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仙遊伝  作者: 森戸玲有
一章
7/36

「英清?」


 英清の足元には数本の羽根矢が刺さっていた。

 紅珠は、すぐさま英清を背に回すと、周囲へと視線を配った。

 鈍っているとはいえ、かつては後宮の警備を任された身だ。危機に際しての身の処し方は心得ている。


(――いる)


 矢が飛んできた方向に、大勢の人間の気配を感じる。

 ちらりと垣間見えたのは、揃いの装束を身につけた屈強な男たちだった。

 殺気を抑えることが出来るということは、相当な鍛錬を積んでいるとみて間違いない。


「囲まれているみたいなんですよね。さっきから」


 紅珠は、いつの間にか距離を詰めてきた宋林の頭を叩いた。


「近いぞ、馬鹿。それに、囲まれているって、分かっていたなら、もっと早く言え」

「言おうと思ってたんですけど、すいません。貴方を口説くことに集中してしまって、すっかり忘れてしまっていました」

「さて、頭の危険なニセ仙人をどうしてやろうかな……」


 しかし、宋林だけを責めるわけにはいかない。

 紅珠も明らかに、油断をしていた。


 八年も体を動かしていなかったので、警戒心が鈍ったのだろう。

 自分が気付かなかったのに宋林が気付いていたということが、さらに悔しかった。


「良いことを思いついた」


 紅珠は宋林の首根っこを掴まえると、そのまま自分と英清の前に出した。


「さあ、宋林。あんたはせっかく仙人なんだし、せいぜい、私たちの良い盾になってくれよ」

「ええっ!?」


 背後を取られないよう庵を背にして、紅珠は周囲に睨みを利かせた。

 自分一人だけだったら、隙を見て逃げることも可能だろうが、こちらには英清がいるのだ。

 紅珠は宋林を盾にしている片手に力を込め、無意識に、もう片方の手を腰に当てた。

 悲しいことに、そこに剣はない。

 武器らしい武器一つ、紅珠は持っていなかった。


「彼らは英清君を、捕まえるつもりなんでしょう」

「…………捕まえる……だと?」

「英清君は覚えているでしょう。貴方とお母様を狙った刺客……。あれは、お母様だけではなく、貴方も連れて行こうとしていましたよね」 

「そう……だけど」

「僕、今までここを気付かれないよう、霧を張って誤魔化したりしていたんですけどね。今日は紅珠さんを招くために、その仕掛けを解いてしまったんですよ。でも、ここまでの大軍が押し寄せたことはなかったような気がします。何で今日こんなに来客が増えたんでしょうね?」

「まるで、他人事のようだな。エセ仙人が……」

「何とかしろよ。宋林。お前、仙人なんだろ。奴らと戦って、母様を取り返してくれよ」


 宋林のやたら長い袖を英清が引っ張っり、紅珠もまた宋林の首を絞め上げた。


「ぐっ、ぐるしい!」


 こんな絵にかいたような隙を見逃すほど、敵も愚かではないらしい。

 矢の嵐が降り注ぐ。


「奴ら、全力で殺すつもりか? 一体、何なんだ?」


 宋林を盾にしながら、紅珠は怒鳴った。


「いや、お二人の前に、このままだと僕が先に死にますってば。仙人だって不死身ってわけじゃないんですから」


 言葉の割に、暢気な口調は変わらなかった。

 そして、相変わらず、一本の矢も宋林を掠りもしていない。

 これほど無数の矢が飛んできているのに、一本も当たらないなんておかしい。

 当てる気がないのか。それとも何か理由があるのか。


「大体、これだけ数を揃えたなら、直接襲いかかって来た方が確実じゃないのか?」

「多分、彼らは、英清君を恐れているんでしょうね。そのせいで、彼らは一度捕獲に失敗しているのですから……。正確には、英清君が使った『あれ』のおかげですが。『あれ』のせいで彼らにも怪我人がいっぱい出ているでしょう。だから恐れてるんですねぇ」

