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仙遊伝  作者: 森戸玲有
二章
11/36

 紫英の邸宅にたどり着いた紅珠は、手際よく侍女に風呂に入れられ、女物の動きにくい衣服を用意されて、食事に引っ張り出された。


 今日一日、非現実的な展開に振り回されてきたが、最後に出くわした現実も、紅珠の想像をはるかに超

 える夢の世界だったらしい。


 紅珠は余りに支度が遅いために、部屋に呼びに来た紫英の隣を、何度も目を擦りながら歩くばかりだった。


「…………義兄様。麗華姉さんって人は、後宮が解体され、私が実家に帰ろうと言っても、都に残ると頑なに言い張って、結局、貴方と結婚したんですよ」

「えっ、ああ。そうだったの。麗華は変なところで頑固だからね。でも、昔から私には淡泊だったかな。だから、結婚がすんなり決まって良かったと今も思うんだ。もしも、あともう少し長引いていたら、麗華のことだ。痺れを切らして、破談にもっていったかもしれないからね」


 すんなり……と言うほど、簡単な婚姻でもなかったが、当時、大きな障害に発展するほどのものでなかったのは事実である。


 紫英は宝正ほうせいと呼ばれている帝室の儀礼担当官の下の下。宝正春儀官ほうせいしゅんぎかんの地位にいた。


 紅珠もよくは知らないが、帝室の春の行事を取り仕切るのが主な仕事らしい。

 儀礼が多いのであれば、準備期間も必要で、一年を通して、いろいろと忙しいだろうが、無駄を省く白涼帝がそんなことに手間や金をかけるわけもない。要するに閑職なのだろうと、当時の紅珠も家族も思っていたし、世間一般の考え方もそうだった。


 髙家は、そんな役職を何代にも渡って務めてきた家だった。


 一方、紅珠の家は酒の卸し売りをしている。贅沢を好む先代の皇帝が湯水のように高価な酒に金をかけてくれたので、白涼帝の御世になっても、最初の数年は、それなりの蓄財があった。勿論、家格でいえば、紫英の方が上だろうが、後宮で女官を勤めた豪商の娘というのは、聞こえが良い。


 ……だけど。


「今だったら、姉さんは貴方と結婚なんて出来なかったでしょうね……」


 紅珠が昔話を引っ張り出してきた理由は、それだった。

 屋敷が広大になっていた。

 紅珠の記憶によれば、下働きの者の部屋も含めて、五部屋程度の平屋だった印象だが、見事に部屋数は増えていた。奥の間から廊下を繋げて、増築したらしい。

 しかも、離れは二階建てのようだった。庶民が階段のある家に住むのは難しいものだ。紅珠の実家も羽振りが良い時代の頃でさえ、平屋のままだった。


(まさか、こんなことになっていたとは……)


 たまに、姉の所に遊びに出かけた両親から、麗華の家が綺麗になったという話は耳にしていたが、ここまで大きくなったとは聞いていなかった。


「まあ、私もそれなりに出世してね。今は宝正をやっているんだ」

「宝正?」


 ……破格の大出世だ。

 この親馬鹿全開の背だけひょろりと高い優男が帝室の儀式全般を仕切っているということではないか……。


「では、今は皇帝陛下の葬礼の準備で忙しいんじゃ……?」

「いや、宝正の役所自体が葬礼には関わらないんだよ。助言はするけどね。私達が関与するのは、皇位継承の儀だろうな。やはり、皇帝陛下とはいえ、死は穢れだから、その儀礼に携わることで、次の皇帝の世が儚くなってはいけないという配慮らしいよ。葬礼の指示を出すのは、陛下の血筋か、親戚筋の権力者だよ。通常なら、帝のお妃様でいらっしゃる青后なんだけどね」

「知りませんでした」


 科挙を受け続けているわりには、役人の仕事内容に疎い紅珠だ。


「居間に急ごう。さっさと夕膳を下げてしまいたいんだって」


 紫英は、紅珠の身形を整えさせてから、中庭に面した通路を右に曲がって突き当たりの部屋に案内した。

 墨で鵬が描かれた風情のある屏風の横を、痛みだした腰を叩きながら歩いて行く。

 紅珠も屋敷で一番広い居間には、通されたことがあったが、その時とは違っていた。板の間が修復され、新しくなっている。雑炊と汁物だけの質素な膳だったが、人数分は支度されており、柔らかそうな敷物まで用意されていた。

