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◆◆◆


 御殿吏時代に、何度か馬には乗っていたので、乗馬は心配なかったが、問題は、吐き気のある状態で、馬に揺られることを体調が許してくれるかどうかだった。


 さすがに、馬上で吐くわけにはいかない。


 這這の体で、興公の屋敷に着いた紅珠は、襲い来る衛兵を、暁虎の炎で蹴散らし、英清のもとに連れていくように念じた。


 暁虎を追いかけてやって来たのは、地下だった。


 監禁部屋かと急いで駆け下りたら、予感は的中したものの、いきなり、強敵を発見してしまったのである。

 待ち受けていたのは、不快感たっぷりの青年だった。


「……あれ? どうして、貴方なんですか?」


 芳全が静かに怒っていた。

 暁虎に案内させてはいたが、いきなり出くわすとは思っていなかったので、紅珠は内心、怖気を覚えていた。


「あんた、仕事辞めたんじゃなかったのか?」

「辞めていますよ。昨夜、契約が終了しました。だから、こうして自由気ままに、子供を誘拐したんじゃないですか? 契約は裏切れませんからね。本当に終わってくれて清々しました」


 しれっと答える。


「それで? 紅珠さん……でしたっけ? 仙人は、どうしたのです?」

「仙人? そんなのどうでも良いだろう? 英清……興公はどこなんだ?」

「とっとと、私の質問に答えて下さい」


 昨日までの涼やかな好青年の印象は一気に崩れ去っていた。神経質に唇を強く噛みしめ、見るからに苛々している。こちらの話に答える余裕なんてないようだった。


「あのなあ、私は宋林の保護者でも何でもないんだ。ここにいないなら、山にでも帰ったんじゃないのか?」

「なぜ、引き留めなかったのです? 大体、幼児誘拐ですよ。昨夜のうちに騒いで取り戻しに来るのが筋じゃないですか? 場所だって分かりやすく、興公の邸宅にしておいてあげたのに。私が呼び出すまでここに来ないなんて、なんて、やる気のなさなんですか?」 

「うるさいな。れっきとした人間は、昨日の今日で動くのは大変なんだ。もう少し空気読めって、おい……あんた、興公の指示じゃなかったのか?」

「興公? そんな愚かなオッサンが契約の切れた私を動かせるはずがないでしょう……」

「そう……か」


 つまり、英清の誘拐は、芳全の単独行動ということだったらしい。

 そして、この男は宋林を待っていた……と。


(勘弁してくれよ)


 紅珠は脱力しながらも、心の中で必死に暁虎を呼んでいた。

 暁虎さえ召喚してしまえば、こんな不毛な話、口から炎を吐かせるだけで終了させることができるのに……。


(何処に行ったんだ。あの猫?)


