消失
彼はひたすら走っていた、見慣れた街並みを一直線に。道中、毎日必ず畑仕事をしていて美味しい野菜をくれる老夫婦、いつも大事そうにしていた畑道具が畑にそのまま置きっぱなしになっていた。カフェを経営するのが夢だったんだと楽しそうに話していた渋い顔した男、つい最近彼の力でレトロな雰囲気ながらも味のある喫茶店を作り出しオープンしたばかりだった。しかし、店内は静まり返っていて人の気配は全くなかった。
何が起きている、みんなどこに行ったというのだ。彼も薄々感じてはいたが、まさかここに来た死者達が消えていっているというのだろうか。既に人生を終えて、死の先にある安寧がここではなかったのか。あの少女も私を置いて消えてしまっているのではないだろうか、そう思うと気が気でなかった。そうこうしているうちに彼と少女が住まう家が見えてきた、彼はドアが壊れるんじゃないかというくらい勢いよくドアを開け放った。
結論から言うと、少女は変わらずそこにいた。彼のただならぬ様子に驚いている以外はいつも通りだった。彼は安堵し静かに少女を抱きしめた、少女は安らかな笑顔で彼を受け入れた。
少女は優しく微笑みながら、彼にこう告げた。
私が求めていたものはここにありました、ここには全ての物があります、ですが「愛」だけはありませんでした。しかし、それは貴方が私にくれました。貴方は私に足りないものを与えてくれました、もう何も欲しいものはありません。私はただ貴方に見て欲しかった、ただそれだけだったのです。その上こうして愛してもらえたならこれ以上に望むものなどありません、私は満足です。
彼は少女が何を言っているのか、なぜそのような今生の別れのようなことを言うのかと彼は一瞬理解できませんでした。しかし、直ぐに理解しました。
「少女が消える」と
その証拠に少女の身体は淡く光り輝き、その輝きに反してその体は薄くなっていっていた。彼は必死に止めました、しかし、少女はゆっくりと首を振り微笑みました。
終わりではないです、これが始まりなんです。だから、泣いてはいけません。また、必ず巡り会う日が来ます、その時はこの牢獄などではなくもっと素晴らしい世界で逢いましょう。
そう言うと、少女は静かに消えていった。彼はこの世界に来て初めて号泣した、忘れていた悲しみという感情で押しつぶされそうだった。何故、少女は消えたのか。答えは明白だった、満たされたのだ。つい忘れそうになるがここは死後の世界なのだ、昔に聞いた事がある、霊界というのは安らかな生活を送り、満足したらまた転生していくものなのだと。だから、少女は満たされた事で新しい世界へと旅立ったのだ。しかし、悲しみというのは理屈では解っていてもどうしようもないもの。彼は家から飛び出し、誰もいない森の中まで走っていった。そこで永い永い間泣き続けた、彼が流した涙は枯れることのない大きな川へと姿を変えた。彼は全てを忘れてしまいたいと願った、そして涙でできたその川は彼の願いを叶えるかのようにその川の水を飲んだ者や触れた者の記憶を無くす力を持っていた。いつしか楽園の住人達はその川をレテ川と呼び、忘れたい記憶を持つ者が川の水を飲みに訪れるようになった。