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短編集・箱の中の人々  作者: 兎ワンコ
5/7

エンディングロールは流れない

3/9の悪夢より

 私、七東京介(ななとうきょうすけ)は千葉県井久田市で水道設備の仕事に勤める28歳の会社員だ。


 井久田市は太平洋側に面した都市で、海沿いには井久田国際空港があり、その隣には一級河川が五つ合流する落地(おろち)川が流れる。


 落地川は名前の由来は、ヤマタノオロチから名づけられており、五つの河川がぶつかり、海に流れる様を昔の人がそう名付けたそうだ。落地川の長さは僅か二キロにも満たない。五つの河川が合流した後、二キロ流れれば太平洋にぶつかるのだから。


 五つの一級河川がぶつかるお陰で、落地川周辺は過去、多くの水害に見舞われてきた。その為、戦後に大きな土木工事が行われ、川幅は十五メートル。堤防の高さは五メートルまで設けられた。


 川底と呼ぶ低床はコンクリートで施工され、海抜1メートルに位置しており、接続する海から500メートル程伸ばして施工されている。その部分を第一低床と呼ぶ。それから上流に向かって川の真ん中を盛り土し、そこで川の水位を調査出来る部分を第二低床と呼んだ。来た人がその水面を見られる岸となる場所を第三低床と呼んだ。普段、川の水位は第三低床まであり、第一低床と第二低床は沈んでいる。第三低床から第一低床までの高さは五メートルまであるが、流れる水面を覗いても農業用排水で淀んだ水のお陰で底を見通す事は出来ない。


 そしてこの落地川の上には橋のように川を跨いだ井久田ブリッジホテルがある。ホテルは隣接する国際空港の観光客向けに作られた宿泊施設であり、ホテルの建物自体は空港敷地内にある。落地川との連絡橋として存在しているが、この橋には寝台列車のような客室が存在し、宿泊客は客室の下を流れる落地川を堪能できるのだ。


 想像してほしい、窓の向こうに関東平野から流れ込む五つの河川が目の前でぶつかり、窓に近づいて見下ろせばその巨大な河川が足元で流れているのだ。まるで空中に浮いた家で川を眺めている気分だろう。




 その日の夜、関東全域には大雨洪水警報が発令されるほどの土砂降りで、私は同僚であり、高校時代からの同級生である松本努(まつもとつとむ)と落地川横の井久田ブリッジホテルの従業員用の寮棟に行くことになった。


 なんでも、寮内の水道汲み上げポンプで異常を告げるブザーが鳴り出したそうだ。私と努は一台の社用車でホテルへと向かう。


 私の運転でホテルへ向かっている途中、努は今日の仕事に不満を漏らしていた。彼は婚約して四年目で、今では二人の子供に恵まれている。一通りの不満を並べた後、彼はいう。


「京介、お前もいい加減映画ばかり見てないで、結婚を考えたらどうだ」


 私はハンドルを握りながら苦笑する。彼の言う通りなのかもしれない。趣味である映画鑑賞を馬鹿にされた事には腹が立たないが、隣の同年代の友人が家族を築き上げていく事に関してはやはり、生物学的に焦燥感に駆られる。


 私は「これでもストライクゾーンは広いつもりだ。自慢のバットだってきちんと握っているし練習だって欠かしていない。でも誰もマウンドに立って、私にボールを投げて来ないんだ」と皮肉交じりの冗談を投げ付けてやる。


 努が私の皮肉を乾いた笑いで吹き飛ばす。


 そんなくだらないやりとりをしているとホテルが見えてきた。ホテルの横を通り過ぎ、従業員用の通路を車で進んで、従業員用の寮棟の前に車を回す。


 寮棟は八階建ての鉄筋コンクリート造の建物で、外壁は赤を基調したものだ。ひどい土砂降りの中、私と努はブルゾンの作業着の肩を濡らしながら車を降り、そそくさと寮の入り口へと駆け込む。


