10 血塗れの足
「ちょっ!?」
間一髪。彼女が地面に倒れる前に、イズミはなんとか彼女の体を支えることができた。左腕には赤ん坊、残った右腕と体全体で受け止めるような──こんな緊急事態でもなければ、自分のバランス感覚も捨てたものじゃないと自画自賛するくらいの体捌きであった。
「おいっ!?」
反応はない。すでに彼女の意識は途切れている。ここからちょっとでも力を抜けば、それはもう無様に地面に倒れることだろう。
そのうえ。
「冷た……っ!?」
人がしていていい体温じゃない。冷え切っているのを通り越して、氷のようだ。さっきまで生きて話していたのが不思議なくらいである。
「くそっ!」
イズミは彼女の細い腰に腕を回した。左腕が塞がっている以上、おんぶも抱っこもできない。じゃあもう、こうやってずるずるとひきずるしかない。
「……!」
軽い。いくらなんでも軽すぎる。こんなにも不安定な格好で人を引きずっているというのに、それが全然負担にならない。意識を失った人間がこうも簡単に運べるなら、おそらくこの世に担架は発明されていないだろう。
骨と皮。痩せている、を通り越して衰弱しきっている。イズミの腕に感じる重さのほとんどは、おそらくこの水を吸いきった泥まみれの服のそれだろう。
早急に、なんとかしないとヤバい。これ以上雨に打たれたら、間違いなく死ぬ。
一刻も早く、一秒でも早く。彼女の体を温めねばならない。
「ふうっ!」
散らかすように長靴を脱ぎ捨て、そしてイズミはなんとか彼女と赤ん坊を家の中に連れ込むことができた。
「ベッド……の前に、ソファ!」
抱いた赤ん坊。おそらく一歳くらいだろうか。一応首は据わっているが、ハイハイできるかどうかは怪しそうな、そんな感じの体格だ。
この赤ん坊、彼女と同じくずぶ濡れでびしょびしょだが、不思議とそこまで汚れていない。せいぜいが顔にちょっと跳ねた泥がついているくらいで、それもこすって落とされたような跡がある。
「……あの人、この子を守ってたんだな」
そして、彼女と違って温かい。きっちり体温がある。今は目をつむっているが、意識を失っているのではなく、眠っているだけであるらしい。表情は比較的穏やかなもので、イズミの腕にはその赤ん坊が呼吸する動きが確かに伝わっている。
「ちょっと待ってな」
まず、赤ん坊の方をソファに横たわせる。これで両腕がフリーになった。
「よっ……と」
そして、気を失っている彼女を抱き上げる。いや、担ぎ上げるって言ったほうが正しいかもしれない。
「我慢してくれよ……と」
抱き上げた彼女を、イズミはそのままリビングの隣──自室のベッドへと寝かせた。濡れた彼女をそのまま寝かせたものだから、シーツも布団も何もかもびちゃびちゃ……おまけに泥までついてしまったが、この緊急事態にそんなの気にしていられない。
「と、次は……」
とりあえず、暖房のスイッチを入れる。ついでにストーブのスイッチも入れた。最近じゃあまり見かけない、灯油で動くやつだ。手っ取り早く温まるのだったら、こいつ以上に適したものはない。
「ええと、あとは……あ!」
彼女が履いているブーツ。これまたやっぱり泥まみれでぐちゃぐちゃだ。結構つくりはしっかりしているらしく、革製品のような特徴的な匂いがする。今は見るも無残な状態だが、元々は立派な履物だったのだろう。
当然のこと、こんなのいつまでも履かせているわけにはいかない。室内であるとかそういうことを抜きにしても、こんなの履いていたらいつまで経っても足先が冷えたままだ。それは実によろしくない。
だから、そいつを脱がそうときつく縛られた紐をほどいて──そして、イズミは言葉を失った。
「うっ……!」
イズミの手に伝わる、冷たい感覚。
ブーツから出た泥水と赤い何かが、イズミの手と掃除したばかりの床を汚した。
「こいつぁひでぇ……!」
露わになる彼女の素足。
血塗れだった。
靴擦れか、単純に豆でも潰したのか。思わずイズミが目を背けそうになるほどにぐちゃぐちゃで酷いありさまだ。皮の破けた跡があちこちにあり、赤黄色の肉が今も血を噴き出し続けている。小さめの、ぷっくりした可愛らしい大きさであったのであろう親指のところには、信じられないくらいに膨れ上がった、腫瘍のようにも見える赤黒い血豆があった。
「ちくしょう!」
だが、こいつは後回しだ。今はまず何よりも──冷え切っている彼女の体をどうにかしなきゃいけない。
「タオル、タオルだ」
ハンドタオルにバスタオル。もう面倒くさいからそこらにあったのを適当にひっかつかみ、イズミはせっせと彼女の体を拭いていく。白かったタオルがあっという間に茶色になり、足を拭いたそれは真っ赤になった。
このころになると、もう部屋もかなり暖かくなってきていた。イズミにとっては少々暑いくらいだったが、体がすっかり冷え切ってしまっている彼女にとっては、これでもまだ足りないかもしれない。
「……」
顔に張り付いてしまっている、彼女の明るい茶色の髪をかき上げる。
綺麗だ──と、イズミは露わになった彼女の顔を見て改めて思った。
顔立ちとしては、西洋系のそれだろう。日本人と比べて顔の造形がはっきりしていて、シルエットが美しく、まつ毛も長い。今は気を失っていて、目の下の隈や痩せこけた頬が痛々しいが、それでなお、人々の心を掴んで離さないような魅力がある。
もし、ちゃんと元気な状態だったら、きっと愛嬌もあって可愛い人なんだろうな──と、イズミはそんなことを思わずにいられなかった。
「……お湯だ。お湯を沸かそう」
雑念を振り払うように、イズミは立ち上がる。いつもの湯沸かし器に水を満タンになるまで入れてスイッチを入れ、どうせ大量に使うことになるだろう……と風呂の湯沸かしのボタンも押して。ついでとばかりに、その場しのぎの応急処置用にレンジで蒸しタオルも作る。
そろそろ、覚悟を決めなければいけなかった。
「ごめんな」
濡れた服を着せたままでは、体は冷える一方だ。どんなに部屋を暖かくしても、全然意味が無くなってしまう。
この年頃の女性だ。いや、若い女性でなくとも普通は嫌がるだろう。
でも、死ぬよりかはマシだと思ってくれることを祈るほかない。
一言だけ謝ってから、イズミは作業に取り掛かった。
「……ひでェな」
手足の擦り傷、切り傷が目立つ。打撲のような痕や、青痣だってあちこちにある。肌は青白いを通り越して土気色で、その体は今尚冷たく、イズミの心に例えようのないざわついた不安を抱かせた。先ほどの雨の中で受け止めたときよりかはマシだが、体の芯が冷え切っているのは間違いなさそうである。
なにより、彼女は痩せこけていた。手も足も心配になってくるくらいに細い。女性らしい健康的な細さじゃなくて、少し力を入れればへし折れてしまいそうな、衰弱と虚弱に苛まれたみすぼらしい細さだった。
そんな彼女の体を、イズミは蒸したタオルで丁寧に綺麗にしていく。
「どうしてこんなことになったのかは知らないけどよ……」
イズミは、心の底から祈った。
「頼むから、目ぇ覚ましてくれよ……」
答える人は、誰もいない。




