二
「紅珠様!」
短い間に知り合いとなった女中が廊下をかけて、こちらにやって来る。
なぜか、女中からは「様」をつけられている紅珠だったが、今はやめて欲しいと止めている暇はなかった。英清と隆貴が紅珠の隣を大股で歩く。
「あの、使者の方が紅珠様を指名されていて……」
「使者? 誰のだ……?」
「…………興公です」
女中の言葉に、その場の全員が絶句した。
「さすがに、俺が行くのはまずいな?」
「隆貴殿が出たら争いになりかねない。出来れば、ここにいる連中にも覗き見を避けて欲しい」
相手が何者か分からない以上、本来、この家にいてはいけない人々には、隠れてもらう必要があった。
そうでないと、下手な火の粉を浴びかねない。
「分かった。他の連中にも伝えておこう」
隆貴は素直に従い、紅珠とは逆方向に走り出した。
英清に引きずられるように、玄関の前まで行くと、人気がまったくなかった。
下働きの者にも、興公との対立は知れ渡っている。
誰も寄り付きたくなかったのだろう。
「私は興公の使いで参りました石 芳全と申します。突然の来訪をお許し下さいませ」
大門から入ってすぐの格子造りの玄関の前で、小柄な男が拱手していた。
(もしや、囲まれている?)
一瞬、篭城戦を覚悟するべきかと、身構えた紅珠だったが、芳全と名乗る単身痩躯の男と、もう一人の従者以外、人の気配がしないことをすぐに察知した。
(……芳全。こいつ、道士か?)
その格好は道抱の色こそ黒と白とで違うものの、宋林とほぼ同じ格好だった。
「私をご指名とお伺いしましたが?」
「ああ。貴方が紅珠殿でいらっしゃいますか?」
道士の間で流行っている黒の組紐で作られた頭巾を気にしながら、顔を上げた芳全は、口の端を歪めた。
隙のある感じを醸し出そうとしているようだが、瞳が爛々としている。
「貴方のことを聞いて、私は是非お会いしたいと思っていたのです。齢三十を越えて、女らしさから脱皮し、益々勇ましくなられているとのこと。素晴らしい御方だと思っておりました」
「はい?」
紅珠の背中に鳥肌が立った。
「その痛々しい風評は、一体、誰からの言葉なのでしょうか?」
おそるおそる、一歩踏み出す。
芳全は、格好に気を配っているようだが、武器らしいものは持っていないので、多分大丈夫だろう。
「もちろん。貴方の義兄君でございます」
「あー…………義兄上……ですか?」
玄関の格子から様子を見ている英清が、ずっこけたのが分かった。
「確認したいのですが、義兄というと、私には髙 紫英しか思い浮かばないのですが?」
「ええ。紫英殿です。数日前から興公様のお屋敷にいらっしゃておりましてね」
ここ数日で、紅珠は一気に老け込んだような気がしていた。
(よりによって、どうして敵地のど真ん中に……)
「それで? 義兄は生きているのですか?」
「何を物騒な。当然です。ぴんぴんしています」
どうやら少し感情的になってしまったと、紅珠は自省をして駆け引きに入る。
「申し訳ない。肝心の義兄の姿が見当たらないので、言葉が過激になってしまいました」
「いえ。私の方こそ、主にはあくまで丁重にお話をするよう命じられていましたのに、申し訳ありません。実は私共も、再三自宅に戻るように、お話しているのですが、なかなか応じて頂けず、困っていたのです」
「応じない?」
敵方に疎んじられているのに、帰らないとは、頭がどうにかしているとしか思えない。
殺されるのを待っているようなものである。
紅珠はすぐ側の柱によろよろと手を伸ばして、寄りかかった。
「義兄がご迷惑をおかけしています」
他に言葉がなかった。
「主は、宝正の紫英殿には陛下の葬礼について、色々と話を聞くことが出来て、有難いと重宝されておいでですが。何分、明後日に陛下の葬礼も迫っていることですし、余裕がありません。お引取り願いたいのです。しかし、今日も酔っていらっしゃって」
そのまま、屋敷内の何処かに埋めて下さいと言うべきか、究極の選択を迫られながら、紅珠は可愛い甥のために言葉を選んだ。
「今すぐ迎えに行きます」
「有難うございます。では、出来ましたら……」
ここにきて、芳全の身にまとう気配が変わった。
穏健な鎧を捨てたかのように鋭さが増す。
「こちらにいる仙人を紫英様の迎えに寄越して欲しいと、主が申しているのですが……。如何でしょうか?」
「…………はっ?」
毎回、飽きもせず紅珠の予想を上回ることが発生するものだ。
屋敷にいる仙人は、一人しか心当たりがない。
(やはり、皆の狙いは宋林なのか? でも、なぜアイツなんだ?)