 入り口に駆け込み、エントランスと併設する窓口に近寄り、初老を迎えた管理人に社名と用事を伝える。管理人とは何度か面識があるので、彼は「ご苦労様、お願いします」と告げると、それから何も言わずに新聞を広げ始めた。


 私と努は一礼し、窓口の前を通り過ぎて、エレベーターへと向かう。建物内の壁はコンクリートに白い吹付塗装で施工されており、結露した水滴がそのまま凝固したような表面が、天井に設けられた蛍光灯の光を反射させている。


 私は廊下を歩きながら、周囲の壁や天井に視線をぐるりと回し、青いエレベーター鉄扉の前に着くとくすんだ透明なスイッチを押してエレベーターを呼んだ。


 青いエレベーター鉄扉が開くと、最大四人乗りの籠が目の前に現れる。私と努は何の疑いもなく籠に乗り込み、ポンプのある八階へのボタンを押した。




 八階でポンプの調査をしたが、結局のところ異常は見つけられなかった。恐らくこの土砂降りのせいで誤作動を起こしたのだろうと判断した私達は、一度話し合った。


 このまま会社と管理人に報告して帰ることも出来たが、もしも何かあった場合、また土砂降りの中でここに呼び出されるのがごめんだ、と判断し、私達は全ての階を一通りチェックしようと決めた。


 寮棟の構造は外周際に部屋が設けられ、それを囲うように幅一メートルにも満たないロの字型の廊下という作りになっている。エレベーターはちょうど建物の真ん中にあり、私達は静かに廊下を一周し、部屋のドアの横に設けられている水道メーターのチェックを行った。


 時刻は23時を回る。私達は眠っているであろう従業員たちの為、最小限の足音で廊下を一周してはチェックし、そして次の下階に降りてを繰り返した。


 同じような工程を繰り返して四階まで辿り着いた。その頃には私の仕事のやる気も散漫になり始めた頃だ。


 エレベーターを降り、右へと曲がって廊下を覗く。目の前に大きな男がこちらに背を向けて立っていた。灰色に近いトレンチコートを羽織り、頭には同じ色のシルクハット。そして僅かな隙間から見える首すじの肌はコンクリートにも負けない程の灰色だった。


 身長百七十八の私が見上げるほどの背丈からして、目算でも二メートルは超える。何よりギョッとしたのが、廊下の幅いっぱいに広がったその体躯と、微動しないその立ち振る舞い。


 私は思考する。どう考えてもエレベーターから降りた私の気配に気付いているはずだ。仮に、気付いていたとして、なぜこの男は何の反応も起こそうとしないのか?


 疑問と同時に湧き上がるのは得体のしれない恐怖。肌が粟立ち、足の力が抜けていくのを感じる。

 背後にいる努に悟られぬよう、私は身体をエレベーター前に戻す。


 何も知らず、突然体躯を戻した努に気付いた私は、短い時間で思考を巡らせる。あれは幻だ。何かの見間違いだ。そう決めつけ、自分に必死に言い聞かす。


 私は何も言わずに見つめる努を置いてけぼりにしたまま、今度は反対側へ足を進めた。努は今度こそとはばかりに私のすぐ後ろ隣りを歩く。


 反対側の廊下に半身を出すと、また同じような男が背を向けて立っていた。隣にいた努も視認し、互いに立ち止まって男を見据える。


 相変わらず、風貌も立ち振る舞いも一緒だ。ただじっと、こちらに背を向けたまま微動だにしない。ここで男の存在が非現実的であると認識し、私は畏怖の念に駆られた。


 努も同じ気持ちだったのだろう。私と努は踵を返すなり、足音を最小限立てないように必死でエレベーターへと駆け込んだ。


 何故かエレベーターの籠は下に降りており、私達は無言のまま、壊れてしまうのではないかという程下へ降りるボタンを連打した。


 鉄扉の上に設けられたパネルと先ほどの廊下を交互に目をやる。早く!早く来てくれっ!恐怖に押し潰され、叫びたくなる心をなんとか抑えながら、エレベーターの籠が早く来る事を必死に祈った。


