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【悪魔を信じて】

作者: 佐藤つかさ

 その町は、ひどく汚れていた。

 暴力があった。腐敗しかなかった。

 ギャングがいた。娼婦がいた。彼らの世界はしわくちゃのおさつだった。

 誰かが死んでいても、誰も気にしなかった。財布と宝石さえなければ、彼らにとって価値なんてないのだから。



 ――サキュバスという悪魔がいた。



 それは天から降ってくるとも、地の底から草木のように生えてくるとも言われているが、そんなことは正直言ってどうでも良かった。

 彼らにとっての興味は、その悪魔が【女】であることと、【羽が生えている】ことの二種類だけ。

 女は何かと金になる。ものめずらしさはなおのこと。


 荒廃したこの町で、サキュバスはなぐさみ者としてあつかわれ、売り物として人と人の間を放牧する。――町という鳥かごの中で。




 ドラッグや拳銃や――そしてサキュバスを売っていくことでのし上がってきたあるマフィア。

 この町を支配しているのは国でも警察でもない。法すら捻じ曲げる暴虐ぼうぎゃくの集団によるものだった。



 この物語は、そのマフィアのボスの人生の一ページである……。

 






 △▼△∵▼△▼



「…………」

 男は困っていた。

 派手な飾りは無いが、上部で高級な素材をふんだんに使った机。周りの調度品も悪趣味ではないものの、これだけで家一軒建てられるくらいの値段はつきそうな代物ばかりである。


 この男こそ、町を牛耳るマフィアのボス。

 みんなから鬼と恐れられ、誰も手を出せないでいる男である。

 だいぶ歳をとっているにもかかわらず全身から若々しさが満ち溢れており、つねに背筋を伸ばしている。


 ――そんな彼が、何を悩んでいるのか?


 麻薬のルート確保か?

 ほかの組織との抗争か?

 あるいは警察との揉め事?


 ……ではなくて。



「ちゃー!」



 当然、ボスの声にあらず。


 それは少女の声。まだ手足も伸びきっていない、幼さの残る女の子だ。

 体のところどころはすすで汚れていて、毛布をかぶっているものの、その下は生まれたままの姿である。


 念のために言っておくが、男に特殊な性癖は無い。

 ましてや、女の子を拉致監禁らちかんきんするような趣味も無い。

 これでも犯罪に手を染めようと、子供に手を出すようなまねは決してしないと誓っている人間だ。


 では、この少女は誰なのか?



 少女は、男を見ると無邪気に笑う。

 

 桃色の唇から見えるその歯は――とがっていた。


 よくよく見てみれば、耳も尖っているし、瞳の色も少し赤っぽい。

 それは人間にあらず。――サキュバスの証だ。



「…………」

 ボスは、眉をしかめて女の子を見つめていた。

 それはマフィアのボスというより、留守番をまかされて赤子の世話に苦悩する旦那のような、なんとも頼りない表情である。


「ん〜」

 少女はぷるぷると首を振って、毛布をはがす。

 中で熱がこもって熱くなったのだろう。


 まるで空に手をかざすように――翼が広がる。


 まるで角のように、まるで象徴のように、一対の翼が男の部屋を満たす。



 これがサキュバスの特徴。

 背中から生えた、奇跡とも冗談とも取れる翼。

 羽ばたけば空を泳ぎ、踊るたびに羽が町を汚していく。まるで餌をついばむカラスのように。


 だけど、少女の翼は――


 とてもとても、白かった。




 △▼△∵▼△▼




「何? この子? さらったの?」


 やかましいわとボスは吐き捨てる。


 

