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ハウスリップ  作者: ひょうたんふくろう
ハウスリップ
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16 『よく頑張ったな』


 赤ん坊にぺちぺちと執拗に頬を叩かれ、ようやくイズミはそれに気づくことができた。


 リビングのすぐ隣の自室。万が一のことを考えて少しだけ開けておいた戸から、彼女の顔が覗いている。さっきまでは見えなかった──というより、気合と根性で何とか体勢を変えたのだろう。戸を開けてその全容を見てみれば、芋虫が頑張って這いずったかのようなダイナミックな様相になっている。


「よか……っ! よかったぁ……っ!」


「待て待て、無理するな」


 ベッドの上で這いつくばっていてなお赤ん坊に腕を伸ばそうとする彼女を、イズミは軽く制止する。ひとまず赤ん坊を抱きかかえなおしてから、今度は片腕で体を抱くようにして彼女を起き上がらせ、ベッドボードに寄りかからせた。


「ほれ、大丈夫だから慌てなさんな」


 さっき支えた感じでは、思った以上に体は軽い。衰弱しているのは間違いないだろう。こうして座らせているよりも、今まで通りきちっとベッドに寝てもらっていたほうが良いに決まっている。


 でも、たぶんこの人は、赤ん坊を抱くまでそれを良しとしない。目か、表情か、雰囲気か──何がそう思わせるのかはわからないが、イズミははっきりとそう断言することができた。


「あんたもまだボロボロなんだから──おっ!?」


 赤ん坊を差し出そうとしたところ、予想外の展開。


「だーう!」


「う……っ! う……っ!」


 倒れ込むようにして──というか、実際倒れ込むような形で彼女がイズミの胸元にすがっている。右腕は優しく慈愛を込めて赤ん坊の体を抱いているのに、それ以外は全部イズミに体重を預けている。


 イズミの胸に頬を押し当て、しかし目だけは赤ん坊から離さない。愛おしそうに、ボロボロの包帯だらけの腕で赤ん坊の体を、頬を撫でている。


 ──座っていられるだけの力も、抱っこする力もあるわけないよなァ。


 目を涙でいっぱいにしながら赤ん坊を慈しむ彼女の顔が、イズミのまさに目前にある。ツンとした消毒液やいわゆる薬箱の匂いに慣れてしまったのか、彼女の髪の甘い匂いしかしない。


 こうして改めて見てみると、やはり彼女はイズミが今まで見てきた中で一番綺麗な顔立ちをしており、そして笑った顔の美しさは何物にも代えがたい程である。


 そして、柔らかくて温かい。生きた人間の持つ──それ以上の意味合いのある、柔らかさと温かさだ。こんな状況でもなければ、イズミの顔は一瞬で茹でたタコのようになり、心臓が爆発していたことだろう。今でさえ、年甲斐にもなく少し鼓動が跳ねているのだから。


「……見ての通り、この子は無事だ。傷一つついちゃいない」


 恥ずかしさのような、妙なぎこちなさをごまかすようにしてイズミが呟く。


「あんたのおかげだ……よく、頑張った」


「……う」


 赤ん坊を撫でていた、彼女の手が止まる。


「う?」


「だう?」


「うわああああん!」


「!?」


 泣いた。彼女が思いっきり泣いた。さっきまでのように嬉しさに感極まって涙を流した……とかじゃなくて、小さい子供のようにわんわんと声を上げて泣き出した。


「ど、どうした!? な、なんか痛いところでもあったのか!?」


 赤ん坊が泣きじゃくったのなら、適当に抱っこするなりしてあやせばいい。少なくとも、イズミは今までそれでどうにかしてきている。だけれども、大人の女性がこうもわんわんと泣き出した時はどうすればいいのか。


 残念ながら、イズミにはその手の経験がない。そんな経験があったのなら、こうして田舎に引きこもって独り暮らしなんてしていない。


「うあああああん! うああああああん!」


「頼むから泣き止んでくれよマジで……!」


 赤ん坊にやるのと同じように、イズミは抱きしめるようにして彼女の頭をなでる。左腕で赤ん坊を抱っこ、右腕でもたれかかった彼女の頭を撫でているものだから、まるで二人いっぺんに抱きしめているような状態……というか、まさにその通りになっている。


 イズミの腕の可動域の限界と、一切の遠慮なく右肩に食い込んでくる彼女の細い指を考慮するなら、もはやそうすることしかできなかったのだ。


「も、もう、ダメだって……!」


「……」


「わ、わたっ! わたしひとりじゃ、もう、守れないって……! もう、限界で……!」


 堰を切ったように話し出す彼女。イズミはただ、黙って聞いている。


「ずっと、ずっと森の中を彷徨って……! 食べるものも、飲むものも……! 魔獣にだって……! もう、どうしようって……!」


「……」


「でも、この子だけは……! この子だけはって、頑張って……!」


「……そうだな」


 凶暴な獣どもが跋扈するこの森の中を、ほぼ着の身着のまま、赤ん坊を抱えて彷徨っていたこの女性。食べるものも飲むものもろくになく、頼れる人は誰もいない絶望的な状況の中、それでも赤ん坊だけは守り抜いて必死に歩いたこの女性。


 それがどれだけ心細く、困難な道のりだったかなんて……イズミには想像しようがない。想像できたとしても、きっとその十倍は辛い思いをしていたはずだ。


 だから、イズミにできることはひとつくらいしかない。


「でも、あんたはやりぬいたんだ」


「……っ!」


「安心しろ。もう大丈夫。ここは安全だ。食べ物も飲み物も、暖かい寝床もある。怖い化け物に怯える必要もない──この子がこんなに笑っているのが、証拠だよ」


「あう!」


 涙に濡れた瞳で見上げてくる彼女に、イズミは精いっぱいの笑みを浮かべた。


「もう何も心配しなくていい。けがが治るまで……いいや、けがが治ってもゆっくり寝ててくれていい。いつまででも、気の済むまでここにいて良いんだ」


 ぽんぽんと、子供をあやすように彼女の頭をイズミは撫でて。


「──よく頑張ったな」


「……っ!」


 イズミは、彼女の体を優しく抱きしめた。

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