12 経過
翌朝。目覚まし時計なんて使っていないのにいつもと同じ時間に目覚めたイズミは、しかしいつもと明らかに違う違和感をいぶかしみながら、未だ仲良しな瞼をこする。
ベッドが硬い。いや、床の間のようにガチガチじゃなくて、柔らかいことには柔らかい。
ただ、いつもの体が沈み込むような感覚がない。
「……ああ、そうだ」
目の前に、すやすやと眠る安らかな赤ん坊の寝顔。まだまだおねむなのか、しばらく目覚めそうにない。
「床に布団敷いて寝たんだっけ」
イズミのベッドは彼女が使っている。さすがに病人をベッドから追い出すわけにはいかないし、潜り込むことだって無理だ。仮に彼女が病人でなかったとしても、イズミが五つや六つの子供でもない限りは許されないことだろう。
幸か不幸か、死んだ両親の部屋はほぼ手付かずだった。だから、布団自体はもう二式ほど揃っている。押し入れあたりを探せば、来客用のそれだって見つかるはずである。
そんなわけで、何かあった時に備えたほうがいいだろう──と、イズミはリビングの机を少々動かして、そこに布団を敷いて眠ることになったのである。
ソファで寝なかったのは、ひとえにこの赤ん坊のためを思ってのことであった。イズミか赤ん坊か、どちらかの寝相が悪かった場合、取り返しのつかないことになりかねないのだから。
「もうちょっとだけ、寝ててくれよ……」
赤ん坊の肩にかかるように布団をかけなおし、イズミは立ち上がる。
「……まぁ、まだ無理だよな」
イズミの私室。例の彼女は未だに眠っている。昨日よりかはいくらか顔色がマシになっているように思えるが、まだまだ予断は許されない状況だろう。
カーテンを開けて朝日を取り入れ、ついでに窓を開けて換気を行って。
部屋の中をすっきりさせてから、イズミは台所へと戻り……そして、あるものをもって彼女の傍らに腰を下ろした。
「ぬるめの砂糖水……ぬるすぎるか?」
昨晩。赤ん坊をあやしたイズミは、赤ん坊を抱きながら次の一手──具体的には、けが人の看病の仕方を調べるべく、パソコンのキーボードをたたいた。
この時代において、パソコンで調べられないことなんてほとんどない。共有すべき知識は絶対に載っているし、どうでもいい個人の体験ですらごまんとあふれている。パソコンで調べられないことなんて、それこそお金の稼ぎ方くらいだろう。
しかし、イズミのそんな期待とは裏腹に、【冷たい雨が降る森の中を数日彷徨って気を失った人間を家で看病する方法】なんてものは、どこにも載っていなかったのである。
載っていたのは、どのサイトにも必ずと言っていい程書かれていた一文だけ。
「とにかく救急車を呼べ、病院に連れていけ……まぁ、そうだよなァ」
それができたら、イズミはこんな苦労をしていない。
とはいえ、全く何も収穫が無かったわけでもない。森の中を彷徨って意識を失った人間に対する対処方法は無かったが、登山中に低体温症で倒れた時の対処方法はあった。
曰く、濡れた衣服は着替えさせろ。
曰く、毛布などで包み、暖かい場所へ運べ。
曰く、甘くて温かい飲み物を飲ませろ。
──つまるところ、大体想像した通りであった。
「と、とと……」
砂糖を溶かした白湯。もはやそれを白湯と呼んでいいのかわからないが、イズミはそいつをマグカップからスプーンで掬い、彼女のくちびるを湿らせる。無理やりに飲ませるわけにもいかないし、ネットでも「意識のない人間に無理に飲み物を飲ませるな」と書いてあった。だから、これが今できる限界だ。
点滴を打てれば、それがベストなのだろう。素人のイズミでもわかるくらいに、彼女の栄養状態はよろしくない。雨のおかげか、本当に死なないギリギリ最低限の水分補給はできているようだが、それでも現代日本の水準から言えば脱水のそれに近しい状態のはずだ。
だから、本当はあまりよろしくないとわかっていつつも、イズミはこうして彼女のくちびるに少しずつ砂糖水を垂らしている。
「息はしているから……寝ているだけ、のはずなんだよなァ」
寝ているだけなら──つばを飲み込むくらいはできるだろう。現に、彼女の喉はときおり弱弱しくこくりと動いている。悪い反応ではないし、全くの無反応でもない。考えられる限りではベターな反応だ。
「なんとかなってくれると良いんだが……」
ゆっくりと、長い時間をかけて。何とかイズミは、ある程度の量の砂糖水を彼女に飲ませることができた。コーヒー一杯で喫茶店に数時間居座る輩がいるとも聞くが、下手をすると時間当たりの飲料消費量は彼らよりも少なかったかもしれない。
「さて」
栄養補給の次は──外の外傷手当てだ。
「……」
昨晩、こびりついた泥と血を蒸しタオルで落とし、これでもかというくらいに消毒液をぶっかけ、そしてガーゼや包帯を総動員して手当てした彼女の手足。
そのすべての包帯に、赤い血が滲んでいる。
「痛々しいな、ホント……」
幸か不幸か、包帯やガーゼの類も全部消耗品としてカウントされていた。彼女に使った分はそのままに、救急箱には昨日開けたそのままの状態でそれらが補給されている。
「……っ!」
「……染みるよな、そりゃ」
包帯を取り換えていく度に、わずかとはいえ彼女の体がピクリと動く。その表情も、微妙に苦しそうというか、なんとなく不機嫌な感じだ。血が中途半端に固まってこびりついているものだから、包帯に半ば癒着しているような状態なのだろう。
そんなものを引きはがされたら、そりゃ痛い。
「反応があるだけマシなのかね」
包帯の交換は終了。あとはこれを、夜寝る前にもう一度やればいい。
「早いところ、目だけでも覚ましてくれよ……」
──うわあああん!
隣の部屋から聞こえてきた、大きな泣き声。
どうやら、もう一人の隣人が目を覚ましたらしい。
「──また、来る」
それだけ言い残して、イズミは泣きじゃくる甘えん坊を抱っこしにリビングへと戻っていった。
20200525 表現の修正