 ボスはむすっとしているが、腕を組んでいる女は面白そうに少女を眺めていた。


 女の名はハツネ。

 三十路を超えているが、今でも人気の娼婦だ。

 赤い髪を揺らして、ハツネは笑う。いっしょに揺れるのは、背中の真っ黒な翼。――それは悪魔の証。


「白い羽なんて珍しいわね」

「驚いてねえな」

 低い声でボスはつぶやく。だからこそ彼女を呼んだのだ。

「まあね。見たことあるもの」

「何なんだこいつは?」

「あたしに言わせてもらえば、あんたが何なんだってハナシなんだけど」

 ハツネをつりあがった瞳を細めてボスをにらむ。

 泣く子も黙る鬼であるボスに対して不遜ふそんな態度だが、ボスは大して気にしていないという態度だ。


「べ……別にいいだろ……」


 ――と言うより、そんなこと気にしてられない様子である。


「何よ。黙ることないでしょ。――何? もしかしてあたしよりこういうのがタイプなの?」

「いや、それは違う!」

「いくら誘っても娼館しょうかんに来ないから、おっかしいなーとは思ってたけど。それは仕方ないなー。お金じゃ若さは買えないもんねー」

「そんなこといってねえだろ!」

「まあ、ボスも歳だし」

「俺はまだ四十代だバカヤロー!」

「充分、子供から肩たたき券もらえる歳じゃない」

「そんなことはない! 断じて!」

「まあ、あたしももうおばさんって歳よね」

「俺はきれいだと思うぞ?」

「……真顔で言わないでよ。冗談のきかない人ねアンタ」

 困ったように顔を赤くして、ボスから眼をそらしてハツネは少女の翼を見やる。


 サキュバスとしては――あまりにも清らかな白い羽。


「……彼女、生まれたてなのよ」


「生まれたて?」


「生まれたばかりのサキュバスはね、みんな羽が白いの」


 ボスはその言葉に疑問を覚える。職業柄たくさんのサキュバスを見てきたが、白い羽なんて見たことがないからだ。


「生まれるとすぐ男たちにもみくちゃにされたり、殺されたりするからでしょうね。サキュバスは汚れたものに触れると黒ずんでいくから」


「そういうもんか……」


「人間だって生きてると汚れてくでしょ? あんた、今心底から信じられる人がいる?」


「生涯、神を信じてるやつはいるぞ」


「それはすがってるだけ。ストーカーと同じで一方的な押し付けよ」


 人間は裏切られる。

 生きていると、どうしても世界に場所を借りなければならない。

 その場所を奪い合うために、人々は騙しあう。傷つけあう。

 たくさんの傷を埋めるために、信じることを忘れてしまう。

 消してしまえば、これ以上増えることはないのだから。


「…………」

 ボスは静かに、女の子を見やる。


「こいつも……いつか苦しんじまうのかもしんねえな」

 しわの深いまぶたを下ろして、瞳が悲しげに歪む。


 

