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仙遊伝  作者: 森戸玲有
三章
20/36

――そうして……。

 

 興公・ばん 秦紹しんしょうの屋敷の門前で、紅珠は奥歯を噛み締めていた。

 先の見えない大きな門が紅珠を飲み込むように口を開けて待っているようだ。

 芳全と、数人の下っ端役人が屋敷の中に一足早く入り、興公に報告に走り、紅珠達は、しばらく待たされることとなった。


 太陽は中天にある。

 眩しい日差しの中、紅珠と恵祝はぽつんと立っているだけだ。

 今なら、後ろを向いて去ってしまうこともできる。

 帰れたら、どんなに良いか。


(私は馬鹿だ)


 敢えて認めよう。

 甥の前で見栄など切るから、こんなことになってしまったのだ。


 ――あんたの望んでいる仙人はこの屋敷にいない。親戚の私が義兄を迎えに行く。


 紅珠は芳全の前でそんなふうに威勢よく啖呵を切ったものの、内心、少し計算もあった。

 紅珠が来ることを、芳全が受け入れないかもしれないと、考えていたのだ。

 彼、ひいては興公は、宋林をご所望なのだから、事と次第によっては紅珠の訪問を突っぱねてくるのかと……。


(そうだったら、いいのかも)


 だいたい、この完全敵陣に乗り込むに当たって、紅珠の傍らには恵祝しかいないという現状なのだ。


 この人選は、おおいなる失敗だ。


 恵祝は馬車に乗せたときから、血走った目で四方を睥睨し、そわそわと落ち着かない。明らかに挙動不審だった。紅珠の役に立つどころか、老人は怪しさに満ち溢れていた。


「――ああああっ。どうしましょう」


 髭に引き続き、舌でも失ったのかと思うほど、奇怪な雄叫びだった。

 至近距離に壊れたじいさんがいる。紅珠の心は、氷のように冴え冴えとしていた。


「恵祝。怯えないでくれ。私だって、本当は泣いて逃げ出したいんだぞ」


 もはや、紅珠はこの老人相手に、敬語を使うのはやめていた。


「……あの男なんですよ」

「は?」

「あの道士なんです。私はあの道士に英清様が奉界山にいるとお伝えしたんです。興公の奥方の……莉春りしゅん様が自分に連絡するときは、この男を使って欲しいとおっしゃっていたので。うまく旦那様から、うちの奥様と英清様を引き離して下さるという話だったんですよ」

「それで、あんたが連絡した後、石 芳全は何を喋ったんだ?」

「すぐに英清様の拉致には失敗したと、連絡がきました。旦那様に黙っていて欲しければ、宋林殿を拉致してこいと言われて」

「脅迫じゃないか。それ?」

「……怖かったんです。本当に」

「何でもっと早く話さなかったんだ」

「相手は得体の知れない道士ですよ。いきなり鳥を使って話しかけてきたりするんです。あんな化け物に対抗できる人間が我が家にいるんですか」


 鳥を使って話してくるなんて、かなり本格的だ。

 以前だったら、恵祝は正気を失っていると判断して、さっさと流しているところだが、暁虎を視認してしまっている紅珠としては、真面目に取り合わなければならない問題だった。


(興公も宋林に対抗して、道士を雇っているってわけか……)


 ――宋林はこの男と戦えるだろうか……。


 そんなことを考えている自分自身に思わず、苦笑が漏れた。

 木から吊るされて、喜んでいるような仙人だ。見るからに、非力そうだ。


(どうして、そんな仙人を興公も宰相も重く見ているんだろう?)


 それが皆目分からない。今回の件だって、紅珠は宋林のとばっちりを受けたようなものではないか。


「――私は、あの道士に殺されます」


 恵祝が紅珠の袖を引っ張る。


「……かもな」


 正直に答えてやると、青筋を立てて恵祝が呻いた。


「他人事だと思っていますね。紅珠さん」

「由々しき問題とは思っているよ。私だって、もれなくあんたと心中だ」


 そもそも紅珠は恵祝のせいで死にそうな目に遭ったのだ。

 なぜ、同情しなければならないのか。

 危険なのは紅珠とて同じなのに。


「でも、別に、あのまま屋敷にいたところで、内乱になったら、ついでに殺されてしまうかもしれないんだ。ここで殺されようが、義兄上の屋敷で殺されそうが、いっそ同じじような気もしないでもないな」

「ひー! 物騒なことを言わないで下さい!」


 じゃあ、何と言えばいいのか。


 ――内乱は起きないだろう。


 紅珠にはそれが分かっている。起きるはずがないのだ。

 宰相は、計画的に捕らわれた。

 その理由で思い当たることは一つしかない。


(都を戦場にするのを避けたかった……)


 ……とすると、紫英の邸宅に集結した男達の大義名分は成立しないことになる。

 要は、彼らを押さえる自信がないからこそ、宰相は身を隠し、紫英も逃げたのだ。

 何度思い出しても、噴飯ものの話だ。だから、紅珠は、腹いせに恵祝を苛めてしまうのだ。


(やっぱり、帰れないかな?)