 やがて籠が到着すると、扉が横にスライドし始める。私と努はわれ先にと誰もいない籠の中に滑り込み、すばやく『閉』のボタンを連打した。


 扉は開き切る前に閉まり始める。私は閉まる扉の向こうを恐怖に支配された目でずっと見据えていた。もし、あの男が来たら……。そんな恐ろしい想像をしながら。


 だが、先程の男は現れずに扉は閉まり、籠が動き出すモーター音が響き出して私は安堵した。安堵したのも束の間、籠は上階へと昇り始めた。


 私と努はハッと互いに顔を見合わせ、パネルに設けられたボタンを見る。六階のボタンが点灯され、私はさらに混乱した。私は押していない。


 私は知っている。籠の中のパネルで階数が光っているのは、室内から押された者だ。つまり、下階にいた人間がわざと六階のボタンを押し、わざわざ降りたのだ。何のために?何を目的に?


 もう思考が追い付かない。想像し得ない恐怖がエレベーターの中を支配し、私と努に伸し掛かる。私達はただ籠の隅っこで、籠が六階に着くのを震えながら待つだけだった。


 籠が停まり、六階への扉が開く。私と努は情けないほど震えながら開け放たれるドアの向こうを見つめた。


 ドアの向こうには誰もおらず、真っ白な吹付の壁しか見えなかった。即座に私は『閉』ボタンと一階のボタンを素早く連打し、籠がまた動き出すのをじっと身構えて待った。


 あの大男が四階でエレベーターのボタンを押していない事をひたすら祈った。

 幸運にも籠は無事に四階を通過し、そのまま順調に三、二階と進み、一階で止まった。


 扉が開くと私達は身構えながら、ゆっくり外を見回す。

 どこにもあの男の姿は見えない。逸る心臓を押さえつつ、私はエレベーターから顔を出し、廊下にも目を配らせた。


 男の姿がない事に安堵した私は、努とともに一目散で窓口へと駆け込んだ。

 そこで新聞をまだ読んでいた管理人に「異常はありませんでした。これで失礼しますっ!」と早口で告げて、足早に寮棟を出た。

 背後から怪訝な管理人の視線を感じるが、一秒でも早くこの場から立ち去りたかったのだ。




 明くる日、昨日の雨が嘘のように上がり、台風一過のおかげで冴えわたる晴天に恵まれた。

 だがおかしなニュースはあるもので、落地川の水位が、第二低床まで下がっていた。


 本来ならば昨日の豪雨で水位は増している筈だが、なぜ水位が下がったのか分からない。お陰で落地川には、その珍しい光景を人目見ようと、見物人がちらほらと集まっている。


 昨日の事は悪い夢を見たのだと言い聞かせた。もちろん、あれが夢などではなかったのは努も一緒に見ていたからわかる。

 それでも、懸命に忘れる事を心掛けた。昨日の夜、無言で事務所に戻った私と努はこの事を他言しない事を決めたのだ。


 その日、私は会社の先輩である大和さんと現場である落地川の河川敷で合流した。

 大和さんは私の二つ上の二十九歳で、私よりも小柄だが、がっちりとした体系で、過去に一人で軽自動車を傾けた事がある程の腕っ節を持っている。

 十代の頃には改造バイクを乗り回し、二十歳で結婚するとこの九年間で三人の子宝に恵まれている。長女は今年で九歳になり、次女はまだ二歳。そして三女は奥さんである渚さんのお腹にいる。


 幼い顔つきに顎に綺麗に整えた顔をしかめながら大和さんはいう。


「今日はせっかくの休みだったのに、現場が近いとはいえ仕事をするのは嫌だな」


 大和さんがその日、すぐ真上のブリッジホテルに家族を呼んでいるのを私は知っていた。仕事上の特権で、ホテルの優待券を社内に回して貰っているおかげだ。恐らく、今私達がこうしていやり取りを奥さんである渚さんや娘さん達も眺めているのだろう。