 だけど、白い羽の女の子はにかっと笑って話しかけた。


「じーじ!」


 思いがけぬその言葉に、ボスは目を見開き、ハツネは思いっきり吹き出す。


「じーじ!」


 また言った。



「だっ、誰がじーじだっ! 俺はまだ四十代だぞ!」


 ボスは必死に抗議するが、少女はなおもじーじじーじと連呼している。



「……よ、よかったじゃん。嫌われてなくて」

「……笑ってんじゃねえよ」

 マフィア家業のガンを飛ばすが、爆笑中のハツネには通じない。くの字に体を曲げて、息も絶え絶えに大笑いしている。


「ちくしょう、拾うんじゃなかった……」

「何? あのコ拾ったの?」

 ハツネの質問に、ボスは目をそらして口をとがらせ、気まずそうに人差し指同士をつっつきながら、

「だって、雨の中見つめられちまったらよ……」

「あはははは! それ猫じゃん! 野良猫じゃん! あんた猫にじーじって呼ばれてるの? もう駄目じゃん! あはははは……」





 それから、少女はボスが育てることになった。

 部屋は、女房の部屋を使うらしい。

 婚約指輪をさすりながら、きっと許してくれるだろうとハツネにつぶやいた。




 △▼△∵▼△▼




「みーっ! いやーっ!」

 女の子は必死に暴れる。

 だけど、男の手がそれを許さない。


「うるせえ! すぐにすむからおとなしくしてろ!」

 力ずくで押さえつけて、手を彼女の白い肌に伸ばす。


 その手に持っているのは――泡まみれのスポンジ。


 肌にこすり付けるだけで、まるで着陸寸前の飛行機みたいな高デシベルの騒音が、少女の口から撒き散らされる。



「三日も風呂に入ってねえんだろうが! 洗ってやるだけありがたいと思え――ぶっ!」




 そののち、会合のときにあごに湿布をまいているボスが現れ、部下に「何があったんですか」と聞かれると。彼は不機嫌そうに「猫に蹴られたんだよ」とだけつぶやいたという。




 △▼△∵▼△▼




「はろ」

 楽しげに挨拶するのはハツネ。

「……ああ」

 眼にくまが浮いているボスは、ぼんやりとつぶやいた。

 この三日間でずいぶんとやせこけたように見える。、まるでミイラだ。

「……あんた、大丈夫?」

「三日三晩、寝かされねえで絵本読んだりボールで遊んだりしてみろ。いいダイエットになる」

「それは【痩せる】じゃなくて【やつれる】って言うのよ」

「いっそ暗殺されたほうがマシだちくしょう……」




 △▼△∵▼△▼




 ある日、ボスがリムジンに乗ろうとすると、窓の向こうから少女が見えた。

 窓から半身を乗り出していた。

 あそこは十階だった。


 空をもっと近くで見たいとでも思っているのか、少女は大きく身を乗り出している。

 その動きは明らかに不安定で、今にも落っこちてしまいそうだ。


「……っ!」

 ボスは気が気でなくて、リムジンに乗る間に何度もちらりちらりと窓を見やる。

 部下たちのいぶかしげな視線が痛かったが、そんなことを気にしている場合ではない。

 かといって、部下たちに年端も行かぬ女の子を閉じこめているなんてばれたらどうなるかと、これまた気が気でなかった。

  

 そして、リムジンに乗って、最後だけと窓を見た瞬間。


 見てしまった。


 少女に落ちそうになる瞬間を。


 何かが消し飛んだ。


 世間体とか秘密とか、そんなものどうでも良くなっていた。

 自分でも驚くくらいに早い動きで、だけど現実にはひどく緩慢な動きで、それでも年老いた体を必死に動かして、男はリムジンから飛び出していた。


 女の子が落ちるだろう場所――ゴミ捨て場に勢いよくダイブした。





 それと背中が熱くなるのは、ほぼ同時。


 のちの話では、リムジンの下に爆弾が仕掛けられていたらしい。


 部下たちは、どうして気づいたんですかと疑問を抱かずにはいられなかった。その爆弾は、それほど精巧なものだったのだから。



 一方のボスはというと。


「知るか」


 ひどく不機嫌そうだったのだとか。



 ――あのあと。

 ゴミ捨て場に飛びこんだあと、少女はいったいどうなったのか。

 簡単だ。

 少女の背中に生えているのは何だと思う?

 なんてことはない。落っこちる前に飛べばいいのだ。


 ――生臭いゴミ捨て場に埋もれて、俺は何をやっているんだ。

 思わずボスは、心の中でそう愚痴ぐちっていた。


「……?」

 その額にひらひらと、何かが落ちてくる。

 それは雪のようにも、柔らかい桜のようにも見えた。


 落ちてくるにつれて、そのシルエットがはっきりとしてくる。


 細いうちわみたいな形。

 それは彼女のしろい羽根。

 

 額にくっついたそれを、ボスは指でつまみあがる。

 けがれを知らぬ純白の羽根は、色鮮やかな孔雀のそれよりもよほど美しい。


 手にした羽根を白い太陽にかざして、雲のように浮かべてみる。

 


 ――ケーキでも買ってやろうか。

 



 △▼△∵▼△▼




 ボスはうろたえていた。

 少女がのどを詰まらせていたのだ。

 顔を真っ赤にして、息も絶え絶えに苦しんでいる。


 どうにかしたいが、医者は呼べないし、救急箱の場所も知らない男に何ができるというのだろう。

 白い羽根がまるで枯葉のように散乱していて、ひどく痛々しい。

 こんなときに頼れるのは――


「まったく情けないオッさんねアンタは!」


 ハツネしかいなかった。


 ボスは彼女を見るや、ほっとしたような顔になり、そして悲痛に顔をゆがめる。

「おい、どうすればいいんだ! 頼む何とかしてくれ!」

 見栄も体裁ていさいもなく、大の男がすがりつく。 

 それはもはや、悪を束ねるボスの顔ではない。どこにでもいるごく平凡な父親の顔だった。


「ったく……」

 ハツネは荷物を降ろして、少女の顔を見てみる。堂々としたその姿は、どんな名医よりも頼もしく見えた。


「鼻水が詰まってるのよ。まだ口の呼吸の仕方がうまくできないんだわ」

「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」

「この子の鼻に口つけて、吸い出せばいいのよ」

「口で鼻水吸えってのか!」

 非難するボスの物言いに、ハツネは冷ややかな目線をぶつける。


「……男はいつまでも男よね」


 それだけつぶやいて――


 少女の鼻に、口をつけた。

 あとは、いたって自然なものだった。

 静かにハツネは少女から口を離し、口にたまった粘液をティッシュに吐いてそのまま捨てる。


 流れそのものなら、【性の仕事】を連想させる行動だが、行為が違う。

 それはまさしく、子供を助けようとする女性の姿だった。


  

