四
(あれは……?)
義兄の家宰に違いない。
紅珠が姉と最後に会ったのは甥が生まれた直後で、もう八年も前のことになるが、あの家宰の顔は忘れていなかった。
妙に長い白髭が特徴的な小男。
動きが緩慢で、こんなことで、下級とはいえ貴族の屋敷を仕切っていけるのだろうかと、疑問に思ったことをよく覚えている。
月日は確実に流れているはずなのに、あの老人はまったく変わっていないようだった。
「ちょっと、あんたはここで待ってろ。ちゃんと『騙し討ち』について聞かせてもらうからな!」
「もちろんです。僕は逃げも隠れもしませんよ」
軽薄そうにひらひらと手を振る男に促されるようにして、紅珠は家宰の方に向かった。
「髙家の家宰の恵祝殿ですよね!?」
「いかにも。そうですが?」
老人は小さく頷いた。豊かな口髭がふさふさと揺れた。
「ご無沙汰しています。私、朔 紅珠です。お手紙ありがとうございました」
「おおっ。紅珠さんか」
とたんに強張っていた恵祝の顔つきが和らいだ。
「いまだに未婚で職なしだと聞いていおりましたが、まさか、ここでお会いできるとは……」
(このジジイ……)
どうやら歓迎はされていないようだが、紅珠のことはよく知っているようだ。
紅珠は何とか平生を装った。
「はい。姉の麗華と甥の英清の行方が知れないと聞いたので、様子を見に参りました」
「今、私もお二人を捜しに歩いて回っていたところですよ。貴方がいらっしゃったということは、お二人は威彩のご実家に戻られていないということでしょうし……」
「…………はい」
「困りましたな。陛下も身罷られて、髙家にとって大変なこの時に、突然姿を消されてしまうとは。主も、喪中で身動きがとれないことを歯痒く思っていらっしゃいますよ」
「喧嘩ではないのですか?」
「まさか! お二人はご結婚されてから一度も喧嘩をされたこともない、恐ろしいほど仲睦まじい夫婦です。……ご実家でもないということは、何者かにかどわかされたのかもしれません」
「……何か、変わったことはありませんでしたか? 姉の周囲、いや、姉自身でも構いません」
「行方不明になる当日まで、奥様に変わった様子は一切ありませんでした。でも、一つ心当たりがあります。それを今も捜していたのですが……」
恵祝は髭とは対照的に、薄い頭皮を撫でながら続けた。
「近頃、当家に道士が出入りするようになっていましてね」
「………………道士?」
「奥様は、古い知り合いだと申されていましたが、もしかしたら、そやつが」
「…………あの、それって、まさか」
「髪が長くて、馬鹿でかい白い扇子を持った、見るからに怪しい道士の……」
「貴様かっ!!」
紅珠は本能的に振り返った。しかしというか、案の定、誰もいない。
逃げも隠れもしないと言ったその舌の根が乾かないうちに、忽然と男は猫と共に姿を消していた。
……あんなに激しく猫に噛まれていたのに。
「……何て奴だ!」
ただ者じゃないとは思っていたが、変人なだけではなかった。立派な悪人だったらしい。
「え、あっ。紅珠さん?」
呆然とする恵祝を置いて卓の下までも捜すが、無論そんな所に男がいるはずがない。
「くそっ」
女らしくない呟きをもらしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
恵祝だと思って振り返ると、そこには前掛け姿のむっくりとした女性が渋面で紅珠を睨んでいた。
「あんたが、髙家の使いの人?」
「はっ?」
「道士さんが、表にいる女性に勘定を頼んだって」
「道……士さん、だって?」
紅珠は道士という単語に反応していた。
「そいつは何処ですか!?」
「どっか行っちゃったわよ」
紅珠の事情など知らないその女性は、あっけらかんとした口調で言い捨てる。
「…………最悪」
紅珠の溜息に呼応するように、女性もぼやいた。
「最悪なのは、こっちだわ。大体、道士に昼食を出すなんて嫌だったのよね。代金踏み倒されそうだし。なのに、どうしてもっていうからさ。喪中なのに、店を開けてやったのよ」
なるほど。
この女性は閉店しているのだと紅珠が思い込んでいた飯屋の従業員のようだ。
「占めて六稟。これでも、酒代はまけてやってるのよ」
女は、おもむろに広げた掌を紅珠の鼻先に持ってきた。
「払うの、払わないの?」
ぶっきらぼうに問われて、紅珠は面食らった。
「あの……しかし、六稟というのは、一人の食事代としては高額なんじゃないのか?」
「嫌ね。一人じゃないわ。子供の分もよ。髙家のお坊っちゃん」
「――何だって!?」
「英清様のことか!?」
遠巻きに眺めていた恵祝が、その言葉に反応し、声を荒げながら近づいてきた。
「かような近くに英清様がいらっしゃったなんて……。まったく私は気付きませんでした」
「いっそ、あのエセ道士の関節の一つでも外して、拘束しておけば良かったな」
英清を連れているのなら、種明かしだなんてもったいぶらなくても、容易に紅珠の事情など入手できるだろうはずだ。
紅珠は殺意をこめて、両手の拳を鳴らした。
「絶対に捜し出してやる」
「いやねえ。あんた、探すも何も道士さん。奉界山の中腹にある庵にいるってさ」
「はっ?」
「もしも髙家が金を払わなければ、ちゃんと支払うあてがあるから回収しに来いとか言って。私、そんなに暇じゃないんだけどねぇ」
(……一体、あいつは何がしたいんだ?)
紅珠は、呆れと怒りがない交ぜになった重い頭を抱えた。
こんなことなるなんて……。
やはり、日頃の行いが悪い証拠かもしれない。