一
次第に濃くなった霧のおかげで、紅珠達は何とか難を逃れることに成功し、日没と同時に閉まってしまう大門にも間に合った。香陽の都は、ぐるりと防御のために石壁でぐるりと囲まれていて、夜になると門が閉まり、誰も人が入れないようになっている。
宋林と休憩していた場所から、地上は近かったようだ。刺客はやはり追って来なかった。
濃霧に助けられたのか……。
「良かったな。友達の空気が助けてくれて。礼でも言ったらどうだ」
「それも、そうですね。ありがたいことです」
――置いて行こう。
今が好機とばかりに、立ち止まって手を合わせている宋林を早速撒こうとしたものの、足が痛くて、素早い動きは無理だった。
更に良くないことに、皇帝陛下の喪に服している夜の都は、光源となるようなものは何一つなく、暗闇の中に鎮まり返っていて、前に進むのすら困難だった。
普段なら賑やかなはずの酒屋も、今日に限っては開いていないらしい。
(まったく、ついていない……)
それでも、通行人は疎らに存在している。
提灯を手に、進む人々は、照らし出された紅珠のぼろぼろの格好を目の当たりにして、顔を引きつらせながら、通路の真ん中を紅珠に譲ってくれた。せめて、中途半端に解けている髪を結い直したかったが、英清を背負っているので、どうしようもない。
「何処に行くんです?」
案の定、宋林に追いつかれた紅珠は、舌打ちしながら答えた。
「何処か泊まれる所だよ。どうせ閉まっているだろうが、一応当たってみようと思ってな」
「やはり、お義兄様の家は避けることにしましたか?」
「英清の言葉が気になる。人がぞろぞろと集まっているんだろ。もう少し警戒してからでもいいし、何よりさっきあんたから聞いた話で、どうにかなりそうな頭を冷やし……」
――が、まさに、その時だった。
「おーいっ!!」
事態の重さを軽やかに吹き飛ばす暢気な声音が、森閑の街の中に轟いた。
「…………て、冷やすどころか、更に血圧を上昇させそうな声がしますね?」
「あんた、こういう時だけは冷静な物言いをするんだな」
どうして、自分の人生はすべて思い通りに行かないのか……。
紅珠は強く唇を噛みしめた。
「これは、訪問する前から来ちゃったんじゃないですか? 英清くんのお父様が……」
「まだ分からないぞ。通りすがりの怪しい人かもしれない」
「僕には、怪しい人には、見えませんけどね?」
「怪しい人筆頭のあんたには、分からんだろう」
しかし、紅珠にはそれが無駄な足掻きだということが分かっていた。往来の真ん中で揺れている無数の提灯が問題の人物を照らしている。
「おーい。私だよ。紫英! 髙 紫英だよ!」
「どこかで聞いた名前ですね?」
「あー、もう、うるさいな」
呆れる紅珠を尻目に義兄こと髙紫英は大柄な体でぴょんぴょんと跳ねている。
曖昧だった義兄の輪郭が露わになると、もう事実を否定することは出来なくなっていた。英清を抱え直すと、今まで深く昏倒していたのが嘘のように、英清は目を開けた。
「……な、何?」
「丁度良いところで、目を覚ましたな。英清」
「はっ?」
英清は何度も目を擦った。目の前にいる男の正体に気づきたくないようだ。
紅珠には甥の気持ちが手に取るように分かった。
「……何で親父が、どうして?」
「どうしちゃったんだろうな。前からあんな人だったけか?」
「俺が知る限り、あれが正しい親父の姿だ」
紫英は、いまだに飛び跳ねている。
もう分かったからやめて欲しかった。
「い、嫌だ。絶対に嫌だからな。あんな馬鹿親父。会いたくもない」
「すまなかった。英清。私は義兄上の性格を誤解していたよ。多少まともな人だと思っていた」
こんな親父と毎日一緒にいたら、遅かれ早かれ、英清は家出をしていたに違いない。
「英清~。会いたかったよー」
「うっ」
紅珠は、とっさに背中は見せたものの、逃げ切れなかった。
飛びかかってきた紫英は、事もあろうか、英清ごと紅珠をきつく抱きしめてくる。
「もう、英清ちゃんったら~。父様は本当に心配してたんだよー。何処に行ってたの?」
「やめろ。気持ち悪い」
可哀相に……。
(まったくだ……)
ようやく、嫌がる英清に押し切られる形で、義兄の顔が離れたと思ったら、また違った力が勢い良く紅珠に抱きついてきた。
「あーっ。お義兄さんだけずるいですよ。僕も混ぜて下さい!」
「うはっ……!」
義兄の肩と、紅珠の肩を抱き締めるように仙人の手が入ってきたので、何やら三人で抱き合っているような、奇妙な姿が形勢されてしまった。
「く、苦しい……」
このまま押し潰されてしまいそうだ。
(こんな所で、私は訳の分からない男共に抱きつかれて圧死するのか……?)