 少女の呼吸が落ち着いてきて、疲れたかのように眠りにつく。


「これだけでいいのにね」

 静かにつぶやいて、ハツネは黒い翼を揺らしながら、少女の体をベッドに寝かせる。羽根がつぶれないように、横に寝かせて。

 

「……すまん」

 もうしわけなくなったのか、ボスは思わず頭を下げていた。


「いいわよ。男がどういう生き物かはよく知ってるから」

 この町にいたらどうしてもねと、ハツネは自虐じぎゃくめいた笑みを浮かべる。


「お前さんには助けられてばっかりだ」

 ハツネは何度か、絵本を読んだことがあるのだが、絵本の世界に引きこむ物言いはボス自身も思わず感情移入してしまったし、もので釣ってばかりのボスと違って、遊び方を工夫にして心をつかむやり方など、ハツネは子供と遊ぶコツというものを知っている。


「慣れてるのよ、あたし。――子供がいたから」


 子供が【いた】から。

 娼婦になる過程で、サキュバスは薬品によって子宮を壊されることになっている。

 だから多分、彼女はもう……。


「……そうか……」

「終わっちゃったし、あたし帰ったほうがいいかな?」

「いや、もう少しだけここにいてくれ。そのほうが安心する」

「だったら、割増料金もらうわよ」

「……充分稼いでんだろ?」

「目標額にはまだ足りないの」

「お前、貯金してるのか?」

「……まあね」

「何だ? 安定した老後ってやつか?」

「引越し資金よ」

 彼女の言葉に、ボスは面食らった顔になる。


「あたし、この町を出るの」

 それは静かに、彼女の口から放たれた。

 それだけに彼女の本気と真剣さがうかがえる。


「…………」

「何よ。はとが豆鉄砲くらったみたいな顔して」

「いや……やめるなんて思わなかったからな」

「娼婦って、世界一体力使うサービス業なのよ? さすがに死ぬときまで続けられる自信はないわ」

「そりゃア残念だな」

「……止めないのね」

「止める理由はねえよ」

「…………」

「止めねえし、手伝いもしねえよ。だからさっさとどこへでも行きやがれ。二度と帰ってくんな」

「ひどい言いようじゃ――」


「帰るなよ」

 声のトーンが、若干変わる。


「帰っちゃ駄目だ」

 まるで願うように。


「ここにいたら、いつ誰に命とられるかわかったもんじゃねえ。俺だっているこの間爆死しかけたんだ。明日生きてるって保証はねえ。鉛弾ハジキダマ喰らって泥の棺おけに入るより、布団の上で家族に囲まれて往生するのが何倍もいいに決まってる。笑って死ねなくても、笑って生きることはできるしな」

「…………」

「それはここじゃできねえよ」



 気になったことがあるのか、ハツネは問うてみた。

「……ここから抜けるならさ、ひょっとして指詰めたり上納金あがりとか払わなきゃ駄目?」

「そんな古風な趣味はねえし、金には不自由してねえよ。けど……」

 そうだな、とボスはつぶやいて、そして言った。



「絵葉書でもよこせ」




 △▼△∵▼△▼




「じーじキーック!」

「あだあ!」

 ボスの眼から星が出る。

 少女の繰り出したとび蹴りが後頭部を直撃したせいだ。かなり痛そう。


「ち、縮んだ! 寿命が10年くらい縮んだ!」

「ならもう死ぬんじゃない?」

 その場にいたハツネが冷淡にツッコむ。

「あははー。しーんだしんだー」

 何かの歌かと思っているのか、少女が口ずさむ。


「……元気なやつだな……」

 ボスがつぶやくと、ハツネが口を出してきた。

「肌が白いわね。ちゃんと外に出してあげてる?」

「バカヤロ。そんなことしたら誰かに見つかっちまうだろうが」

「馬鹿はアンタよ。太陽の光浴びせてやんないと体弱るでしょ? このコ健康管理できないんだから、あんたがちゃんとしてあげなくちゃ」

「ぐ……」


 そこへ、少女がボスの袖を引っ張ってくる。

「じーじ、これ読んでー」

「おお、絵本か。お前はこれ大好きだもんなー」

 顔をほころばせて、ボスは少女をひざに寝かせる。マフィアのボスというより、良きパパといったほうが似合いそうな光景だ。

「じーじはな、絵本読むのうまくなったんだぞー」

 声のトーンを高めに、自然な笑顔で話しかける。ここ何週間かで、すっかりほころんでいるように見えた。

 


