氷の貴公子から婚約をやめたいと言われた
別の短編と関連はありますが、単体で読んでも問題ありません。
「ベル…もうこのまま君と婚約を続けていく事など出来ない」
とある公爵様が主催の夜会の席で突然そう言い出したのは、2年前から婚約しているゲイル。
ゲイルはいつものように気難しそうな顔をしたまま、私を見下ろしている。
いつもと違うのは、横に可愛らしい栗色の髪の令嬢を連れている事。
彼女は口の端をわずかにつり上げてこちらを見ている。笑いを隠そうとして失敗しているという感じ。
「どういう事です?もしかしてそちらのご令嬢と関係があるのでしょうか?」
混乱を隠し、冷静を装ってそう返す。予想以上に冷たい声になった。
栗色の彼女にちらりと目を向けると、びくりと肩を揺らしてゲイルの後ろに隠れてしまった。
まわりでこっちをちらちら見ていた貴族の方々もあわてて目をそらしている。
別に睨んだわけじゃないんだけど。悪かったわね。目つき悪くて。
私、アナベル・ジルバートと、ゲイル・ワーグナーは親が決めた婚約者同士だ。
伯爵家であるジルバート家にとって、ワーグナー侯爵家は歴史も財力も政治力もありとあらゆる面で格上の相手で、父はおそらく結構頑張ってこの縁談をもぎ取ってきたのだろうと思う。
嫡男であるゲイルは将来は大臣と言われているエリート文官の上、美男という高スペック。
一方の私は、一応美人とは言われるけれど、つりあがった目のせいか恐がられることが多いし、王太子殿下の護衛騎士をしている脳筋兄のように武勇に優れているわけでも、王立学園で常に首席の妹のように特別賢いわけでもなく、普通。
ただの中身普通の悪役顔の令嬢というだけ。
つり合いがとれていないと影で言われているのは知ってた。
それからこの栗色の彼女のようにゲイルを狙っている令嬢がいるのも知ってた。
それでも、ゲイルは婚約者らしく夜会のエスコートをしてくれたり、プレゼントを定期的に贈ってくれたりしていてそれなりに仲は悪くないと思っていたし、このまま良きタイミングに結婚するのだと思っていた。
今日だって、いつも通り屋敷まで迎えに来てくれて、パーティー会場についてからは普通に一曲踊って。
本当にいつも通りだったのに、ちょっと知り合いに挨拶するためにゲイルの元を離れたほんの数分の間に栗色の彼女がゲイルの横を陣取って楽しそうにおしゃべりを始めていた。
そして、戻ってきた私の姿を見た瞬間、ゲイルが言ったのだ。「婚約を続けられない」と。
「俺は、ニコに出会い、わかったんだ」
ゲイルは、自分の後ろに隠れる可愛らしい栗色の彼女を振り返る。
栗色の彼女はニコさんと言うらしい。名前まで可愛いなんて。
「何が、わかったのです?」
「自分の気持ちだ」
ゲイルが熱のこもった瞳で言った。
いつも、気難しそうな、機嫌の悪そうな、冷たい瞳のゲイルが、そんな目をするなんて。
ああ。そうか。
ゲイルは、ニコさんに恋をしているのか。
「俺は今まで、感情を他人に見せないようにしてきたし、元々無愛想だとも自覚している。しかし、それではダメなのだと、気付かせてくれた。ニコは人を愛し、愛される事の素晴らしさを俺に教えてくれた」
「愛」
恋をしてるどころか、愛してるようだ。
ゲイルは一部のご令嬢の間で「氷の貴公子」と呼ばれ、冷たいところが素敵、と人気が高い。
私と一緒にいるときも、いつも鉄仮面のように表情が変わらないし、ほとんど笑わないし、なんなら目も合わない。
それがどうだ。
愛の力で、あの鉄仮面がほんのり赤面して、熱っぽく瞳を潤ませて、じっとこっちを見ている。
…初めて見るゲイルのこんな顔。
真面目で堅物で気難しくて、でもさりげなく気遣いのあるエスコートをしてくれて、ほんのたまーに小さな微笑みを見せてくれて。
私はそんなゲイルの事が好きだったけれど。
「…初めて見たとき、俺はこの世にこんなに美しい令嬢がいるのだと驚愕した」
