揺れる刻(とき)
僕の初めての友達とは、近所の公園で出会った。
真新しいマンションが建ち並ぶ住宅街のすみに作られた、申し訳程度のささやかな遊び場である。
何年か前から急速に増えてきた住民のためにと設置されたその公園は、滑り台やジャングルジムなどのお決まりの遊具が、静かに子ども達の訪れを待っている。
寄り添うように植えられた二本の木の影には、のんびりと足を休められるようにベンチが置かれ、すぐ裏は山へと続くなだらかな傾斜に雑草が生えて緑に染まる。
家を二軒、詰めて建てたら終わってしまいそうな、ちっぽけな、どこにでもあるような公園だった。
「おーい、チナツー!」
呼び慣れた名を口にしながら、ぼくは手を振って走り寄った。
向かうのはいつも決まってブランコの前だ。支える柱が朱色に塗られたそのブランコは二人用のものだったが、滅多に順番を待ったことはない。
初めての友達――チナツと会うのは常に時刻が夕暮れを回って、公園で遊ぶ子達が家に帰ってしまう頃合いだったからだ。
「あっ」
夕暮れの中、すでにブランコに座ってゆらゆらと足先を弄んでいる少女が、声に気づいて顔を上げた。
白いワンピースに麦わら帽子、太陽光を反射する赤みがかった靴。幼いながらもくっきりとした目鼻立ちは、あと数年で美人と評されること間違いなしである。
「イノちゃん、今日も来てくれた!」
チナツは呼んだ相手をぼくだと認めると、満面の笑みで迎えてくれた。
しょっちゅうこうして外で遊んでいるにも関わらず、ずっと白い肌のままで、今日も屈託のない笑顔を咲かせている。
ぼくはその表情を見る度に、まるで花が必死の思いで花弁を開いているような錯覚に陥るのだった。
「あのさ、その『イノちゃん』っての、そろそろやめてよ」
「え~、どうして?」
子どもっぽいあだ名に人生で何度目かの文句をつけると、チナツは首を傾げた。
ぼくは名前を「祈里」という。
お父さんとお母さんが真剣に悩んで付けてくれたのは理解しているけれど、イノリという響きが女の子みたいだと周りから幾度となくからかわれてきた。正直、あまり素直に歓迎できない名だ。
それなのにぼくがムクれると、彼女は笑って同じ答えを繰り返すのだ。
「『イノリ』より『イノちゃん』の方が男の子っぽいよ」
一理あるようなないような、気を遣ってくれているような違うような、曖昧な答えだ。それでもチナツは自分の言葉に心から満足した様子で、次の瞬間にはやりとりを綺麗さっぱり忘れてしまうのだった。
「チナツ、ちっとも日焼けしないよな」
ギィ、ギィ、と音を鳴らしながら腕に力を込め、足を曲げたり伸ばしたり。
エネルギーを加えられたブランコは前後へ振り子のように揺れ動き、やがて独自の意志を持ち始める。景色が上下し、振り幅がじょじょに大きくなっていく。
「え、なーにー?」
隣で同じように漕ぎ始めたチナツが問い返す。頬を抜ける風が勢いを増し、日が暮れていく時独特の香りが鼻をくすぐる。「物悲しさ」に匂いがあるとすれば、きっとこんな匂いがするのだろう。
「なんでもない!」
ブランコを脇目もふらず漕いでいると、風で音が遮断される。いや、もしかしたら無意識に耳と脳が遮っているのかもしれない。何人もこの空間を侵してくれるなと。
ちらり、と前に向けていた視線を横に送れば、チナツも一生懸命、決して進むことのない乗り物を漕いでいた。
オレンジから紅、そして藍へと刻々と変わっていく空の色を受けて、少女の細面も闇色へと変じつつある。
ぐんぐん上がる高度を目と頬で感じるたび、ぼくは自分とチナツの成長を思う。出会った頃はお互い今よりももっと幼く、チナツはブランコの漕ぎ方さえ知らなかったのだ。
