15 目覚め
暗い、暗い森を彷徨っていた。
冷たい雨と、重くなった体。体中のあちこちが痛くて、体の芯から疲れ果てている。
なのに私は、森を彷徨っていた。
泥まみれ、血まみれになってでも。もう一歩も動けないと思っていても。
もう何日もまともにものを食べたり、眠ったりもできていない。
昼と夜の感覚すらわからなくなってきて。それでも、絶対にこの子だけは守ると心に誓って。
だから──それが見えた時、最初はとうとう幻覚が見えてしまったのかもと思った。
「……あか、り?」
木々の隙間から見えた、オレンジ色の光。見慣れたもののはずなのに、すごく懐かしく感じてしまったそれ。
なにより──この帰らずの森では、本来見られないはずの暖かな光。
「……!」
自然と、歩くのが速くなった。もうこれ以上絶対に動けないと思っていたのに、自分でも信じられなかった。
この暗い森だ。明かりなんてものがあれば、目立たないはずがない。一歩、また一歩とそこに近づくたびに、その明かりは強くなって──自分の頭がおかしくなったのではないということを、強く実感することになった。
そして。
「……っ!」
家だった。信じられないことに、この帰らずの森に立派な家があった。
明かりの正体は──この家から漏れ出たものだった。
つまり、人がいる。
「誰か……っ! 誰か、いませんか……っ!」
固く閉ざされた門扉を叩く。何度も何度も、しつこいくらいに。
「おねがい……っ! おねがいですから、あけて……っ!」
ああ、どうして中に入れないのだろう。取り立てて丈夫そうでもない、こんな簡素な門扉なのに。ちょっと頑張れば、簡単に越えられてしまいそうなちっぽけなものなのに。
「お願いです……っ! せめて、軒先だけでも……! 雨だけでもしのがせてください……っ!」
ああ、私の声は中の人に届いているのだろうか。もう、かすれてまともに出ていないんじゃないだろうか。
そもそも──中の人は、まっとうな人間なのだろうか。こんな森の真ん中に隠れ住んでいるような人間に、善性なんて期待できるのだろうか。
私たちを捕らえるために先回りした、追手ではないのだろうか。
──いや、そんなの今はどうでもいい。
「誰か……っ! お願い……っ!」
叩く。叩く。何度も、何度も。
叩きつける拳から血が噴き出ていても。痛みが骨の芯まで響いても。
「……っ!」
人だ。男の人だ。男の人が、その家の扉から出てきた。
よかった、少なくとも軍属じゃない。私兵でもなさそう。体のどこにも紋章がない。
この人なら──。
「どうか……っ! どうか、お願いします……っ!」
最後の力を振り絞り、この子を託す。
だいじょうぶ、やさしそうな人だ。ほら、今だって、釣られるように腕を伸ばしてくれた。
「どうか……この子を、助けてあげて──」
ああ、やっぱり。ちゃんとしっかり抱っこしてくれた。
あの子はちゃんと、無事にあの人の腕の中にいる。
その事実が、たまらなくうれしい。
──私、ちゃんと……役目を果たせたよね?
▲▽▲▽▲▽▲▽
ここは、どこだろう。
どこまでも安らかで、穏やかな感覚。ずっとずっとここにいて良いんだって、もう不安になることは何もないんだって……そう、お父さんとお母さんに抱きしめられているような感覚。
見えない。聞こえない。
でも、ただただ安心できる。心地よくて、何もかもがどうでもよくなってしまう。
なんだろう。
たしか、すごく怖い目に遭っていた気がする。すごく辛い目に遭っていた気がする。泣き出しそうになって、逃げだしそうになって、それでもどうしようもなくて……挫けそうになりながら、ずっと足掻いていた気がする。
でも、今は違う。
すごく、気持ちが良い。
ああ、体がすごく軽い。そして、何か柔らかくて暖かいものに包まれているみたい。すっごくぽかぽかしていて、ふんわりと深く何かに沈み込んでいるようで。
青い空に浮かぶ白い雲に寝そべったら、きっとこんな感じなのだろうか。
それに、何か良い匂いがする。
焼きたてのパンの匂いじゃない。咲き誇る花の匂いでもない。抱きしめてくれたお母さんの匂い……とちょっと似ているけど、やっぱり違う。
なんだろう、この匂い。嗅いでいると、本当に安心する匂いだ。
夢の中にいるみたいなのに、あまりに気持ち良くて眠ってしまいそう。
──夢の中で眠ったら、いったいどうなるのだろう?
「……」
ちょっと、喉が渇いた。
口の中が、なんか妙に甘い気がする……こんなに甘い感覚、いったいいつぶりだろう?