 そこへ――




 がちゃ。



 人が入ってきた。

 少女の存在を知らない人が。


「……上納金を支払いに来たんですけど」

 

 戸惑いがちに女がつぶやく。

 彼女は【ブラックパピヨン】――この町でも有数の売春宿の管理者だ。ハツネも彼女の店で働いている。

 

「誰ですか……? その子は。まだ羽が白いみたいですけど……」

 

 女は戸惑いがちに、だけど直接的に疑問を投げかけてくる。


 誰もが恐れるボスが、年端も行かぬ女の子をひざに座らせて絵本を読んでいる。しかも満面の笑みで。

 こんなシュールな光景を、どう言い訳しろというのだ?


 どうする?

 どうする?

 どうする……?




「新しいコなの!」


 とっさに出た一言は、ハツネの口から出たものだった。


「新人ってこと?」

 女は、自分の常識の範疇はんちゅうから言葉を解釈する。 


「そう! 新人! 新しく見つけたのよ」

「まだ若くないかしら?」

「ウチのお店、7歳以上からでしょ!?」

「まあ、そうだけど……」

「大丈夫よこのコ脳みそは7歳以下だから」

「それって、まるでダメなんじゃ……?」


「とにかく気にしないで、このコはボスのお気に入りなんだから!」

 おい、とボスは抗議の眼を向けるが、かえって話がこじれそうなので声に出せない。

「もうこのコといちゃいちゃムフフの仲なんだから!」

 どんな仲だ!

「そういうことですか……」

 納得すんな!


 ふうん、と女は意味ありげにつぶやいた。


「ま、まあそういうことだ」

 何とかボスとしての体裁を守りながら、引きつった顔で女から上納金をひったくる。

 そして、ちょっと来いとハツネを呼んで部屋の外に呼び出す。



「おい、なんだアレは?」

「――や。ああいうことにしておけば怪しまれないでしょ?」

「俺が怪しいオッさんになっちまったじゃねえか!」

「いいじゃない。ちょっとミステリアスで」

「ミステリアスのミの字もねえよ。大体何だムフフって――」



 気づく。

「……?」

 ボスは、自分の部屋へ行ってみる。


 開けてみて、気づいてしまった。

「いない……」


 そう、いないのだ。

 女の姿が。そして少女が。




 △▼△∵▼△▼




 リムジンが走る。

 運転しているのは、運転手ではない。

 ボスがその手で運転していた。ハツネが止めるのも聞かず飛び出したのだ。


 女はどこへ行った?

 女は売春宿を経営する人間だ。

 日が沈み始めた時刻。

 売春宿の書き入れ時はまさに今からだ。


 だとすれば、経営者はどこへ行く?

 ――自分の城だ。




 ボスはリムジンを乱暴に乗り捨てて、ブラックパピヨンの絨毯じゅうたんを歩く。

 いらっしゃいませと愛想を振りまく店員も、体を引き絞ったコンパニオンに眼もくれず、ただ前に進む。

 暗幕をピンクやグリーンの派手なライトが踊り、うるさい音楽が鼓膜を揺らす。


 だけどそんなものはどうでもよかった。 

 何度も浮かんでは、かき消している可能性を嘘だと振り払いたくて。

 ただひたすら歩いていく。


 嘘だ

 嘘だ。

 嘘だ。


 そして観音開きの扉を開ける。

 そこは、ここに入った売春婦が最初に入る部屋。


 嘘だ。

 嘘だ。

 嘘だ。

 嘘だ。


 売春婦が仕事を教えてもらう場所。

 売春婦が教えてもらう仕事といったら――

 

 扉を空けた瞬間、彼は気づく。

 進んでいるのではなく――前に逃げていたのかもしれないと。



「――っ! どうしたんですか? 何のよ……」

 女が声をかけるより先に、ボスは彼女を押しのけて、そこにいた男を殴り飛ばした。


 ベッドの上にいた男は、明らかな敵意と殺意につんのめって転げ落ちる。


 その下にいた女は――

 

 白い肌にかかった白濁の液体に怯えていて、わけもわからなくて泣きじゃくっていた、まだ若い彼女は――




 ひどく濁った色の羽根を撒き散らしていた。




 △▼△∵▼△▼




 場所は病院。


 ベンチにいるのは、黒いスーツ姿の疲れきった老人と、若い女。

 いったい誰が、マフィアのボスと売春婦だと思うだろう?