「心当たりがあるのではないですか?」
念押された紅珠は声にならない呻きを漏らしながら、額を押さえた。
「すぐに呼んでまいります。しばしお待ちを」
答えて、先ほど宋林と別れたばかりの井戸端へと向かう。
宋林は、まだそこに佇んでいた。
好奇心だけは強い仙人にしては、珍しいことだった。
「宋林。ご指名だぞ」
「僕が?」
宋林はきょとんとしていた。
「隆貴殿が言っていたことが、いよいよ現実味を帯びてきたってことじゃないか。興公があんたを狙っているっていう。しかも、迎えの男は道士のようだ。仲間も来て本格的じゃないか?」
「道士……ねえ」
「石 芳全と名乗っていたぞ。心当たりはないのか?」
「さあ、知りませんね。長く生きていると名前を覚えているのは、億劫なので、興味のない人の名前は速攻忘れるようにしているんです。でも、僕が知らないのに、相手が知っているかもしれないっていうのは、薄気味悪いものですね。僕に何させるつもりなんでしょう? 嫌だなあ。仙人なんて基本的に無力な生き物なんですよ」
「友達が空気だからな。でも、長く生きた分、何か必殺技の一つくらいは持っていないのか?」
「人を傷つけたり、殺してしまったら、制裁を食らう仕組みになっているんですよ。政治に介入ししてはいけないって、規則もありましてね。他にも色々と細かったりします」
「仙人の世界も、広いんだな」
「まあ。仙人にも色々といますからね。私利私欲を突き詰めても、仙人になれないことはないんです。人間の肉体を極限にまで高めた状態みたいなものですから。悟りきった聖人だけではない。だから、自然取り締まる側も厳しくなるわけです」
「じゃあ、捕吏みたいのが仙人の世界にもいるっていうのか?」
「直接、仙人を捕えるわけではないのですが。制裁を与える存在はいます。僕は優良仙人なので、いまだに掟を破ったことはないんですけど。掟を破った仙人は、存在ごと消滅させられてしまうでしょうね……。結構、強力です」
言っているわりには、宋林から悲愴感がまったく感じられないが、長く生き続けたせいで、感覚が麻痺しているのかもしれない。
「でも、どの仙人が何処にいるなんて、分からないだろう?」
「『仙籍帳』というのがありましてね。仙人になるとそれに登録されるんです。自力で仙人になる人より、師について仙人になる人の方が多いので、登録方法は師匠から弟子に伝授されます」
「へえ……。それはそれで、窮屈な社会だな……」
それでも、興公の屋敷は危地だ。
紫英を見捨てないためには、殺しても死なそうな宋林を放つのが一番良いのだが……。
無理やり宋林を、放り込むべきか?
しかし、宋林を何に使おうとしているのか分からない状態で、相手の思惑にはまってしまうのも、恐ろしいことだろう。
「それは、僕じゃなきゃ駄目なんですかね?」
「できたらって言ってたから、別にいいんじゃないか」
問われて、つい正直に答えてしまった。即座に後悔したが、もう遅い。
「じゃあ、隆貴殿に行ってもらいましょうよ」
名案とばかりに、瞳を輝かせている宋林に、けれども隆貴が鋭く突っ込んだ。
「俺は衛射だぞ。興公には顔も知れているんだ。行けば、紫英殿も俺も二人で死ぬのがオチだ」
「……では、俺が行ってやろう。体が鈍っていたところだったんだ」
突然、離れの奥から大男が現れ、威勢よく剣を振り回した。
「いや、俺だ。興公と刺し違えて、ついでに紫英も救ってやろうじゃないか」
「いいや。絶対、俺だ。紫英め。手柄を独り占めするつもりだったとはな……」
皆、言いたい放題で、腹黒さ満載である。
(戦争に行くんじゃないんだから……。こいつらじゃ駄目だな)
やっぱり、腹を括るしかないようだ。
ここにいる男達よりは、紅珠の方が強いと自負している。
それに、身内を迎えに行くというのは、当然のことで、怪しい人選でもない。
「分かった。分かったよ。行く。私が行けばいいんだろう」
「…………へ?」
男たちが全員唖然となった。宗林が小首を傾げる。
「あの……。紅珠さん、本気で言っているんですか?」
「とんだ、とばっちりだけどな。でも、義兄上の問題でもあるし、仕方ないだろう」
「叔母さん……」
英清が寂しいというより、悔しそうな顔で、紅珠を見上げていた。
「本当は、俺が行くべきなんだ。だって、あれでも俺の親父なんだから」
「何言ってるんだ。お前はここにいるのが仕事だろ。下手に捕まったら、それこそお前の人生もみんなの人生も変わってしまうんだ」
「……ごめんなさい」
やけに素直に英清が謝ってくるので、そっと頭を撫でてやった。
「絶対に、全部終わったら、お前の親父から、金をせしめて税金払うからな。それに、英清。安心しろ。…………麗華姉さんは生きているみたいだぞ」
「えっ。本当に?」
「ああ、隆貴殿から情報をもらった」
大輪の花が開いたかのように、明るく微笑みが返ってきて、紅珠の方が照れてしまった。
慌てて踵を返す。その袖を宗林が掴んでいた。
「……で。紅珠さん。そのような感動的な話に仕立てて、僕も同行させようという魂胆ですね?」
「いや。あんたは置いていくよ。恵祝を連れて行く」
「…………ちょっと待って下さい。いきなり、年上好きになったんですか?」
「あんたの発想はそればかりだな。ただ単に、恵祝は興公と繋がりがあるって聞いたからだよ」
「しかし」
「気にするな。あんたには、仙人の世界ってのがあるんだろう。元々戦力に数えてないんだ。私はあっちの思惑に、乗りたくない。ただそれだけだ。英清を護る手も必要だしな?」
紅珠は、玄関の方に歩き始めていた。
「一言、怖いから傍にいてって、猫撫で声でねだってくれたら、可愛いんですけどね?」
「気色の悪いことを言うな」
「好きですよ。紅珠さん」
「……はあっ?」
「貴方のその無駄に男前で貧乏くじをひくところが、とっても素敵です」
紅珠は、宋林の居場所まで戻ると、縄できつく縛り上げた上で、木に吊るしあげた。
(目でも回してろ……)
後ろは見なかったが、微妙な歓声があがっている。
宋林は、意外に逆さ吊りが好きなようだった。