「『あれ』って、何だ? 英清、お前何かしたのか?」


 その言葉に、紅珠の後ろに隠れていた英清がハッと頭を上げた。


「あ、そっか! 思い出したよ、叔母さん。その手があった!」

「はっ?」

「ああ。でも、英清君。もう『あれ』は使わないほうがいいと、僕は思……」 


 しかし、宋林の言葉は、英清の弾んだ声にかき消された。


「おーい! 暁虎ぎょうこ!!」


 途端に地面から白煙があがった。発生源は英清の足元だった。

 それはまるで煙幕のように広がり、周囲が何も見えなくなった。


 ――そうして。

 いつの間にか矢の雨が止み、白煙が晴れていく。


 完全に視界が開けたとき、そこにいたのは……


「猫……。あの時の?」


 都で宋林に噛み付いていた赤猫が、英清の足元で欠伸をしつつ後ろ足で耳を掻いていた。


「ただの猫じゃないか!」

「暁虎、行け!!」


 思わず突っ込みを入れた紅珠を遮り、英清が命じた。

 猫は返事代わりの咆哮を上げ………………大きく口を開くと喉の奥から、赤い炎を噴射したのだった。


 木々の間で息を潜めていた刺客たちがわっと立ち上がり、取り乱す姿が目に映る。


「何が起きているんだ。一体……」


 一瞬、呆然とした紅珠だったが、すぐに正気に戻った。ともかく、逃げるなら今だ。


「英清!」


 紅珠は宋林を離すと、そのまま英清の手を引こうとする。

 だが、彼は激しく拒絶した。


「嫌だ! このまま戦う!」


 英清は、いまだ口から煙を吐いている猫を抱きかかえて、こちらを睨みつけた。 

 その眼光の強さに、紅珠の額に、思わず汗がにじんだ。

 この頑固さ、一体誰に似たのか……。


「このまま奴らから母様を取り返すんだ。暁虎ならできる。暁虎はもっと強……」

「まあまあ。落ち着きなさいよ。英清君」


 大声を上げる英清の傍らに、宋林が機敏な動きで近づくと、突然、その首に手刀を入れて気絶させた。だらりと崩れる英清を宗林が抱える。

 …………見事な手技だった。


「…………あんた、一体?」

「――さて。早く脱出しないと、本当に危険ですよ。紅珠さん」

「分かってる」


 益々、この男の存在が怪しいものの、今は悠長に暴いている時間はない。

 紅珠は気絶した英清を宋林から受け取ると、ひょいと小脇に抱えた。

 英清は華奢だった。

 実家の酒問屋で日頃担いでいる酒樽よりははるかに軽い。

 紅珠は勢いよく地面を蹴り、全力で走り出した。

 無論、宋林は放置してきたわけだが、足の速い仙人は猫を抱いたまま、紅珠の脇にぴったりとついてきた。

 やっぱりこの男、侮れない。


「ついて来るな」 

「貴方の夫を置いていくんですか?」

「いつ結婚したんだ?」


 ……まだ諦めていなかったらしい。

 背後からは、ようやく態勢を立て直した刺客たちが追ってくる気配があった。


「ああ、そうだな。宋林、だったら、私のために囮になってくれてもいいだろう?」

「……命懸けの愛。僕の愛情を試しているというのですか?」

「今朝初めて会ったばかりなのに、あんたと私で、どの程度の愛情が築けたというんだ?」

「酷いですね。隣のお爺さんと僕を比べたら、僕の方がずっと魅力的でしょう?」

「いい加減、そのネタを引っ張るな。あんたが仙人なら、どっちみちジジイじゃないか。そんなに大差ないだろう。それに、こんな山なんかに住み着きやがって、どうせならもうちょっと逃げやすい場所を選べ!」


 後半は完全な八つ当たりなのだが、宋林が気にした様子はない。


「いやあ。そう言われても、僕、仙人ですからね。山に住まないと始まらない感じがして、それに、山の中なら最悪何があっても大丈夫という安心がありまして……」 

「その安心感は、即刻捨てた方がいいな……」


 紅珠は、げっそりとした口調で告げた。

 獣道を駆け下り続けて、自分が何処にいるのか完全に分からなくなっていた。


「じゃあ、大好きな山道の道案内くらいしてくれてもいいじゃないか?」

「もちろん、まかせてください。このまま下り続けるのです。そうすれば都に戻れますよ」


 ――聞くんじゃなかった。


「…………やっぱり信用ならないな。本当に仙人なのか?」


「えっ、でも、ほら、この状況下でも、僕は息切れしてないじゃないですか。少ない空気を効率的に吸収しているんです。仙人でしょ? 空気は僕の主食で、友だちですからね」


 言われてみれば、確かに、宋林は息一つ乱していなかった。

 こんなにも、紅珠が息を切らしているのにも関わらず……。


「ね? 凄いでしょ?」

「本当に、腹が立つな。大体、あんたの食べ甲斐のある友は、この危機に対して、無関心すぎやしないか?」

「そりゃあ、まあ、どんなに頑張っても空気ですからね……」


(…………不毛だ) 


 こんな奴とだけは、一緒に死にたくない。


「もう、このまま捕まってしまおうか……」


 もしかしたら、両手を挙げて泣いて謝れば、命だけは助けてくれるのでないか?


「――でも、紅珠さん、追手さんたち、やけにゆっくりじゃないですか?」

「そういえば……」


 指摘を受けて、初めて紅珠は気づいた。

 追っ手の気配が消えている。

 彼らの気配を感じないほど、紅珠は遠くに来たのか、それとも、彼らが撤収したのか?

 少し安心したところで、紅珠は、宗林の手の中にいる火を吐く猫に注目した。

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