 私は大和さんに同情の言葉と同伴してくれた礼を述べ、川の堤防へと上がっていく。


 堤防の上から見ると、確かに落地川の水位は不自然としかいいようがない程下がっていた。堤防下に広がる第三低床には芝生と木が植えられており、その芝や木には流されてきた草や流木が転がったり、枝に引っ掛かっている。やはり、昨日の夜は第三低床まで水位は上がっていたのは間違いない。

 次に本来ならば川と呼ぶべき水流がある第二低床に目をやる。ぽっかりと吸い上げられたように


 私達は転ばないようにコケや水草に覆われたのり面に足を取られないように、身を屈めて第二低床まで降りていく。

 第二低床は長らく水面の底に沈んでいたせいか、のり面と同じように深緑色のコケに覆われていた。私と大和さんは安全靴を濡らしながら川の真ん中まで進み、低床に設置された銅で出来た点検のハッチを顎で示す。


「七東、中を見て確認して来い」


 大和さんの命令に、私は忠犬のように「はい」と活き込んでいう。彼の命令は絶対だ。そして、私も彼の意思に反する事は絶対しないと決めている。


 私はバールを使い、設けられたハッチを開けて中を覗く。

 薄暗いハッチの底には海苔がびっしりとついた小さな堰と、それを乗り越えていく透明な流水がダバダバと流れている。別段、これといった異常は見受けられない。


 私は一応確認を行う為に、ジメジメと湿った梯子に手を伸ばし、身体をハッチの中へと運ぶ。

 次に足を入れて身体を滑り込ませる。ちょうど私の身体がハッチの下に入った時だった。


 頭の上でボンッと何か重く硬い物が第二低床に落ちる音と「おいっ!あぶねぇだろうっ!」という大和さんの怒声が響いた。


 私はハッチから半身を外に出す。まず目がいったのは第三低床から堤防に向かって慌てて駆け上がっていく三人組の男の背中。続いてハッチの近くで彼らを睨み付ける大和さん。そして、大和さんの足元に転がるでかい魚の頭。


 理解に苦しんだ私はハッチから這い出て、足元に転がっている魚を見た。

 マグロだ。目算からして大きさは三十センチ程。エラから向こうの身体はなく、その切り口は大きな包丁で一振りで切られたかのように真っ直ぐだった。


 理解に苦しむ私が視線を上げると、転がっていたのはマグロだけではなかったと気付いた。大和さんの足元の向こうには市場で見た事ある大きな魚の死骸がいくつも転がっていた。メバル、カンパチ、キンメダイ。そのどれもが大きく、そして鋭利な刃物で切られた様にその半身を失っていた。


 私はすぐに上流に目をやる。そのどれもが上流から流れてきてるのだ。荒唐無稽な話だが、私は空港が近いのを思い出し、飛行機からコンテナか何かが落積したものだと推測した。だが、そんな大きい物ならば私も気付くだろうし、何より先ほどの音と大和さんの怒声からして、その推測はないだろうと、自己解決した。


 怪訝な顔を浮かべていると、不機嫌な顔の大和さんが私を一瞥するなり、「もういいから上がるぞ」と促した。

 私は二返事で頷き、何も尋ねないまま彼の背中に付いて行って、第三低床ののり面を慎重に登った。


 第三低床の芝生まで上がり、大和さんの横に並ぶ。大和さんは先ほどの三人組が消えていった堤防を睨みつけている。


 ふと横に目をやる。流れてきた長い草が植えられた木だろうか?並ぶように立った腰ほどの高さのそれにたくさん引っ掛かっている。私は何も考えずに絡まった長い草やツタを引っ張る。