 端には、正座をしてしおらしくしている恵祝と、二人の家臣がいた。

 そして、無防備に寝転んでいる宋林がいた。腹の上には暁虎がいて、がりがりと上衣を引っかいている。


「おや。紅珠さん。遅いから寝てしまいましたよ。でも、僕との夜のために着替えてくれたんですね。ありがとうございます」

「あのな。これはただ、侍女に着せられただけのものだ。そもそも、何であんたはまだここにいるんだ。大好きな山には帰らないのか?」


 紅珠が呆れて問うと、宗林は紅珠に聞こえるか否かの小声で答えた。


「貴方への愛のためもありますが、英清君の暁虎は、元々僕のものですからね。涼ぴょんが死んだら返してもらおうと思ったんです。その為に、涼ぴょんが死ぬ前から、麗華さんの所で準備万端待機していたのに、まさか彼女が失踪しちゃうなんてね、本当困ってしまいますよね」

「とても、困っているようには、見えないけどな。もう、いっそのこと英清にやったらどうだ?どうせあんたは、その猫に嫌われているんだからさ……」

「ええっ。でも、こんな生意気な猫だって、呼ぶのは大変だったんですよ」

「仙人だろう。悟り開いたんだろう。懐が広くなくてどうする」

「でも、僕は悟りきっていないですしね。明日にでも結婚する予定がありますし」

「誰と誰とがだ?」


 先ほどからの苛々が膨れ上がって、宋林を軽く蹴ると、暁虎は軽やかにその場から離れ、宋林はうまい具合にころころと床を転がった。


「それで……?」


 早々に食事をかきこんだ英清が早速口火を切った。


「この爺さん、どうするの?」

「うーんと、どうしようかねえ……」


 紫英は、その場にいた家臣を退出させ人払いしてから、ゆるゆると腕を組んだ。


「麗華の居場所は知らないっていうしなあ……」

「でもさ。この人はこの家のために動いたんだろ? 俺、変な奴らが襲われて、死にそうになったけど、でも、俺が父様の子供じゃないっていうのなら、仕方ないことなんじゃないのか?」

「英清様……」


 恵祝が目を見張る。紅珠も驚愕した。

 この中で、一番大人なのが八歳の子供なのである。


「まさか、さっきの宗林の話が聞こえてたのか。英清?」


 紅珠は、声を荒げて尋ねた。


「仙人の手が緩かった」

「……だと? 腐れ仙人が!」 


 紅珠は理性を壊して、宋林の頭を両手でぐりぐりと締め付けた。

 英清の肩に手を置いた紫英が、芝居がかった言い回しで声を張り上げた。


「おおっ! 知ってしまったのか。英清よ! 父様もいまだに信じられん! お前と血の繋がりがないんて、あんまりだ。ちくしょー!」 

「ああ、もう、本当、皆して、うるさいなあ」


 英清は、憐れみの視線を周囲に送る。


「別に。俺はいいんだ。むしろ、父様と血が繋がっていないほうが嬉し……い」

「まだ八歳だというのに、強がっているのか。そんなことまだ覚えなくていいんだよ! 遠慮はいらない。泣いてしまえばいい。私たちは親子じゃないか!」

「うぐっ」


 紫英が涙を流しながら、英清にのしかかった。痩身だが、大人の体だ。重いはずだ。


「……く、苦しい」

「そうか。そうか。苦しいか。分かった、分かった」

「いや。義兄上。そうじゃなくて」


 見るに見かねて、紅珠が間に入ろうとした瞬間、英清が激しく紫英の腕を振り払った。


「悪いって言うなら、父様だって同罪だろう! 何故俺が母様を捜してほしいって言った時、無理だって言ったんだ! そんなに気にしているなら、自力で捜せばよかっただろ!」

「…………英清。お前は」


 紫英が一変して、厳しい顔つきとなった。


「そうだね。その通りだ。でも、父様も無闇に動けない事情がある。……恵祝」

「はっ」


 急に呼びつけられた恵祝が深く頭を下げた。


「お前は誰から、麗華と英清のことを聞いた?」

「それは……」

「言いにくいようだね。じゃあ、私から聞こう。大司徒だいしとの奥方、莉春様からではないかな?」

「大司徒……」


 皇帝の次の地位、「宰相さいしょう」に次ぐ地位だ。皇帝はともかくとして、実質、耀国を動かしているのは、大司徒と宰相の二人といっても過言ではない。


「確か、大司徒は……」

はん 秦正しんしょう


 紫英が言ってから、自身の口を塞いだ。

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