二
「叔母さん……」
続いて気づいた英清が、紅珠の袖を引っ張った。
「あいつ……。ついさっきまでいたのに。何処に行ったんだ?」
捜す意欲は一瞬で尽きていたが、それでも紅珠はあえて暗がりに向かって走った。
そして、大通りから一本隔てた裏通りで、あっけないほどすぐに彼らを発見したのだった。
恵祝と共犯者らしい男がいる。
そして、両手両足を縛られている宋林が地面に転がされていた。
「紅珠殿? どうしてここに?」
明らかに狼狽している恵祝に、紅珠は口元を緩めた。予想通りの反応である。
「宋林、大丈夫か?」
「紅珠さん!」
「……と一応、社交辞令で訊いてみたけど、まあ、どうでもいいか」
「酷いなあ」
宋林が縛られたままの格好で立ち上がった。
「僕、大変な目に遭ってたんですよ。呼び出されて、いきなり自慢の手足をこんなふうに、きつく縛られて……」
「……自慢の手足が意味不明だが、まあいい。恵祝殿、私は貴方に聞きたいことがあって、ここに来たんだ」
「わ、私は疾しいことは何も。この仙人に奥方様の居場所を吐かせようと思っただけのこと」
「残念ながら、その仙人は姉さんの居場所なんて知りませんよ」
「はっ?」
これ見よがしに紅珠は溜息を零した。
「恵祝殿。私たちは、つい先ほど、奉海山で得体の知れない連中に襲われたんです」
「それは本当ですか? 大変な目に遭われましたな」
「ええ。そりゃあ、もう大変でした。見ての通り、身も心もぼろぼろ、命からがらに逃げてきたんです。そこの仙人は、どうして今日に限ってあの庵に大軍が来たのかと首を捻っていました。私は思ったんです。誰かが彼らに英清の居場所を密告したのではないか……と?」
「だ、誰でしょう。それは?」
「貴方でしょう?」
「馬鹿な。おかしなことを……」
「……それでも、この間抜けな仙人は、避難先を義兄上の屋敷にしなかった。私にはそれが今の今まで謎でした。危険がないのなら、英清も仙人も義兄上の家にいたって良かったはずです」
「さすが、紅珠さん。僕を信じてくれたのですね。愛の力は素晴らしい」
「愛の力って何のことだ。宋林」
紅珠は、恵祝が腰に差していた短剣を抜くと、即座に宋林に向かって剣を向けた。
「えっ、嘘? その程度、からかっただけで、僕、斬られるんですか? ちょっと、待っ……!」
宋林が縛られた両手を頭上に掲げる。――が。
「あ、あれ?」
紅珠が振り上げた短剣は、縄を切り捨てるだけで、宋林の体の一切を傷つけなかった。
「いい加減、あんたの見解を言ったら、どうだ? 一応、人間以上に生きてはいるんだろう?」
紅珠が不機嫌に言い放つと、姿勢を正した宋林が一息ついて、真面目な面持ちとなった。
「何だ。脅しだったんですか? ちょっと、狼狽しちゃったじゃないですか」
「そうか。それは心の運動になって良かったな」
「運動は嫌いなんですが……。まあ、いいですよ。僕の見解は簡単明瞭ですから。……紅珠さんとまったく同じということです。恵祝殿」
「馬鹿な。その密告者が、私だという証拠なんて何もないでしょうが?」
「しかし、恵祝」
紅珠の肩越しに、のそっと顔を出したのは紫英だった。
「お前は、ちょっと挙動不審すぎるんじゃないか?」
「旦那様!?」
「大体、道士様を捕えるなら、こんな路地裏じゃなくても、私の面前で遠慮なくやってくれれば良いじゃないか」
「このような騒動を、旦那様にお見せするわけにもいかないと思い……」
「私は大歓迎だ。面白いことは率先して見るし、聞くし、出来れば参加もしたい。奥に、粗末な馬車が止まっていたと、今報告があった。あの馬車に宋林殿を乗せて、そこに倒れている男が御者をする。そんなところだろうか?」
「ですが、旦那様」
「何をそんなに恐れているんだ? 恵祝」
「恵祝殿。私は貴方に逆に聞きたい。姉さんは今何処にいるのですか?」
「……わ、分かりません。私は何も知らないのです。旦那様。貴方は、もしや、最初から全部分かっていらっしゃって、そのような……」
「全部?」
恵祝は混乱の極みに達していた。
紅珠の存在よりも、紫英に疑いの目を向けられたことが大きかったのだろう。
「確かに、私は旦那様に嘘をお伝えしました。しかし、それは、長年お仕えしてきた髙家のためを思ったからです」
窪んだ目蓋から覗く恵祝の瞳は、紫英の後ろに隠れて立っている英清へと向かっていた。
「その子を、髙家の跡取りにするわけにはいきません。再三申し上げている通り、今からでも遅くありません。あの女と離縁をして、その子供とも縁を切るべきです」
「嫌だよ」
一蹴だった。
そして、紫英は速やかに他の従者を遠ざけた。
やはり、国家規模の機密だ。
口にされたら、とんでもないのだろう。
恵祝は、忌々しげに強く拳を握りしめていた。
「どうして。旦那様は人が好いのです? 貴方が一番よくご存知でしょう。その子供は……」
「なるほど! 英清君が紫英さんの子供じゃないから、貴方は離婚させたかったのですね」
いつの間に移動したのか、宋林は英清の耳を塞いだ上で叫んだ。この変人にも、人並みの良心はあるらしい。紫英は否定するどころか、宋林の意見に大きく頷いた。
「そっか。言われてみれば、その手があったな!」
――自然離婚という。
男性が女性に離縁を言い渡すことは出来ても、女性から別れることが出来ないのが耀国の現状だ。しかし、この法律の抜け道として、施行された法律がある。
――十二ヶ月以上、共に生活をしていない男女は夫婦関係を解消したものと見なす。
夫婦の別居を第三者が見届け、役所に離婚を申請すると離婚が成立する仕組みだ。当初、戦争で未亡人になってしまった女性が再婚しやすいようにとの配慮だったらしいが、今では、弱い夫が恐妻と離婚するために、この方法を使うことも間々あるようだ。
「だから、恵祝殿は朔家に手紙を書いてきたのか。失踪の事実を認知させるために」
「私はただ奥様が離婚をしたがっていると、見せかけられればそれで良かったのです」
「そのわりには、僕たち本当に死にそうな目に遭いましたけどね」
「あんたが山なんかにいなければ、ここまで走ることもなかっただろうけどな」
「恵祝。お前は利用されただけなんだろ。試しに言ってごらんなさい。誰に吹き込まれたんだ?」
「それは、その……」
恵祝が口を開き切る前に、ぐうっと紫英の腹から大きな音が鳴り響いた。
「……あーー、あのさ」
紫英はばつが悪そうに、頭を掻いた。
「ひとまず、家に戻って、仕切り直さないかい?」