 人を危地に置き去りにして、消えてしまうなんて、飼い主が宋林なら、飼い猫も酷いものだ。

 試しに小声で呼んでみても、まったく現れる気配すらない。

 上手くいけば、芳全を炎で黙らせ、もし、近くにいるのなら、興公を一発殴るだけで、英清を助け出すことが出来るかもしれないのに……。


「叔母さん!」

「えっ……」


 今まで、紅珠からは死角になっていて見えなかったらしい。

 芳全の背後で英清は椅子にくくられていた。

 暁虎は、英清の匂いを追いかけて、紅珠をここに誘ったのだろう。


「一応、仕事はしていたみたいだな。暁虎」


 紅珠はやる気を取り戻して、深呼吸をした。


「英清、待ってろ。今、叔母さんが助けてやる!」

「がんばって」

「…………はっ?」


 それは、英清ではない。

 聞き慣れない女性の声音に、紅珠は己の耳を疑った。


「誰?」


 目を凝らす。

 そうして、紅珠は英清の隣で縛られている女性を、ようやく発見したのだった。


「ふふふっ」


 目が合うと微笑みかけられてしまい、紅珠は戸惑った。

 二十代前半にしか見えない、若く美しい女性だった。

 整った鼻筋に、真っ赤な唇、金色にも見える不思議な色の瞳が小さな顔におさまっている。

 紫色の長い衣が女性の艶やかさを、一層際立たせていた。

 女性はこの緊迫した場面にも関わらず、あっけらかんとしていた。


「……貴方は?」


 女性に向けて問いかけたはずなのに、溜息混じりに答えたのは芳全だった。


「さあ、ここの侍女なんじゃないですか? 突然、飛び込んできたので捕えておいたんですが……」

「あんたなあ、無関係な人を、巻き込むなって」

「無関係でなければ良いのですか?」

「……それで、興公と隆貴殿は何処にいるんだ?」


 紅珠はつい先ほどまで、敵は「興公一人」だと思い込んでいた。

 隆貴は説得に応じてくれるだろうと、思っていたからだ。

 ……しかし。


「うるさい人ですね。そのうるさいオッサンなら、あのひとのもっと後ろで寝ていますよ」

「何だ……と?」


 紅珠は溜まりかねて、前に進もうとすると、芳全に止められてしまった。

 しかし、少し前進しただけでも、部屋の全容を知ることは可能だった。

 女性の背後……部屋の隅に、見覚えのある髭の男性が縄をぐるぐる巻きにされて、横たわっている。


「…………どうして……? 興……公が?」


 ごくりと息を呑んだ。

 芳全の単独行動だと知りながらも、興公も黙認しているのではないか……と、紅珠は内心疑っていた。


 どうやら、問題は恐ろしいほどに、単純だったらしい。


「ああ、私が『兵を出せ』と言っても、喪中だと聞いてくれないもので。仕方ないから眠ってもらいました」

「芳全、あんた……。興公の名を騙って、義兄上の屋敷を襲ったのか? 葬礼前なのにこんな非礼なことを」

「たかが一人の人間の葬式で、騒ぐほうがおかしいんですよ」


 ……ということは、興公には常識があったのだろう。

 少なくとも、葬礼前に兵を出すなどという愚挙には応じなかったようだ。


「あんたの狙いは、何なんだ?」


 紅珠は頭を抱えた。つまり、この誘拐劇は芳全の単独犯ということだ。

 まったく、見抜けなかった。それは油断なのか。いや、誰も彼がそんな人間だと予想できなかったはずだ。


「だから、仙人ですよ。白涼帝とあの仙人が昔仲良かったと知ったので、皇帝に近づこうと興公の用心棒になったのです。やっとあの人が近くなったのに、再三の呼び出しにもあの人は応じない。契約期間は地獄のようでしたね。早く自力で、あの人をどうにかしてやりたくて……」

「……分かった。私はあんたを止めない。勝手にやってくれ。だけど、英清は返してもらうぞ。とりあえず、そのまま興公は転がしておいてくれればいいから。それと、隆貴が……」

「馬鹿な。貴方は、ここに一人でのこのこ来て、無事に帰れると思っているのですか?」

「だって、あんた仙人だろう。昨日の屋敷では、誰も殺していなかったじゃないか?」

「私は道士です。仙ではありません。ただ無益な殺生はしないだけですよ」

「…………そうか。じゃあ、ちゃんと聞いておいた方がいいな。隆貴殿は、今何処にいるんだ?」


 紅珠は、ゆっくりと棍棒を斜めに構えた。


 芳全が、にやりと笑った。


「そんな怒らなくても、まだ殺していませんって。丁度いい。ここに呼んであげましょう」

「何?」


 呼んでくるほど、仲がいいのかと思ったら、芳全は声を使うことなく、隆貴を呼んだらしい。

 背後に気配を感じて振り返ると、隆貴がいた。


「………………紅珠殿」


 らしくなく、淀んだ気配に、紅珠は目を見張った。


「隆貴殿。どうした?」

「すまない」

「はっ?」


 面と向かった途端に、謝罪された。意図を量りかねていたら……


「死ねっ!」


 突然、死刑宣告された。


「うわっ!?」


 隆貴が愛用の腰の剣を抜いて、切りかかってくる。紅珠は間一髪でよけた。


「危なかったー。一体、何なんだ」

「おっさん! 叔母さんっ!」


 英清が吼える。

 ……その呼び方が、なんか引っかかった。


「隆貴殿。確かにあんたの話をちゃんと聞かなかった私も悪い。英清の未来を皆で考える義務があったんだ。でも、これはないだろう。私がここで死んだら、英清の心の傷になってしまう」

「違う。確かに俺は紫英殿とあんた、仙人がいなければ、英清様を連れ出せると思っていた」

「隆貴殿?」

「白仙宮まで行けば、おいそれとあんた達が手出しできないと思っていた」


 では、昨夜、隆貴は宋林を追い出した上で、英清を拉致しようとしていたのか。

 そこに、芳全が攻撃を仕掛けてきて囚われてしまった……と?


「卑怯だぞ。隆貴殿」


 刃を避けたら、後れ毛の数本が宙に舞った。

 さすが、隆貴。剣が速い。


「だが、俺はどうしても、英清様を皇帝にしたかった。あの御方の血を繋ぎたかったんだ」


 振り回している剣で自分を刺してしまうのではないかと思うくらい、隆貴は消沈していた。


「わ、分かった。分かった。あんたの気持ちは分かったから……!」


 どうやら、隆貴自身、どうにもならない自分の体と戦っているようだった。

 少し離れたところで、芳全が嗤っていた。


「芳全! 一体何の妖術を使ったんだ?」


 即座に、棍棒を繰り出そうとした紅珠だったが、隆貴に阻まれた。


「符術を使っているだけです。彼の襟元にある符は、私の念で動く。符術は道士の基本ですよ。貴方も道士から仙人になるつもりなら、知っておかないと駄目なんじゃないですか?」

