一
目覚めると、紅珠は、花の香りのする白仙宮の一室で、豪奢な寝台に寝かされていた。
紫英の屋敷が壊れてしまったからだという。あっという間に丸一日過ぎてしまったらしい。
陛下の葬礼はどうなったのかと問うと、とっくに終わったと女官に言われてしまった。
最近、まったく世話になっていない医者の診察の後、待ち構えていたかのように、桃色の衣を纏った女性が飛び込んできた。
数年会ってなくても分かる。
――麗華だ。
「何なんですか? 姉さん」
「普通は、何していたんですか……じゃないのかしらね?」
悪びれることなく、にっこりしながら問う。
その話し方がゆったりしているから、皆この人に騙されるのだ。
紅珠は、この人ほど悪知恵の働く人を知らない。
「よかったわねえ。紅ちゃん。特に悪いところはないみたいよ。あとは貴方の気分次第で床払いができるみたい」
ああ。そうだった。紅珠のことを子供の頃から「紅ちゃん」と呼んでいたのは、麗華なのだ。
「三十三にもなって、心が痛いな」
「あら、嫌だ。恋の病かしら?」
――この人は、放っておこう。
「ねえ。それにしても、驚いたわよ。貴方でしょう。紫英さんに用兵がどうのって言ったの。久々に家に帰ったら、屋敷の人間総出で屋敷に砦を築いていてね。私が門に立ったら、恵祝ったら、土嚢から顔を上げて、合い言葉を言えだなんて言うのよ。笑っちゃったわ」
土嚢まで用意していたとなると、敵が去っても立てこもり続けていたのだろう。それだけ、必死だったということだ。
「姉さんは、興州に行ってたんでしょ?」
「……そう。そうなのよね」
麗華は豪華な花の浮き彫りがされた天井を見上げてから、楽しそうに早口で言った。
「私は陛下を見送ってから、宰相様と、そのお付きの人たちと興州に行っていたの。宰相様ったら、牢に残してきた自分の身代わりが気になって、なかなか出発してくれないから、陛下の葬礼には間に合わないかと思ったのよ。でも、ほとんど寝ないで馬を飛ばして、興公の公子様と会ったら、父のやり方は許せないって、息巻いてしまって。興公ったら、先帝の御子も軟禁していたのよ。かわいそうだと思わない?」
「……分かった。分かったよ。姉さん」
いとも簡単なことのように語っているが、麗華も激しい七日間を過ごしたようだ。
「……それで、どうなったの?」
「独立しちゃった」
「七日で?」
「公子が周辺に自分が興公になりましたって言ったら、それは独立でしょ」
「そう簡単じゃないと思うけどね……」
「でも、今頃秦紹は慌てているでしょうね。これじゃあ、とても皇帝になんてなれないわ。でも、一番悪いのは、秦紹が器ではないことを、知っていたくせに、皇帝に持ち上げた勢力のほうだって、宰相様が怒っていらっしゃったわよ。その辺の情報は上がっているから、処分されるのは時間の問題なんじゃないかしら?」
「宰相様。義兄上の屋敷に集まっていた連中には、ちゃんと事情を話してくれたのか?」
「……ああ、話していたわよ。皆、宰相様がご無事で良かったと泣いてたわ」
「なら、いいけど。悔し泣きと違うならね……」
「そういえば、莉春様が貴方にちゃんと謝りたいって言ってたわよ」
「なぜ? むしろ、私が莉春様に礼を言いたいんだけど。刺された侍女のことも気になるし?」
「侍女のは掠り傷よ。大体、貴方の肩の方が重傷だったんだからね。よく動けたわよね。莉春様も心配されていたわ」
それは、宋林のおかしな術のせいだが、紅珠は心配されるようなことは何もしていない。
むしろ、興公の屋敷を破壊しまくったことを詫びなければならないはずだ。