 草やツタが離れると、下から何か黒いものが覗いていた。木ではないそれに私の好奇心が騒ぎ、絡まっていた草木を一生懸命引き剥がす。


 現れたのはイルカだ。言葉にするならば、それは地面の中から飛び跳ね、尾がまだ地中に残った状態で固められたかのようなイルカのオブジェクトだ。


 そのイルカがプラスチックや紙粘土、銅像で作られたものではないのが触れてわかってしまう。カサカサし、どこか光沢のある皮膚は、紛れもなく生きていたであろうイルカだ。


 同じような恰好のイルカは横一列に並ぶように立っているのだ。混乱する私はそれぞれのイルカに目を配らせる。どれも干からびながら、目は生きていた。


 彼らの存在はあまりにも不気味で、私を畏怖させ、混乱に陥れるのは容易かった。

 なぜ?どうして?そんな言葉が頭の中を支配する。


 隣にいる大和さんを見る。大和さんも同じようで、何も言わずに唇を小さく開けて目を見開いていた。だが、彼の視線がイルカのオブジェクトではなく、別のものに奪われているのに私は気付いた。


 彼の向ける視線を辿ると、先にあったのは下流の川底だった。私達がいた時よりもまた水位が下がり、今度はくるぶしほどの高さになっていた。


 幅15メートルの河川の川底と呼ぶべき第一低床に、真っ白な巨大な骨が横たわっている。無知な私でも目測で体長が六、七メートルあるとわかる。ザトウクジラか何かの骨だ。まるで骨格標本をそのまま川底に置き忘れたみたいだ。


 その他にも川底には哺乳類と思わしき骨が幾つも横たわっていた。シャチや先ほどのイルカ。トド。どれも本やテレビでしか見た事のないはずなのに、直感で分かってしまう。


 堤防に幾つも転がるマグロやマンボウのような魚の死骸、川底に沈むクジラたちの骨、堤防の上で地面の中から飛び跳ねたままの恰好でミイラ化したイルカたち。私の頭を混乱させるのには十分な景色だった。


「七東っ!」


 隣の大和さんの怒声で我に返った。大和さんに視線を移すと、上流の方を指差している。

 視線を向けると、まず堤防の上にいた人々が驚愕の顔と悲鳴を上げ、慌てて川から離れていくのが見える。その先の上流から、白い波を立てながら迫る濁流が見えた。


 大和さんが堤防に突き刺さるよう作られた橋の支柱に駆け出す。橋の支柱には上のブリッジホテルへと繋がる点検梯子がある。私はそれに向かっているのだと理解し、必死に彼の背中を追う。


 大和さんが丸みを帯びたパイプ梯子に飛びつき、目まぐるしい速さで登っていく。私も恐怖に支配された手足をじたばたと動かし、梯子に飛びついて上へと上がる。


 濁流とはかなり距離があるとはいえ油断できない。最初は水位が低く、穏やかそうに見えるが水の力は半端ではないのだ。私はホテルへ繋がるハッチを開けた大和さんを見上げ、もたつく手足を動かして彼に届こうと必死だった。


 後もう少し、という所で大和さんの太くてごつい指が私の腕に絡まり、私の身体を引っ張り上げた。私は思わずカーペットの柔らかい毛糸の海に尻もちをつくと「大丈夫かっ!?」と問いかけた。私は息を切らしながら何度も頷く。


 すぐに視界を大和さんから周囲に向ける。ここはブリッジホテルの廊下のようで、噂通りに作りは寝台車のような構造で、狭い長方形の建物の中にラウンジや客室などが存在している。

 大和さんの後ろには上から一部始終を見ていたであろう、奥さんの渚さんに長女の沙理ちゃん、まだ二歳の真子ちゃんがこちらを心配そうに見つめていた。


「おい、ここもあぶねえぞっ!すぐに上に行くぞっ!」


 大和さんが叫ぶなり、廊下を進む。私も腰を上げ、大和さんとその家族の後を追い掛ける。

 奥に進んでいると、客室のドアが開き、まだ大学生ぐらいであろう青年が俺の肩を掴む。


「何があったんですかっ!?」


 私は焦燥する彼のつま先から頭の天辺まで目をやる。カジュアルワイシャツにニットベストを羽織った出で立ちから、彼が裕福な家庭の生まれだと推測した。だが、今はそんな事はどうでも良い。