◇◇◇
どれくらい前のことだっただろう? 確か、あの時もこんな夕刻だった。
「ねぇ、押して?」
またしても名前をからかわれて嫌な気持ちを抱えたぼくが、人目を避けるために寄った公園にチナツはいた。
ブランコに乗るとなんとか足先が地面につくくらいの女の子が、たった一人きり。ぼくは生まれた時からここに住んでいるけれど、見かけない顔だった。
不思議に思って近付くと、その子は舌足らずな調子で「ねぇ、押してよ」と再び頼んできた。
ガラス玉みたいに透き通った瞳がやや釣り目なのは、きっと自分一人では楽しめなくて膨れていたからだろう。
「しっかり掴んでるんだよ」
後ろからそっと背中を押してやる。空振りを繰り返していた爪先が地面を放れ、空気を蹴り出す。
「ねぇ、おうちの人は?」
「……」
聞こえていないのか、少女は一心に前を見詰めたまま答えない。
「お父さんかお母さんは? 家は近いの?」
今度は少し強く訊ねてみたが、やはり返事はない。耳に届くのは遊具の立てる軋みと空を切る音ばかりで、あとは静かなものだった。
ぼくは段々と押しやる力を強くしながら、理由を考える。見覚えがなく、周りに保護者がいる様子もなく、聞いても何も答えようとしない少女……。
「もしかして迷子?」
「ちがう」
今度は突然の即答に気圧された。驚いて手を離し、後ずさると、女の子がくるりと振り返った。夕陽の赤や夜闇の紫が混ざった色を吸った大きな瞳に、思わず月を連想した。
「ちなつ」
「えっ」
「あたし、ちなつっていうの」
無言で「あなたは?」と問いかけられている気がして、ぼくは渋々「いのり」と名乗った。他人に、特に子どもに名前を告げる瞬間は、決まって胸が締め付けられるような緊張感を味わう。
『よう、イノリちゃん! スカートはいたらどうだ?』
『そうだそうだ。絶対似合うって、イノリちゃん!』
がははは、げらげら。馬鹿にする下卑た笑い声。耳にこびり付いたそれを思い出し、もし、この子もあの子達と同じだったらどうしようと身を固くする。
ところが、チナツはにこりと笑って言ったのだ。
「じゃあ、イノちゃん!」
「……いの、ちゃん?」
どこにも厭らしい気配のない、清々しい笑顔だった。
◇◇◇
それから、ぼくは度々夕方の公園に遊びにいくようになった。意地悪なやつらが夕食を食べるために家に帰る頃、そっと周囲の気配を窺って玄関を滑り出る。
うちは両親が共働きで、二人が家に帰ってくるのは日が完全に暮れてからだった。それまでは隣の家のおばさんが面倒を見てくれて、晩ご飯も食べさせてくれる。
何より有り難かったのは、薄暗くなってから出掛けても叱られないことだった。行くのは公園だけ、きちんと食事の時間には帰ってくることを条件に見逃してくれていたのだ。
「イノちゃん、はやくはやく!」
かなりの確率で、チナツは公園に来た。
透けるように白い肌をしているからって、病弱なわけではないらしい。もしそうなら、短い時間といえども連日外で遊べるはずがない。
それでも、家の場所や家族のことについては決して語ることがなかった。最初は色々と想像を巡らせて探りを入れてみたぼくも、やがては諦めてしまった。
一緒にブランコを漕いで、他の遊具をぐるぐると回る。あとはベンチでお喋りをするだけで退屈な毎日が一変するほど楽しかった。
せっかく出来た「友達」を失いたくはなかった。
◇◇◇
あれから数年が経ち、ぼくもチナツも成長した。
子どもの世界は急速に広がり、幼かった時分とは比べものにならないほど目まぐるしい日々を過ごしていたが、どんなに会う回数が減っても、ぼくたちの関係は自然消滅をしなかった。