「あのな。私がいつ、仙人になると言ったんだ?」

「あれ。仙人が貴方の恋人なんでしょう?」

「……あんた、私を怒らせたいんだな?」


 紅珠が本気で芳全に殺気をぶつけると、芳全は益々隆貴に対する束縛を強めたようだった。


「うっ……」


 隆貴が苦悶の表情を浮かべて襲いかかってくる。その剣は、振るうごとに速くなっていった。息を吸うのも間々ならないほど乱撃で破壊力も増している。紅珠に暁虎を呼ぶ間すら、与えてくれない。紙一重で避けるのが精一杯だった。


(これじゃ、先に私の体力が尽きる)


 昨日の後遺症に、今日の乱闘。膝ががくがく震えて、今にも倒れそうだ。


「ごめん! 叔母さん。俺が弱いから、叔母さんばかりこんな目に遭わせて……」

「お前のせいじゃない、英清。これは、私の問題なんだ」


 多分、相手が英清でなければ、紅珠は誰かのせいにしていたかもしれない。

 けれど、純粋で真っ直ぐの甥っ子に、自分の弱いところを見せたくなかった。


「朔 紅珠!」


 ――と、いきなり、姓名で叫ばれた。声の主は、英清の傍らにいた謎の美人のようだ。


(一体、あの人は誰なんだ?) 


 しかし、凛と脳裏に響いた女性の声は紅珠の心を奮い立たせる理由となった。


「暁虎を呼びなさい!」


 どうして、彼女が暁虎のことを知っているのか? 

 だが、そんな細かいことを質問している暇はない。


「……実は先ほどから、暁虎は私の声に反応してくれないんだ」


 女性は目頭を押さえて、吐息を一つもらした。


「その理由は簡単です。ここに私がいるからでしょう。いい加減にしなさい。暁虎! さっさと姿を現すのです!」


 そして、女性は突如として、何もない空間に向かって怒鳴った。


「暁虎を上手に使えば、そんな三流道士、怖くはありません。さあ、もう一度呼ぶのです!」

「…………えっ?」

「お前は、一体何者なんだ!?」


 芳全が目を剥く。

 その女が何者なのか、皆目見当もつかなかったが、ともかく紅珠は声を張り上げた。


「頼む。きてくれ。暁虎」

「……暁虎!」


 英清も声を揃えた。

 実際、誰の求めに応じたのかは分からなかったものの、暁虎は現われた。

 ――しかも、暁虎は、紅珠の体内に憑依する形で登場したのだった。


「これが……!?」


 宋林が言っていた。暁虎の正しい使い方なのか?

 力が迸り、体が空気のように軽くなった。

 紅珠の体全体が赤く発光している。

 隆貴が繰り出してくる刃が、まったく怖くなかった。


  (神獣の力……?)


 十年前、白涼帝はこの状態で紅珠と戦ったのだ。

 圧倒的だった。

 人が小動物のようにしか見えなかった。

 軽く殴っただけで殺してしまいそうなほど、脆い人形のようにしか感じられない。


「だっ、駄目だ。暁虎!」


 気を抜くと、暁虎の好戦的な力に引き摺られてしまう。隆貴を殺しかねない。


(そうか……)


 昔の白涼帝も、紅珠と同じ気持ちだったのかもしれない。

 暁虎を静止する方法が分からなかったのだ。

 だから、紅珠の肩に傷跡を残した。

 隆貴はすり傷を作りながらも、立ち向かってくる。

 直撃を避けているのは、さすがだった。

 体を弱らせ、それでも力一杯迫ってくる隆貴を目前にして、こんな戦い方は良くない。


「――暁虎……もういい。十分だ」


 紅珠は、暁虎を遠ざけた。


「あとは私がやる!」

「叔母さん」

「……貴方は、それでいいの?」

「ああ。いいんだ」


 紅珠は、隆貴の動きに集中した。

 数日前、いかさまで勝った試合の続きをしている。


 ――負けたくなかった。


 何か一つだけでいい。


 ………………自信が欲しかった。


 そのためには、自分の力で勝たなければならない。

 そうしないと、すべてが始まらない。

 隆貴が軽く飛び上がった。間合いをぎりぎりまで詰めてから、紅珠は剣を放り捨て、渾身の力で拳を振り上げた。


 ――……そして。

 数瞬、記憶が飛んだ。


 気がつくと、仰向けになって倒れている隆貴の姿があった。

 上手い具合に、芳全特製の札も取れている。どうやら、自分は勝ったらしい。

 英清が何か言っている。

 なんだか、よく分からないけど、きっと良いことだ。 


「…………はあ」


 紅珠は地面に崩れていた。

 英清がまだ何か言っている。いい加減しつこいくらいだった。


「何だ、英清。もう少しだけ、このままで……」

「早く逃げて! 叔母さん!!」

「…………はっ」


(何だ。それ……)


 英清の視線をたどって、紅珠は顔を上げると、濃い顔があった。


「――芳全?」

「やはり、貴方を使ったほうが良さそうだな」


 いきなり、上から読めない文字で書かれた符が降ってきた。

 避けようとしたが、無理だった。

 符は意志を持っているかのように、紅珠のうなじに張り付いた。

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