「水が迫っているっ!ここから出るぞっ!」


 彼の耳元で目一杯がなる。ふと、彼が飛び出してきた客室に目がいく。

 そこには沙理ちゃんほどの女の子がベッドの上で目を見開いて私を見つめていた。


「救助隊が来るのを待ちますっ!」


「馬鹿、そんな事言ってる場合じゃないっ!すぐに逃げるぞっ!」


 弱きな彼の発言を打ち消すように私は怒鳴る。冗談ではない。こんな橋の上の、しかも逃げ場がない所に居たら、皆死ぬに決まっている。私は彼の肩を叩き、女の子を連れていくように促した後に、大和さんの背中を追った。


 廊下の突き当りまで進むと、ちょうど大和さんが廊下の窓を開け、半身を乗り出して渚さんを下から押し上げている場面だった。必死の形相で赤ん坊を身ごもった女性を、腕力だけで持ち上げている大和さんを尊敬した。


 関心している場合じゃない。私はすぐに我に返り、大和さんの横にいた沙理ちゃんの肩を叩き、声を掛ける。


「他に窓はないのっ!?」


「あるよっ!こっちっ!」


 私の声に弾かれるように沙理ちゃんは飛び出し、大和さんとは反対側にある洗面所に駆け込んだ。


「ここの窓も開くよっ!」


「わかったっ!」


 私が沙理ちゃんを持ち上げようとした時、沙理ちゃんは窓を開けるなり、器用に身体を窓の外に出し、あっという間に上へとするする昇って行ってしまった。

 拍子抜けしてしまった私は、やはり大和さんの娘なんだなあ、と感心してしまう。臆する事もなく、体力もある所は親譲りのようだ。


 気を取り直した私は、追い付いた青年と少女を窓にやり、一人ずつ下から押し上げてやった。途中、沙理衣ちゃんと渚さんが上で引き上げてくれたおかげで、青年も少女も楽に上げる事が出来た。


 背後を振り返ると真子ちゃんを上げた大和さんが、自身も上に上がろうと窓から身体を出している。

 私も自分の番だと思い、窓枠に足を掛け、身体を外に出す。


 思わず視界を下に向けると、落地川の水位は第三低床を軽く越え、今にも堤防を越えようとしている。緑と茶色が混ざったその急流が視界いっぱいに広がる。私は背筋を寒くし、足元辺り背筋にかけて急に寒さを覚える。


「七東、早くしろっ!」


 頭上から降り注ぐ怒鳴り声にハッとし、私は頭の上で伸ばされていた大和さんの手を掴んだ。梯子の時と同様に、私の身体は一気に上に持ち上がった。

 落地川の橋の上で私と大和さんは息を切らし、冷たいアスファルトにへたり込んだ。


 しばらく先ほどの恐怖と疲れから肩で息をしていたが、呼吸と心臓の鼓動を落ち着かせ、私はゆっくりと立ち上がった。そこでやっと真下に広がる風景に目をやる事は出来た。


 黒く淀んだ濁流が堤防を越え、空港や周囲の田畑や住居を飲み込んでいく。河川敷で逃げ惑っていた人はどうなってしまったのだろうか?わからない。


 これは、現実の光景なのだろうか?


 しばらく阿鼻叫喚が広がる下の光景を見つめて背筋を寒くさせていた私はやっと理解した。


 ああ、これはそうだ。私の大好きな映画ではないのだ。


 そして、全て始まりに過ぎないのだ。エンディングロールは流れることがないのだ。


 その時、私の耳に雷鳴のような轟きが届いた。


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