甘い。ただただ、甘い。混じりっけ無しに甘い。
あ。
たまに来る、この感じ。
ちょっと火照った体がすっきりさっぱりする、この感じ。
まるでお湯をふんだんに使って体をきれいにするような……一度でいいから、贅沢にお風呂に入ってみたい。あったかいお湯をいっぱいに用意して、そこに飛び込んでみたい。
──なんで、この感覚はたまにしか来ないのだろう? ふかふかも、ぽかぽかも、良い匂いもずっとあるのに!
──ずっと、ここで微睡んでいたい。
何もかも忘れて、ここで、こうして幸せに──
▲▽▲▽▲▽▲▽
「……っ!」
どこだ、ここは。
私はいったい、どこにいる?
「……」
ゆっくりゆっくり、開けていく視界。いったいどれだけ眠っていたのだろう。久方ぶりに開いたからか、酷くかすんで周りがよくわからない。
「……いえの、なか」
ああ、ダメ。なんて酷い声。かすれてガラガラ……まるでおとぎ話に出てくる悪い魔女みたい。こんな酷い声じゃ、誰も振り向いてくれなくなっちゃう。
いや、それよりも。
「……っ!」
意識がはっきりしてくるにつれ、手足がとんでもなく痛くなってくるじゃありませんか! 擦り傷、切り傷、打撲に裂傷……と、我ながら色んなケガを負っていたと自負はしていますが、よもやここまで酷いとは……。
うう、絶対傷が残ってるだろうなあ。あ、足なんてもうたぶんグチャグチャになってる……。
「……」
ベッド、かしら?
私は今、ベッドにいる……間違いない? それにしては、妙にふかふかで上等な……やだ、この毛布も何もかも、すっごい高級品ではないかしら? これは下手をすると奥様のベッドよりも……。
「……っ!!」
違う。冷静になれ。
なんで私はここにいる? 私じゃなくて──あの子は?
「……い、ない」
思い出せ。
そうだ、あの時私は──あの子を、あの人に託した。
たぶん、ここはあの家の中だ。どうにも奇妙な内装だけれど、現実的に考えてそれくらいしか可能性はない。
私がベッドに寝かせられているということは、どういう意図があるにせよ、すぐに命を奪うようなやつじゃない。交渉の余地はある。しかもおそらく……看病までしてくれているらしい。ただ放置されていただけにしては、妙に体に力が残っている。
これは……もしかすると、一番理想的な状態かもしれない。
「……」
それよりも、あの子だ。あの子を探さなくては。
「……も、ぉ」
なんで、私の体は動かないの? 足が、全然動かない! 力を入れているのに、全然動いてくれない!
かろうじてできるのは、首の向きを少し動かすだけ……あと、ちょっと手が動きそう。
そうだ、まずは辺りの様子を探らなくては……あ。
「あ、かり……」
部屋の端から、明かりが漏れている。いっそ不自然なほどに、煌々とした明かりだ。不思議なことに、揺らめきの一つもない。ずっと同じ強さで、まるで扉の向こうに昼が広がっているかのように。
……なんなの、ここ?
「おち、ついて……」
安全ではあるはず。雨も風もしのげて、信じられないくらいに柔らかいベッド。盗賊や蛮族の根城のような野蛮さはなく、悪趣味な成金貴族のような驕った雰囲気もない。ただただ見慣れない内装ではあるけれど、庶民らしさというか、妙な生活感はある。
なら、きっと……あの子は無事なはず。
「きっと、あの、ひかりのむこう……!」
痛む体を何とか動かして。ようやっと、倒れ込むようにして……体勢を変えることができた。
光の隙間。ようやく、その先が見え──
「──あ」
「いーい湯だったなァ」
「だーう」
半裸の男が、あの子を抱っこしている。抱っこされているあの子はふわふわのタオルにくるまれていて、元気に手足を動かしている。
「なんだかんだで半身浴でもけっこう温まったな……どうせ俺とお前しかいないんだ、この格好でもいいだろ。お前も半裸みたいなもんだし」
「だう!」
半裸の男が、優しくあの子をソファに座らせた。
「俺特製ミルク粥の時間だぞ……っと。ほれ、口開けろ」
「うー!」
「おーおー……ホント、美味そうに食うよなァ」
「あう!」
半裸の男が、あの子にご飯を食べさせてあげている。あの子に飲み物を飲ませてあげている。
自分が食べるのも忘れて、あの子の面倒を見てくれている。
「……けぷ」
「よーしよしよし、良く食った」
「あい!」
あの子を抱きしめて──あの子に笑ってあげている。
あの子が──元気に、笑っている!
「あう! あう!」
「ちょ、こら、叩くなって!」
「う! う!」
「待て待て待て、そんなぺちぺち俺のほっぺを叩いたってどうにもならんぞ!」
「きゃう! う!」
「なんだお前、もうおなかいっぱいだろ? これ以上何が──」
「だう!」
「ん……なんだお前、そんな……あ!」
ああ、よかった。
本当に……よかった!
「あんた──目が覚めたのか!」
「だーう!」
──あの子が笑う姿を、また見ることができた!




