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仙遊伝  作者: 森戸玲有
一章
1/36

「おかえりなさい! 紅珠こうじゅ


 家に到着した途端、さく 紅珠こうじゅを満面の笑みで出迎えたのは両親だった。

 何がめでたいのか。めでたいはずがなかった。

 紅珠はたった今、科挙かきょに通らなかったことを確認してきたばかりだ。

 てっきり、帰宅早々に家族会議という名の査問会が開かれることだろうと、悲観していたところだ。


「あの、父さん、母さん……。私は今回も科挙が……」

「いいんだ。紅珠。お前のことは父さんがちゃんと全部分かっている」

「精一杯頑張ったんですもの。白涼はくりょう帝も誉めて下さるわ」


 一応、紅珠が科挙に落ちたことを知ってはいるようだが、不可解さは拭えない。

 大体、皇帝は科挙に落ちた人間を誉めてくれない。ただ、一年が無駄になっただけのことだ。


 ちなみに『科挙』とは、紅珠の暮らしている耀よう国が建国以来、身分を問わず実力のある者を官吏に登用するための試験制度である。

 一時期廃止されたものの、現在の皇帝・白涼帝が即位してから再び本格的に導入されるようになった。それに合わせ、賢帝との誉れが高い白涼帝は、それまで男子のみだった官位登用試験を、女性も受験できるように改革したのだ。


 画期的なことだと、当時すぐさまこの制度に飛びついた紅珠だった。

 だが、今年で七年連続の不合格である。ここまでくると、朔家の風物詩のようなものだろう。


「さあさあ。立ち話も疲れるわ。居間にきなさい。紅珠」

「今日の夕飯は、お前が大好きな甘い饅頭だぞ」

「……父さん」


 ――饅頭好きだったのは、五歳までの話なんだけど……とは、上機嫌の父を前に言い出せなかった。

 すべて紅珠のことを分かっていると言うわりには、紅珠の好きな献立も知らない父だ。

 それとも、これは新手の怒り方なのだろうか?


「――全部、私が悪いんです」


 紅珠は観念して謝った。


「何を謝っているんだ。仕方ないじゃないか」

「そうよ。たかだか七年連続で科挙に落ちただけじゃない。元気だしなさい!」


 だが、それも違うらしい。

 これ見よがしの優しい言葉に、むしろ鳥肌が立ってきた。

 今朝までは普通だったはずなのに、一体、彼らに何があったのか?

 助けを求めるように、すでに食卓についている兄と兄嫁に視線を這わせる。

 ――すると。

 普段はそっけない兄が、紅珠を一瞥した途端に、笑顔で親指を立ててきた。


「母さんの言う通りだ。お前が悪いんじゃないさ。科挙の出題者が悪いんだよ。いっそ、出題者をこの世から抹消するべきだよな?」


 末期だ。

 言葉の陰湿さはともかく、こんな爽やかな兄を紅珠は見たことがない。この家には妖術がかけられている。ならば、いっそのこと、紅珠も術にはまってしまいたかった。


「そっか。そうだよな。私、勇気がわいてきた。こんなことでめげてちゃいけないんだ!」

「あら、やっと分かってくれたのね。紅珠」

「いいぞ。さすが私の娘だ。人生長いんだ。そんな日もあるさ」

「紅珠さん、沢山食べて下さいね」


 義姉がにっこりとしながら、大量の饅頭が積み上がっている大皿を運んできた。


「今日は、科挙不合格記念日だ。紅珠の新たな一歩を祝福しようじゃないか」


 不名誉な記念日だが、制定されてしまっては仕方ない。

 兄が杯を傾けた。

 中身は茶だが、そんなことは問題ではない。紅珠は杯の茶を飲み干す。冷めてはいたが、うまかった。


「本当、馬鹿だよな。たかだか七年じゃないか……」


 紅珠は笑った。――笑って、椅子にもたれて、目頭を押さえた。


「ああ、七年……」


(…………一体、私は七年も何をやっていたんだろう)


「そうか、そうか。紅珠は泣くほど家族団らんが嬉しいのか!」


 父が乱暴に紅珠の背中を叩く。嬉しさよりも、その激しさにむせて、紅珠は泣いていた。


「紅珠と食卓を囲めるのも、あと少しと思うとさみしくなるな……」

「……父さん?」


 どうやら、家族が熱血している理由はそれらしい。すぐさま紅珠は顔を上げた。


「どういうことなんだ。私だけ知らされていないことがあるようだけど……?」

「おおっと。いけない、いけない。段取りを踏むはずが、先走って話してしまったな」


 父が、わざとらしく舌を出す。

 色々と突っ込みたいのを、紅珠は何とか我慢して、立ち上がった。

 父と向かい合うと、背が低い父の頭が滑稽なほど目に付いた。数少ない髪が頭皮に張り付いていて、哀れだった。

 老けたな……。素直にそう感じる。 


「父さん、もしかして……」

「言うな。父さんだってお前との別れは辛いんだ」

「…………死んじゃうのか?」


 父は一瞬沈黙の後、笑顔で紅珠を殴ろうとしたが、紅珠はひょいと避けた。


「……お前、お前って奴は、親を殺す気か!?」

「だって、別れがどうとか言っているから、てっきり不治の病かと……」

「ああ、そうだな。間違いなく、お前が原因の病で死ぬんだろうよ。父さんは……」

「心労なんてかけていないだろう。私はちゃんと、居候代と食費は毎月支払っているんだ」

「……でも、紅珠」


 冷ややかに、母が口を挟んだ。


「そろそろ蓄えも尽きるんじゃないの。貴方、私達よりも倍の税金を払ってるんだから」

「それは……」


 ――三十歳以上の独身女性は、税金を倍にする。


 耀国の法律の一つである。即位してから様々な改革を断行している白涼帝だが、その中でもこの法律は、最も斬新なものに違いない。基本的に白涼帝の改革には賛成の紅珠ではあるが、この法律だけは撤回してもらいたかった。