ゲイルはなんだか落ち着かない様子で視線を足元に落としながら語り始めた。
ニコさんとの出会いの話だろうか。
「ラングリットと話しているところをたまたま遠くから見かけて、その後すぐに奴に紹介を頼んだんだ」
ラングリットというのは私の脳筋兄の事である。
ゲイルと脳筋兄は学生時代から何故か仲が良く、卒業して数年経ったいまでも交流があるらしい。
学年主席と万年赤点脳筋が何故親友になったのか謎過ぎる。
…しかしまさかニコさんをゲイルに紹介したのが脳筋だったとは。
妹の婚約をぶちこわすなんて、あの脳筋は何を考えているのだろう。
腹立たしい。だから婚約者すらいないのだ。脳筋で女心の分からない岩ゴリラだから。
「俺は幸せだった。隣に世界一可愛い顔で笑ってくれる人がいるというだけで満足だった」
「そう…ですか」
「俺は無愛想で女性の扱いにも慣れていなかったからうまくエスコートできているか、楽しませられているのか、いつも不安で情けなく思っていたが、その笑顔を向けられるたびに安心し、優しさに甘えていた」
「…素敵ですね」
氷の貴公子様をこんなに翻弄できるなんて、ニコさんはさぞ素晴らしいご令嬢なのだろう。
好きな男性の口から、他のご令嬢への想いを聞かされるなんて、なんとひどい事か。
泣きそうになりながらも、ぎゅっと唇をかんで耐える。
「すまない」
ゲイルが目を伏せて、謝罪の言葉を口にする。
2年間、婚約者として過ごしてきて育んできた関係が、こんなあっさりとした言葉で終わるなんて。
親同士が勝手に決めた縁談だったから、ゲイルが私になんの感情も持ってなかったのはわかってる。
義務感だけでエスコートや定期的なプレゼントをこなしてくれていただけ。
「謝らないで下さい。もう、わかりましたから」
「ベル…」
「この件について、この婚約を決めた父やワーグナー侯爵様にはゲイル様からお伝えいただけるのかしら?」
私がそう言うと、ゲイルはこれまた初めて見せる嬉しそうな笑顔で「ああ」と頷いた。
ちくり、と胸が痛んだ。
なによ。私との婚約を破棄出来るのがそんなに嬉しいのね。
そんな幸せそうな笑顔が出来るなんて知らなかった。
いいわ。
何の落ち度も無い私に対して、自分の浮気が原因で婚約破棄するのだからゲイルの信用はガタ落ちよ。
約束されていた大臣のポストも、同僚からの信頼も、脳筋との友情も無くし、貴族社会で肩身の狭い思いをしながら愛に生きればいいわ。
そして愛する人と末永く幸せに暮らせばいいのよ。
私が心の中でそんな事をぶちぶち考えていたら、先ほどからなんとなくそわそわしていたニコさんがゲイルの袖をぐいぐいと引っ張りながら
「ゲイル様、肝心な事をまだ言ってないです」
と小声で囁いた。
「ああ、そうか。そうだった」
何なの。まだ何か言いたい事があるの?
これ以上の情報はもう私のキャパを超えているのだけれど。
そんな私に構わず、ゲイルは緩みきった顔の筋肉をそのままに追撃を加えてきた。
「実は、俺達の結婚についてはもうジルバート家とワーグナー家で了承済みなんだ」
「は…?」
結婚が、了承済み…?
ゲイルと、ニコさんの…?
え?私に婚約破棄を伝える前にもうそこまで話が進んでいるの…?
「ベルのご両親も、うちの両親も祝福してくれている」
「え…祝福…?お父様とお母様も…?」
「ああ。もちろんラングリットやエレノアもだ」
「のうき…兄と妹も知っているのですか…?」
「すまない。いざとなると緊張してしまったんだ。君に伝える前に外堀を埋めておけば自信を持って言えると思って…卑怯なまねをしている自覚はあったんだが…ベル?」
ゲイルが目を見開いて私の顔を見る。
ずっと我慢していた涙が、とうとう堪えられずに溢れ出してしまった。
私に内緒で、みんなで裏でコソコソ事を進めていたなんて。
どうして?
私、そんなに皆に嫌われていたの?