「莉春様はね。秦紹はとんでもなく愚かな人だけど、この先もついていくんですって。だから、貴方にも謝っておきたいんでしょう。愛ね。最後に残ったものが愛って、素敵な話じゃない」
「……愛か」
どうだろう。
この先に必要なのは、愛なんかではなく、金なんじゃないのか。
(でも、まあ。莉春様は私じゃないし、大丈夫か……)
「どうしたの、紅ちゃん? 何をそんなに寂しそうな顔をしているのよ。貴方にだって宋さんがいるじゃない。興公の屋敷で、莉春様と侍女を救ってくれたのだって、宋さんでしょう。良い人じゃないの。貴方をおぶって帰ってきたとき、私の方が、もう、心臓がどきどきしちゃったんだから」
「宋さんって、誰?」
「義弟になる人だから、親しみを込めてみようかと思って、駄目? こういう呼び方は、まだ馴れ馴れしいかしら?」
……そういう問題じゃない。
あれが麗華のことを義姉と呼ぶのか。
(勘弁してくれ……)
紅珠は咳払いをした。恐ろしい想像をしたら、また床に臥せってしまいそうだった。
「私じゃなくて。姉さんの方だろう。どうして陛下のことを私に話してくれなかったんだ。少しでも話してくれたら、もっと手の打ちようもあったのに……」
「それは……。ちょっと話したら、全部、話してしまいそうで。他言無用の話だって、陛下からは言われていたから。仕方なかったのよ。……ごめんなさい」
紅珠は周囲を見渡してから、小声となった。
人の気配はないが、仙人とか道士なら別だ。
彼らが何処からかわいてきてもおかしくはない。
「だって、お后様が神獣だなんて、普通は考えつかないだろ」
「……えっ。そうなの?」
麗華はきょとんとしている。驚きたいのはこっちの方だった。
「姉さんは、知らないのか?」
「人じゃないとは知っていたけど。でも、暁虎とお揃いなんて、素敵ね」
「…………素敵って」
紅珠は一気に脱力した。これが「素敵」で片付いたのなら、世界はどんなに美しいだろう。
「私、紅ちゃんが御殿吏を辞めてから、後宮でお后様付きの女官をやっていたの」
唐突に昔話を切り出した麗華に、紅珠はあきれつつ、うなずいた。
「いろんな人から聞いて知っているよ」
「私ね。最初はお后様のことが好きだったの」
「……ぐほっ、ごほっごほっ」
麗華が心配そうに、紅珠の背中を擦った。
「大丈夫。紅ちゃん?」
「冗談でもあまり驚かせないでくれよ。傷が痛む」
「嫌ね。嘘じゃないわよ。だけど、本当に素敵だったのよ。お后様。凛々しくて、格好良くて、私。女姿のお后様も好きだけど、男姿のお后様の方が好きだわ」
「つまり、それって……?」
「お后様には、性別がないのよ」
――そうだった。
青后は神獣なのだ。
天上界の愉快な生物だ。
性別がなくて当然なのかもしれない。
それにしては、とても女言葉が綺麗だった。あれは訓練の賜物なのか。
「でもね。お后様と、陛下と三人で一緒にいるうちに、陛下のことも好きになったわ。お后様がどうしても、陛下の御子を生んで欲しいと言うから、私承諾したのよ」
「……まあ、自分では生めないものな」
たとえ皇帝に対して愛情があっても、神獣が人間の子供を孕むことはできないだろう。
「陛下はね。生まれてくる御子は、皇帝にはしたくないとおっしゃったわ。私も同じ気持ちだったから、白仙宮を出て、紫英さんに嫁いだのよ。でも……」
麗華は珍しく影のある微笑を浮かべた。
「あの時、お后様は口出しされなかったけれど。私、本当は分かっていたのよ。お后様は英清を、皇帝にしたかったの。…………だから、これは仕方のないことなのね」
「姉さん?」
心配して聞き返すと、少しだけ物憂げな溜息を吐いてから、麗華はいつもの笑顔に切り替えて、さらりと告げたのだった。
「――英清がね、皇位継承することを、承諾したのよ」