 こんな法律があるから、女性は結婚することが義務のようになってしまうのだ。

 おかげで、紅珠が若い時に貯めた金は、今回の税金を払ったところで底を尽きてしまう。

 まあ、それでも慌てたところで、どうしようもない。紅珠は椅子に座り直し、饅頭を食べた。


「……きっと、どうにかなるだろう。いつもどうにかなってきたんだから」

「甘いな。紅珠」


 饅頭の味のことでないらしい。

 激昂した父が紅珠を指差して怒鳴った。


「結婚もせず、二十代から定職も就かず、家業を適当に手伝う程度。唯一科挙がどうのとか、夢を追っているが、夢だけじゃ飯は食えんのだよ」

「……饅頭は食えている」

「くー。この寄生虫娘がっ!!」


 今年は寄生虫扱いか。

 去年は害虫と言われたが、寄生虫と害虫とでは、まだ寄生虫の方がましではないだろうか。

 顔を真っ赤にして椅子を振るいあげた父を必死に止めながら、兄嫁がこちらへ振り向いて口を開いた。


「だから、結婚。貴方に縁談なんですって。紅珠さん!」

「―――はっ?」 


 意外な人から、仰天の事実を告げられた。

 思わず、食べかけの饅頭を床に落としてしまった紅珠は、目の前が真っ暗になるという経験を初めて味わった。

 衝撃続きの人生だが、今回は過激だった。家族中の視線が紅珠に集まっている。

 ……彼らは本気らしい。


「えーっと。相手は?」

「貴方が、こないだ背負って家まで送ってあげた方よ」

「でも、母さん。私が背負ったのは、隣の家の張さんくらいしかいないけど。……まさか?」


 沈黙は肯定に等しい。だが、ちょっと待って欲しい……。


「張さんは、もう六十過ぎだろう。私とは三十も年が違う。それに、あの人のことは、私、赤ん坊の時から知っているし、亡くなった奥さんとも親しくさせてもらったんだ」

「そうよ。貴方が生まれた時から色々と張さんには、お世話になっているのよ。おしめだって取りかえってもらったし。今度は貴方が取りかえてあげなさいな」


 ……つまり、それは。余命幾ばくもない爺さんの世話係になれということか。

 先日、荷物と一緒に張さんをおぶった記憶が鮮明に蘇った。

 赤ん坊ではなく、弱った亭主をおぶって歩く毎日。実際、おしめを取りかえる日も近いかもしれない。


「良いじゃないか。年の差というのもなあ。父さんと母さんも十歳年が違う」


 何を言っているんだろう。この親父。少ない頭髪を全部抜いてやろうか。

 だが、張さんの髪も父と変わらない量だと思い出すと、何だか無性に悲しくなってきた。


「貴方の魅力を知る数少ない良い人よ。貴方を貰ってもいいって言って下さったんだから」

「それは、正気で? それとも、耄碌……」

「貴方は張さんを貶めたいの?」

「違います。母さん。私だって、張さんが凄く良い人だというのは、認める。認めるけど」 

「とりあえず、結婚さえしておけば、お前だって、まだ子供を生めるかもしれない」


 父の一言は、痛烈だった。

 とりあえず……って。適当に流すことが出来ないから、ここまで独身で来てしまったのだ。

 婿に名乗り出てくれたのは有難いが、今更妥協なんて紅珠にできるはずがない。

 そもそも、生きていることが面倒なのだ。

 結婚なんて苦痛以外の何物でもない。

 一人で生活できるだけの最低限度の金さえあれば、紅珠は一人でも平気なのだ。

 しかし、そんな紅珠の浅はかな考えを見越したように、兄が囁いた。


「……紅珠。頼もしいことに、張さんは金を溜め込んでいるんだ。結婚して数年我慢すれば、お前の理想としている優雅な独居生活を送ることができるんだぞ。ほら。お前だって、このままではいられないって分かっているんだろう? ここは忍耐だ」 

「兄さん……」


 さすがは朔家の血筋、考えていることが分かりやすく打算的だ。

 両親だって、口には出さないが、それを狙っているのかもしれない。かわいそうなのは善良な張さんだ。

 困ったことになってしまった。

 このままでは本当に嫁に出されてしまうかもしれなかったが、孤立無援で、しかも痛いところだらけの紅珠にはきっぱりと断る言葉が思いつかなかった。


 いっそ、天地がひっくり返るほどの何かが起こってくれればいいのに……。


「すいませーん」


 だからこそ、突然の訪問者は、紅珠にとって思いがけない救いの神だった。


「はい、はい、はいっ!」


 手を挙げて、居間から逃げ出す。近道の勝手口を通って、転がるように外に出た。

 入口の前でおろおろしていた半袖の青年は、大きな長筒を背負っていた。飛脚の証だ。

 筒の中に手紙が入っているのだ。 

 紅珠は救いの主である青年に対して、最上級の笑みを送った。


「届けてくれてありがとう。ご苦労さま」


 ――多分、姉からだろう。


 紅珠には、都に姉がいる。

 順当に兄の次に結婚した姉には、息子が一人いて、今年でもう八歳になっているはずだ。

 だが、紅珠はこの甥っ子が生まれたばかりの時に顔を見たきりで、その後は一度も会っていなかった。

 紅珠は封を乱暴に開けて、手紙に目を通した。


 …………まさか、この手紙が真の嵐の前触れだったとは、この時の紅珠は知る由もなかった。


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