優しい父も、ちょっと厳しいけど愛情深い母も、脳筋だけど裏表が無い兄も、クールに見えて実は甘えん坊で可愛い妹も、みんな、本当は私の事が嫌いだったの?
「ベル…?何故泣くんだ?やはりこのやり方はまずかったか?」
ゲイルが急におろおろと焦りだした。
まずかったか?ですって?
「…くに…じゃない」
「え?」
「泣くに決まってるじゃない!」
静かに涙を流すだけだった私が急に声を張り上げたもんだから、ゲイルやニコさん、まわりの貴族の方々までみんながびくっとする。
「なんなのよ!私に内緒でみんなでコソコソと!!」
「ベ、ベル…悪かった…」
「しかも!こんな公衆の面前で婚約破棄の話をするなんて!私に恥をかかせて楽しいの!?」
「婚約破棄?ベル、何を言って」
「さらに!私に婚約破棄の話をする前にニコさんとの結婚の話を進めていたなんて!私になんの恨みがあるって言うのよ!」
「ま、待ってくれ、ベル!話を」
「そりゃあ、私は悪役顔だし、脳筋じゃないし、才媛じゃないし、可愛くもなんともないつまんない女ですけど!それでも…」
「ベル!!」
興奮して、言いたい事にまとまりがなくなりながらも言葉をぶつけ続けていた私を突然、ゲイルが抱きしめた。
強い力でゲイルの胸に顔が押し付けられて、強制的に口が塞がれた。
なによ!いままでエスコートのときかダンスの時にしか触れてこなかったくせに、黙らせる目的だからって初めて抱きしめてくるなんて!
怒りがおさまらない私がゲイルの腕の中でもがもがと暴れると、ゲイルがさらにぎゅっと締め付けてきながら、言った。
「ベル!愛している!」
言った、というか叫んだ、という方が正しいくらいの大声で。
さらに、会場に響いていた音楽がちょうど途切れたタイミングと重なった事もあり、あたりはシンと静まり返った。
聞こえるのは、押し付けられたゲイルの胸を振動させている鼓動の音だけだった。
「婚約破棄なんて冗談じゃない!君と結婚できないくらいなら俺は龍の谷に飛び込んで死ぬ!」
…何?
何を言っているの?
だってさっき、婚約破棄するって、ゲイルが言ったんじゃない。
「ゲイル様、ゲイル様」
ニコさんが苦笑いをしながらゲイルの腕を揺すっているらしいのが、腕のわずかな隙間から見えた。
「ゲイル様が龍に食い殺される前にアナベル様が窒息死しちゃいますよ」
「っ!すまない!!」
ゲイルが飛び退くように私から離れる。すごく離れた。5mくらい。
遠くてもわかるくらい、ゲイルの顔が、驚くほど赤い。
「夫婦になるまでなるべく触れないように我慢してきたのに…」
ゲイルが顔を覆った。なにこの、恥ずかしがる乙女みたいな感じ。
氷の貴公子どこいった。
私が呆然とゲイルを見ていると、ニコさんが横でため息を吐いて呟いた。
「初恋こじらせすぎるとシャレにならんわマジで」
「え?」
「私、ゲイル様から恋愛相談受けてたんですよ」
「恋愛相談?」
「婚約者が可愛すぎて直視できないしどう接していいかわからん、とか」
「え…?」
「自分の方から無理矢理結んだ婚約だから嫌われてるんじゃないだろうかとか、うじうじうじうじ」
「え?無理矢理結んだ?」
ゲイルを見ると、もじもじと指をいじりながら話し始めた。
「さっき、言ったろう。学園でラングリットと話しているベルに一目惚れして、奴に紹介を頼んだと」
「…え」
ニコさんの事じゃ、ない?
