14 おふろ
「だう!」
「よーしよしよし、いい子だ」
夜。早めの夕餉を済ませたイズミは、これまた早めの入浴を行っていた。理由はもちろん、赤ん坊を初めてお風呂に入れるためである。
抱き上げた感じでは、この赤ん坊の重さは10kgの米袋一つよりかは軽いかな、というのがイズミの感覚であった。生まれたばかりの赤ん坊が3kgで、一歳児の平均体重がおおむね9kgであるとされているため、概ね一歳児くらいだろうという推測はできる。
意外なことに、それくらいの頃合いであれば十分な注意の下、大人と一緒に入浴もできるらしい。イズミが当初想定していた、大きなタライみたいなものでちゃぷちゃぷ洗う……などといったことをする必要はないとのことだった。
「安物のボディソープだが……まぁ大丈夫だろう」
不潔であるよりかはマシだと判断し、イズミはボディソープを手のひらで入念に泡立ててから赤ん坊の肌に撫でていく。本来なら子供用の優しい石鹸を使うべきだろうが、無いものはしょうがない。それに、この世界にはもしかしたら普通の石鹸すらないのかもしれないのだ。それに比べればなんてことはないはずである。
「きゃう!」
「おう、ちょっと我慢しろよな」
くすぐったいのだろう。赤ん坊はけらけら笑いながら身をよじらせた。イズミにとっては嬉しいことに、どうやらお湯や泡を怖がったりしない……お風呂タイムを十分に楽しめるタイプの赤ん坊らしかった。
「ほーれほれほれ」
限界ギリギリまで弱く絞ったシャワー。左手で赤ん坊をがっしりとホールドしつつ、イズミは自らの足にシャワーを当てて温度を確かめる。
イズミ好みの熱いお湯ではない。が、ぬるいって程でもない。大の男が十人いたら、八人は物足りなさを感じて温度を上げるような、それくらいの温度だ。
「きゃーっ!」
「ホント楽しそうに笑うよなァ……」
頭からかかるお湯にすら、赤ん坊はきゃっきゃとはしゃいでいる。イズミが子供の時分には、泣いてわめいて逃げていたというのに。この子は将来大物になるやもしれん……だなんて思いつつ、イズミはその隙に手早く自らの体も洗った。
そして。
「にゅうよーく」
「あー!」
入浴。湯船にイン。日本人なら誰もが大好きな、心休まる癒しの瞬間。
「う! う!」
「……」
赤ん坊はイズミの膝の間だ。ついでにイズミがすっかり両脇を支えているから、万が一にも溺れるようなことはない。お湯もかなりぬるめで、明らかに40度を下回っている。温かいことには温かいが、追い炊き機能が恋しくなってくるような温度だ。
「……味気ねぇなァ」
きゃっきゃと笑う赤ん坊とは対照的に、イズミの表情は面白くなさそうである。
それもそのはず。
お湯がそんなに熱くない、という以上の問題があるのだから。
「半身浴って何が楽しいのかね……」
風呂の水嵩は、赤ん坊に合わせて普段の半分くらい程度のものとなっている。赤ん坊にとってちょうどいい感じの量……ということはつまり、イズミにとっては全然足りない量だ。
具体的には、お湯はイズミの胸に届くかどうか位でしかない。当然の如く肩まで浸かりたいイズミにとっては、逆に風邪をひいてしまうのではないかと思えてしまう。
「世の中のママさんはみんなこんな思いしてんのかね……」
イズミは足の間ではしゃぐ赤ん坊を見て、ふと考える。
「……あの人、今日は目を覚まさなかったな」
イズミがこの赤ん坊を彼女に託されたのは、昨日の夕方ごろ。あれから丸一日経ったことになるが、彼女は未だ目覚める気配がない。定期的な水分補給や夜の包帯交換の際にはいくらか反応があったものの、目を開いてくれることも、言葉を発してくれることも無かった。
「お前だって、こんなおっさんよりもママと一緒に入りたいだろうに……」
「う?」
何もわかってなさそうにイズミを見上げてくるまんまるのぱっちりした目。なんだか少しやるせなくなって、イズミは赤ん坊の頬を軽く突いた。
「そういやァお前、ママがいないのにぐずったりしないよな」
「あう!」
「泣き虫だけどな」
「うー!」
この赤ん坊が泣くのは、視界からイズミがいなくなった時……おそらくは、自分が一人だけになってしまった時だけだ。日中に一回、トイレに行こうとしてわんわん泣かれてしまったのをイズミは覚えている。あまりにも泣きじゃくるものだから、なにかあったのではないか……と、出るものも引っ込んで慌ててトイレからでたくらいである。
抱いてあやせばケロリとするため、体に特別異常があっただとか、そういうわけではないのは確かだ。
「明日になったらママも起きてくれるかね……」
ボロがでないうちに、なるべく早く本職の人間の意見を聞きたい。できれば、この世界のことについて教えてほしい。それが、イズミの心からの本心であった。
「羨ましいぜ、あんな綺麗なママがいてよぉ……おまけになんだ、お前を守ってこの森を彷徨ってたんだろ?」
「あうー」
「なーんでそんなことをする羽目になったのか……って、お前に聞いてもわかんないよなァ」
「う!」
「元気があってよろしい」
イズミは赤ん坊を抱っこして立ち上がる。入浴時間としてはネットに書いてあったのと同じくらいだ。イズミとしてはもっとゆっくりどっぷり浸かるのが趣味だが、ここは未来のある若い命に合わせるべきだろう。
「まずはこいつのバスタオル……と」
「きゃーっ!」
赤ん坊の体を大きなバスタオルでイズミは大雑把に拭いていく。
「……ん?」
違和感。
「なーんかお前、やたらと体が乾くの早くねぇ?」
まだそんなに拭いていないはずなのに、赤ん坊の体はすっかりもちもちつやつやのお肌になっている。濡れた感じが全然しない。腕とか足とかならまぁわからなくもないが、しっとり濡れていたはずの髪までさらさらになっているとはどういうことだろうか。
確かに、大人に比べれば赤ん坊の髪は薄く、乾きやすいのは間違いない。
だが、それにしたって何かがおかしかった。
「……ま、いいか」
そういう人種なのだろう、とイズミはそう思うことにした。考えてもわからないことは、考えないに限るのだ。
「ほれ、仕上げ」
赤ん坊の服なんて持ち合わせていない。
だから、イズミは自分のパンツ──もちろん、新品のトランクスだ──を、赤ん坊に履かせた。
「よーし、男前」
「だう!」
大人のトランクスだ。パンツのはずなのに、まるで普通のズボンのようになっている。ゴムのところなんて、腰を通り越して腹の上近くで止まっていた。紛うことなきデカパンである。
ちなみに、上着は良いものが見つからなかったので、上手い具合にタオルを巻いてごまかしていた。
女の子だったらこうはできなかっただろうな……と、イズミがほっとしていたのは内緒である。
そして。
「冷蔵庫よし、水道よし、電気よし」
風呂から上がった後の、いつも通りの指さし点検。
「歯磨きよし、お布団よし、パジャマよし」
「あう!」
今までやったことのない、最近追加されたばかりの確認項目。
「あと──ママも、良くないけどよし」
「う!」
抱き上げた赤ん坊と共に、隣のイズミの部屋で眠る彼女の顔を一瞥してから。
「それじゃあ──おやすみ」
「うー……」
赤ん坊と共に布団に入り、そしてイズミは明かりを消した。