いっそ、それも有りかと、紅珠が白目をむいたところで、今回ばかりは意外に早く救いの主が現れた。
「あたたたたっ!」
今日、何度目だろうか。小さな赤猫=暁虎が宋林の指を齧っている。宋林が取り乱してくれたおかげで、義兄も紅珠から離れてくれた。
「た、助かった」
「いたたたっ、暁虎。痛いじゃないですかっ!」
必死の形相で、宋林は暁虎を引き剥がした。
紫英はへらへら笑顔のまま、盛大な拍手を送っていた。
「あはははっ。相変わらず、面白い芸を見せてくれるよな。宋林さんは。ねえ、君もそう思わない?」
「あーーー……」
痛ましさにうつむいた紅珠の視線を追いかけていた紫英は、その時になって初めて紅珠を義妹と認識したらしい。
「ああっ!? 君、紅ちゃんじゃない? こちらに来ると聞いていたから待っていたんだけど。英清と一緒だったんだね」
「はあ」
こうなってしまっては仕方ない。
紅珠は薄暗い笑みのまま、小さく首肯した。
「お久しぶりです。義兄さま。十数年ぶりでしょうか」
「そうだね。久しぶり。元気そうで何よりだよ」
紅珠のくたびれた格好を目の当たりにしても、元気の一言で解決できてしまう義兄はある意味素晴らしい人間なのかもしれない。
紅珠はあきれている時間を惜しんで、宋林の首根っこを掴んで前に押し出した。
「……で、やっぱり、義兄上も、宋林これとは面識があるんですね?」
「うん。二十日ほど前だったかな。昔からの知り合いだって麗華の所に急に訪ねてきて、我が家に住み着いていたんだよね。仙人のような芸人だったかな、芸人のような仙人だったか、私にも未だによく分からないんだけど?」
まあ、宋林に限っては、仙人も芸人も似たようなものだろう。
「よくできた一人芝居をする人だよね?」
「……もしや。義兄上には見えないのですか?」
「えっ、何が?」
「何がって……?」
どうやら、紫英には暁虎が見えないらしい。
そういえば、先程襲ってきた刺客達も、暁虎のことは見えていないようで、何処からともなく、襲ってきた火の玉に怯えているようだった。
「叔母さん、無駄だよ。親父には何も見えていないんだから」
「…………ああ、そのようだな」
紅珠は冷めた声で応じつつも、英清の未来が不安になってきた。
このくらいの年頃であれば、もう少し父親にべったりでも不思議ではないのだ。
あんな父親だからこそ、英清の成長は早くならざるを得なかったのではないか?
八歳にして、反抗期真っ盛りだ。
(ましてや、英清は、皇帝陛下の御子だっていうし……)
紫英は英清の事情を知っているはずだ。
知らないわけがない。知っていてこの態度を取っているのだから、やはり、この人はある意味、大物なのだろう。
「それにしても、義兄上」
「なーに?」
猫撫で声に紅珠は鳥肌を立てたが、何とか自分を奮い立たせた。
「何故急に、英清を迎えにこんなところまで来たのですか?」
「ああ。紅ちゃんを見かけたという話を家の者から聞いたからさ」
「恵祝に、私を出迎えるように言われたのですか?」
「いや、恵祝は屋敷からは絶対に出るなって怒っていたけど、義妹を出迎えないわけにはいかないでしょう? このところ家は物騒だし……」
声が沈んだのは、麗華のことを思ったからだろう。
恵祝が口にしていた『仲が良い』というのは、本当のことのようだ。
(他は信じられそうもないけれど……)
「義兄上。恵祝殿は何処に?」
「恵祝なら、その辺にいるでしょ。今までずっとそこにいたんだから」
どうやら、付近にはいないようだ。
あの目立つ髭の老人だったら、暗がりでも、すぐに見付かりそうなものだが……。
しかし、目の前には、嫌がる英清を追いかける紫英の醜態ぶりを数人の家臣が並んで、憐れみの眼差しで眺めているだけだ。
見知っている人間は、誰一人いない。
「……て、あれ?」
――アイツの姿も、ないではないか?
ついさっきまで、一等、騒がしくしていた自称仙人・宋林の姿が忽然と消えていたのだった。