 なかば本気で、考え始めたとき、爽やかに芳全が帰ってきた。

 紅珠は恵祝が最期の命を燃やさんばかりに、袖を引っ張ってくるので逃げることはおろか、動くこともできない。

 どうやら、帰る機会を完全に逃してしまったことに、紅珠は気がついた。

 ただ紫英を取り戻しに来ただけなのに、興公が時間を割いて会ってくれるようだ。


(いよいよ、危ない橋だな)


 しかも、案内役は芳全らしい。

 恵祝は萎縮して叱られた子供のように、紅珠の背中にくっついていた。


「……なあ。石 芳全殿。あんたさ」


 紅珠は、思いきって芳全に話しかけた。


「何で、興公にお仕えしているんだ?」


 見た目は、紅珠より年下っぽいのでつい口調がぞんざいになってしまう。


「それはどういう意味でしょう?」


 芳全は涼やかな歩みを止めずに振り返った。すかさず恵祝が紅珠の背中に隠れる。


「道士とか仙人は、山にいて修行に励むものだろう?」

「下界にもいますよ」


 確かに、今まさに紅珠のすぐ傍に奇怪なのが一人いる。


「いるけれど……。大抵は変な薬を売りつけてきたり、おかしな宗教の勧誘だったりするじゃないか。あんたは何か本物っぽい感じがしたからな。わざわざ興公のような権力者に仕えている意味が分からないんだ」


 さすがに、怯えている当人の前で、あんた鳥使って話せるんだな……とは言い辛い。


「私は長く公に仕えているわけではないのです。たまたま都に人を捜しに来ていた時に、興公にお会いして、時機が良く、興公も道士を雇いたいと思っていたようだったので、そのまま契約を交わし、お仕えすることになったのです」

「へえ。人捜しね」


 こうやって、話してみると、最初の印象とは違い、なかなかの好青年だ。

 話の根幹をはぐらかそうとする紫英とか、はなっから話にならない宋林などと比べればちゃんと答えるべきところは答えてくれている。

 人としての会話が成立していることに淡い感動があった。

 ちょっと、鳥を使って会話してくるからって、恵祝は怯えすぎではないのか。 


「それで、その人は、見つかったのか……?」

「見つかったといえば、そうなんですが、私のような人間を、まともに思ってくれているわけではなかったみたいで。でも、どうしても、私は諦めきれないんです」

「……辛い思いをしているんだな。あんた」


 仙人の世界は知らないが、道士は妻帯しても良いことになっている。

 夫婦で不老長生に挑戦している者もいるのだから、芳全が恋することは問題ではない。

 だけど、素直に話ができるのは有難いが、誰もここまで重い話を暴露しろとは言っていない。


「実は、ここの契約が丁度今日で切れるんです。ここを辞めて、私はその人を追いかけようと思っています」

「……まあ、嫌われすぎないように注意をすれば、突っ走るのも悪くないとは思うよ」


 興公のもとから去ってくれるのなら、咎める言葉もない。

 特に彼のような強そうな道士なら、辞めてくれと懇願したいところだ。


「ありがとうございます」


 はにかみながら、微笑する姿は若々しい。宋林が彼と面識がないと言い張ったのは当然に感じられた。

 こんな好青年とあの変人仙人の接点なんてあるはずがない。

 暫く、芳全と他愛無い話をしつつ歩いていると、建物は見えないものの、水のせせらぎが聞こえてきた。馬車も入って来られないだろう、細い道を芳全の軽やかな足取りを頼りについていく。

 ――と、若葉の緑がそのまま水面の色となっている澄んだ池が視界に飛びこんできた。

 大抵の貴族の家には、溜池があるものだが、興公の住まいは、池の領分を越えて、湖のようになっていた。


「すさまじいな……」


 正直な感想を漏らしてしまってから、急いで口を手で覆った。芳全は相変わらず鋭い目を細めて、懸命に愛想を作っている。


「最初来た時、私もそう思いました」


 芳全が差し出してきた手をやんわりと断って、石造りの橋を渡り、涼やかな柳の木々の間を抜けると、豪奢な阿舎あずまやが見えてきた。

 ――更に、そのついでに、癇に障る声も紅珠の耳に届くようになった。

 紫英だ。

 誰か女性と、談笑しているようだった。

 人の苦労を知らず、のうのうと笑っていやがる。

 自動的に、紅珠の足は速くなっていく。追いつけない恵祝を案内役の男に託した紅珠は、芳全を威嚇して、早く歩かせた。

 まずは紫英が生きていたことに感謝しなければいけない。

 いや、でも、やはり割り切れなかった。


 ――とりあえず、池に沈めて帰ろうか?


(ああ、でも、程ほどにしないと。ああ見えても、戸籍上は英清の父なんだ)


 大きな柳の下に涼を求めるよう築かれた阿舎は、御殿吏時代に務めていた後宮のものより豪華に感じられた。

 よく見ると四本の柱にそれぞれ龍、虎、鳥、亀が精巧に彫られて彩色されていた。

 まるで、書画に見る仙界のようだ。しかし、そこにいるのは、神でも聖人でもない変人。 


「義兄上……」


 紫英は話に夢中で、紅珠の声にも気付いていない。

 背後に回ると、髪をきちんと布で覆って束ねているので、うなじがはっきり見えた。

 意外に細い首を、そのまま絞めてやろうかと真剣に思ったら、いきなり、くるりと顔が紅珠に向いたのだった。

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