背が伸びても「イノちゃん」呼びをやめないチナツに溜め息をついて、ぼくがブランコに加速をつけようと立ち上がりかけた時だった。
ざざっと地面を抉るようにして、チナツが突然ブランコを止めた。靴の踵が柔らかい土にめり込み、せっかくの光沢が台無しになる。
「チナツ?」
辺りはすでに薄闇に包まれている。不審に思ってぼくもブランコを止めると、俯いてしまった彼女の前に立った。
立ち昇るように感じられるのは、いつも明るくエネルギッシュなチナツが初めて見せる鬱屈。しかしそれもすぐに嗚咽へと変わった。
目から雫が零れてはワンピースに染み込んでいく。押し殺した激情を引き絞るような泣き方だった。
「チナツ、おい、どうしたんだよ」
肩に触れて問い正そうとしたけれど、声をかけるだけで精いっぱいで、ただおろおろと立ち尽くすしかなかった。
女の子が泣いている場面に遭遇して愕然としたのとは違う。ぼくは唐突に思い知ってしまったのだ。嫌われたくない一心から、チナツのことを何一つ知らないままここまで来てしまったという事実を。
時折漏れる、楽器の弦を弾くような引きつりに耳を打たれながら、時間の流れに襲われているうち、冷静さを取り戻したチナツがやっと顔をあげた。
周囲を月明かりが照らすばかりの中、瞳が赤く光っているように見えて足が竦んだが、それは泣き腫らしたせいに過ぎなかった。頬に刻まれた涙の筋を乱暴に拭って、枯れたのどで呟いた。
「……ごめん」
何に対する謝罪なのか、ぼくには判らなかった。
夜行性の虫や鳥の鳴き声がわっと迫ってくる。普段なら別れを告げている時間だ。隣の家のおばさんとの約束の時刻もとうに過ぎてしまっているし、きっと今頃心配しているだろう。
その焦りが伝わったのか、雲がふいに影を落とし、赤く瑞々しいチナツの唇に何事かを促した。
「……もう、あえ――」
「こんなところに居たのか!!」
少女の覚悟を遮った声は、稲光のようだった。ぼくまでが咄嗟のことに反応できず、呼吸が浅くなる。何だ? 何が起きた?
混乱しているうちに大声を上げた主らしき中年の男性が大股でやってきて、ぼく達を見下ろした。雲よりも一層厚い影が二人を覆った。
なんて大きいのだろう。ぼくのお父さんも背が高いけれど、この人はまるで壁か熊みたいだ。
おじさんはぼくに鋭い一瞥をくれた後、チナツの細腕を強く引っ張った。無論、小さなチナツが敵うわけもなく、紙切れみたいに揺さぶられる。
「あっ」
小さく悲鳴が発せられ、おぞましさが背筋を這い上がった。恐怖というには生易しすぎる、聖域を侵された嫌悪感とでも表現すべき衝撃だ。
このおじさんはチナツの父親なのだろうか。暗がりで見上げる姿はお世辞にも似ているとは言い難い。チナツの顔を窺うと、苦痛に歪んでいる。
「や……やめろっ」
衝撃が去ると、次に沸いてきたのはふつふつと煮える怒りだった。何の権利があって、この人はチナツの心を傷つけ、優しい安堵がたゆたう空間を切り裂こうとするのか。
「なんだ?」
値踏みするような、小馬鹿にした問い。最も嫌いな感情を臆面もなくぶつけてくる男に気持ち悪さが止まらない。
別に正義感とか、勇気が口をついて出たわけじゃない。胸を支配しているのはただただ、吐き気と悔しさだった。
「ち、チナツを放せっ!」
舌打ちが聞こえた。ぼくはチナツを取り戻そうと無我夢中で手を伸ばし――首に何かが触れ、意識が途切れた。視界が狭まって目蓋におもりが乗せられる。
ぷつりと音がした向こうで、誰かが何事か叫んでいた気がした。そして、それが恐らく最後に聞いたチナツの声だった。