「他の男にとられる前にどうしても婚約したかったから、父に頼んでジルバート家に婚約を申し込んで…。君の卒業と同時に婚約が結ばれた時は天にも昇る気持ちだった」
「そう…だったの…ですか…?」
「ベルと一緒にいるときはいつも幸せだった。ベルの可愛い笑顔をいつも見ていられるから。でも俺はあるとき思ったんだ。俺ばかりが幸せなんじゃないか、と」
「…で、どうしたらアナベル様を喜ばせる事ができるのだろうか、って重い感じで相談されたんですよ」
ニコさんがやれやれ、と肩をすくめながら言う。
「だから私は言ったんです。一見冷たく見えるクールイケメンは、あえて愛を囁いてギャップ萌えを狙えって」
「ぎゃっぷ、もえ?」
「そうです。遊び人が不意に見せる真面目さとか、脳筋が抱える苦悩とか、悪役令嬢が見せる可愛い笑顔とか、そういう意外な一面というのが萌えなのです。それを見るのが乙女ゲームの醍醐味なのです」
急に語りだしたニコさんの言ってる事は、ところどころわからなかったけれど、言いたい事はなんとなくわかった。
「それを参考に俺は、これからはベルに愛を囁こうと思った。いつも笑顔でいてくれる君に甘えて満足しているだけじゃダメだとニコにもラングリットにも言われたから。俺もギャップと言うものを見せてベルに俺の事を好きになってもらいたいし…」
今まですまなかった。とまたもじもじしながらゲイルが言った。
すまなかった、ってもしやさっき謝ってたのは婚約解消してごめんという意味じゃなくて、今まで無愛想でごめんって意味だったの…?
というかゲイルがさっきから氷の貴公子の氷が溶けて、もじもじ貴公子になっちゃってるのだけど…
こっちの方がずっとギャップというものではないかしら?
「それで…その…」
ゲイルはまだちょっともじもじしながらも、5mの距離から2mくらいまで近づいてきた。
「さっきの婚約を続けられないという話についてなんだが…」
ゲイルがその場にひざまずいて片手を私の方にさし出す。
「婚約者ではなく、俺の妻になってもらえないだろうか!」
下を向いて少し震えながら、真っ直ぐに伸ばしているその右手に引き寄せられるように自分の左手を重ねる。
それと同時に勢い良く顔を上げたゲイルは、私の顔を見るとほっとしたように小さく微笑んだ。
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あとから分かった事なのだが、ニコさんはつい最近脳筋兄の婚約者になった子なのだそうだ。
だから、脳筋が親友であるゲイルに婚約者としてニコさんを紹介したときに、恋バナ大好きなニコさんから私との事を色々聞かれて相談する流れになったそう。
何故、妹である私よりも早くゲイルに婚約者を紹介しているのか問い詰めたが、タイミングが悪くて…ごめんね☆とかなんとか言い訳をしていた。脳筋岩ゴリラのウィンクはイラッとする。
脳筋がどうやってこんな可愛い子を射止めたのか謎すぎる。
あと、ゲイルが何故突然「婚約を続けられない」と言い出したのか、その理由をニコさんが教えてくれた。
あの日、ゲイルとダンスを踊った後、学生時代に親しくしていたご令嬢を見つけた私は、少しゲイルから離れて彼女とおしゃべりをした。
一見怒っているように見えるゲイルが傍にいると、気になって気兼ねなくおしゃべりができないご令嬢もいるため、こういう時ゲイルはいつもさりげなく距離を取って待っててくれていたし、特に気にしていなかった。
のだが、ゲイルは実はちょっと淋しかったのだそう。
しかもあの日はおしゃべり相手のご令嬢の婚約者もその場にいて、彼とも話したのが良くなかった。
ゲイルは他の男と楽しそうに話す私にやきもちを焼き、拗ねた結果、あんな事を言ってしまったのではないかと、近くで様子を見ていたニコさんは推察していた。
真面目で堅物で鉄仮面のゲイルも好きだったけれど、もじもじして情けないゲイルを知って、もっとなにかこう…こみ上げる感じの愛しさを感じるようになった。
これが、ニコさんの言う「ギャップ萌え」なのだろうか。
ところで、最近ゲイルは「氷の貴公子」と呼ばれなくなったらしい。
あんなに大勢の前で恥ずかしすぎるプロポーズをやらかしてしまったのだ。
そりゃあ、氷はもうすっかり溶けて水すらも蒸発しただろう。
新たに何て呼ばれてるか知ってます?とニコさんがニヤニヤしながら教えてくれた。
「春風の貴公子wwwまじやばいwww」
以前書いた『義妹をいじめた罪とやらで~』という短編で出てきたジルバート家の長女のお話。
脳筋兄は今回も活躍。
誤字のご指摘ありがとうございました。直しました。鉄火面ってなんだよ…鉄仮面だよ…