかと……」
イズミの部屋に、特別使い方のわからない道具類なんてあるわけがない。テレビにパソコン、デジタル時計にライトスタンド……等々、誰の部屋でも見かけるようなものしかない。そして、エアコンのことを【天井についているやつ】なんて表現する人間は現代にはいないだろう。
止めとなるのは【賢者】という単語が当たり前のように彼女の口から出てきたこと。そんな言葉、普通に生きていたらゲームか漫画の世界でしかお目にかかれないだろう。
ましてや、ついさっきまで意識のなかった彼女が、伊達や酔狂……イズミをからかうためだけにうっかりそんな言葉を口にするなんてありえない。
つまり。
「──残念だけど、俺は賢者様なんかじゃない」
イズミもそろそろ、本格的に腹をくくる必要が出てきたということである。
「俺の名前は四辻イズミ。たぶんだけど──この世界のどこでもない、ずっと遠くからやってきた人間だ」