◇◇◇
あれから、子どもにとっては永遠とも思える年月が過ぎた。
僕は大学生になり、年齢相応に伸びた体を押し込むようにして色褪せたブランコに座っている。ぎしぎし鳴る軋みも、昔より甲高くなった印象だ。
昔も今も、夕暮れ時の公園に人気はない。くすんで蔓が覆うマンションのあちらこちらから、晩飯の支度をする音や食事を楽しむ家族のやりとりが漏れ聞こえてくる。
これだけの家庭がひしめき合って暮らしていれば必ずカレーライスを作っているところがあって、よく匂いを嗅いだものだと思い出した。
ブランコに座り込んだだけで漕ぐでもなく、ただ沈みゆく夕日をぼんやりと眺める。公園を訪れるのも、無為に過ごすのもいつぶりだろうか。
世界は広がるどころか多段階に分かれ、僕を微塵切りにして隙間なく埋め尽くす。世間にはもっと変わった名がごろごろ転がっていることも知った。
中学をピークにしたあの気苦労はなんだったのかと、息を吐き出さずにはいられない。
「……チナツ」
息を発するのに任せて、懐かしい名前を呟く。何しろ、その字面すら知らなかったのだから、今となっては夢とも幻ともつかぬ楽しい時間の象徴でしかない。
僕はあの落雷のような出来事の後も何度となく公園に足を運んだが、チナツと再会することはなく、長い間孤独や焦燥と戦わねばならなかった。
こうして大人になって記憶を掘り起こしてみると、あの男性がチナツの保護者であることは間違いがないように思われた。
大切な友達が奪われるという強迫観念に捕らわれて思考が回らなかっただけで、考えてみればあんな時間に小さな女の子が出掛けていたら、親が迎えにくるのも当然だ。
きっとあの日は毎日遊び回っている娘の行き先をようやく突き止めて、追いかけてきたところだったのだろう。
『こんな時間まで何をやっているんだ!』
そう叱り飛ばされ、遊ぶことも禁じられた――。思考するごとに至極自然な流れを空想し、己を納得させるしかないのだが、チナツがあの日見せた弱々しい表情が常に待ったをかける。
父親は暴力を振るう男性で、怯えていた?
父親に知れたことを悲しみ、別れの挨拶をするつもりだった?
どこまでいっても、名前の音しか情報を持たない子どもには確かめようのない事柄で、考えは堂々巡りを繰り返すのみだった。
飛躍が過ぎて、チナツは人であったのかとさえ疑う瞬間がある。いつもどこからかやってきて、ふらりと消えていなくなる友達……。脆く融け出す記憶は輪郭も危うく、掴みどころを失いつつあった。
錆び付き、年を経た遊具が眠りに付く時刻。ブランコに揺られていると、どこにも行けないはずのそれで遠くまで行けそうな、微睡みに浸かりきってしまいそうになる。
そんな時、ふいに空気が動いた。頬を擦り抜けていた風が向きを変え、僕に知らせる――隣のブランコに重みが加わったことを。
「……え」
白いワンピースに麦わら帽子、赤く光沢を放つヒール。
帽子が飛んでしまわないように片手で抑えながら、彼女がこちらに顔を向けた。宝石のような瞳が細められ、紅を引いた唇が僕の好きな笑みに形作られる。
「ねぇ、押してくれる?」
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
しっとりとした話が書きたいと考えを巡らせていたら、ふっと浮かんできたお話です。
チナツが何者だったのか、この後二人がどうなったのか、いつか書けたらいいなと思っています。
【追記】対となるチナツの物語「黄昏れの刻」を投稿しました。
https://ncode.syosetu.com/n4853hl/