「アンタ慌てすぎよ」

 喫煙用の灰皿にタバコの灰を落としながらハツネはつぶやいた。

「急いでるからって、リムジンのキー持ってる男が財布忘れる? 普通」 

「…………」

「あたしが立て替えてあげたんだから、感謝しなさいよね」

「…………」

「なけなしの貯金はたいてやったんだから」

「…………」

「……何か言ってよ」


 ついにこらえきれなくなって、ハツネが弱々しくつぶやいた。彼女だって、不安なのだ。

「ごめん。あたしのせいで……」

「お前のせいじゃねえよ。むしろ助かった」

「でもあたしがあんなこと言ったせいで――」

「お前は悪くねえよ」


 ハツネの口調は、どこか言い訳がましく――同時に必死だった。


「……時間がたてば、あの子だって忘れるから」

「嘘つくんじゃねえよ」


 ボスの口調が、一気に押し殺したものに変わる。

 それは、いろんな悪人を相手にするときでもめったに見せない殺気を含んでさえいる。

 

「俺はこの町で生まれてこの町で育って、この町の空気吸ってメシ食って生きてきたんだぞ。女がどういうあつかい受けるかくらい百も承知だ」


 すこしの間を置いて、ボスはつぶやいた。


「……一生消えねえ傷だってこともな」


 背中を曲げて、ひどくうなだれる。


「自分の体を他人にいじくられるんだ。楽しいわけねえよな……」


 さして大柄なわけでもない彼の体が、さらに小さくなっていくようだった。



「…………」

 無言のまま、紫煙しえんくとハツネは、燃えカスの残ったフィルターを灰皿にぎゅ、と押し付ける。


 そして、唐突に言った。


「何で、奥さんの部屋、そのままにしてるの?」

「…………」


「あんた離婚してるんでしょう?」

「……戻ってくるかもしんねえだろ」

「5年も帰ってこないのよ?」

「……うるせえ」

「どうして諦められないの?」

「…………」


「アンタさ、下手なのよ……」


「…………あぁ?」


「他人を裏切るのが」


「…………」


「アンタ、見かけよりずっと弱いのよ。だから人に任せてる。人を殺すのも、薬や女を売るのも」


「…………」


「あのコを拾うとき、見捨てようなんて考えもしなかったんでしょ?」


「…………」


「育ててる間も、捨てようなんて思わなかった」



 ボスは口を開かない。


 無言の空間で、先に折れたのはハツネだった。


「悪いけど、あたし仕事あるから」


「……おい」


「ん?」


「好きでもないと男に抱かれるってのは、どんな気持ちだ?」


 女性にたずねるにしてはかなり失礼な内容だが、ハツネは気にすることなく答えた。


「日曜大工でドライバー回すときに、何か考えたことある?」


「……フットボールのタッチダウンを思い出してたな」


「あたしはベースボールよ」


 なるほどな、とボスは苦笑する。仕事なんて【作業】。そして作業なんて、そんなものだ。


「……なあ」


「ん?」


「今度、保育園を作ろうと思ってるんだ」


「ずいぶんと偽善的ね。まるで天使だわ」


「……お前、そこで働く気は無いか?」


「……あたしが保母ってガラに見える?」


「お前は誰よりも子供のことを理解している。たとえ子供が産めなくったって、お前さんは立派な母親だ」


「……ん。考えとく」


 まんざらでもないという表情と、何枚かの黒い羽根を残して、ハツネは行ってしまった。


 ――そして、彼一人になった。




 △▼△∵▼△▼



 

 ドアの開く音がした。

 最初、少女はびくりと身をこわばらせる。

 だけど相手が誰か気づいて、笑顔に変わる。


「じーじ……」

 

 ひどく、曇った笑顔だったけれど。



「…………」

 男は、彼女の手を引っ張る。

 不安にならないように、なるべくやさしく包むように握りながら。


 病院の外で待っていたのは――1台の車だった。


「……じーじ? これ、なに?」

「お前はこれに乗れ」

「……え?」

「お前を遠い世界に連れてってくれる」

「なん……で?」


 少女の顔が、歪む。今にも壊れてしまいそうに。

「じーじ、わたしの……こと、きらい、なの?」


「…………」

 男は、うつむいて、やがて決意したように、ひざを曲げて少女の目線に合わせると、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。

 

「俺はな、昔は警官になりたかったんだ。どうしてかわかるか?」

 少女は答えない。答えられない。

 だから答えるのは、男しかいない。


「正義の味方になりたかったからだ」


「…………」

「どうして悪いことをするんだ。どうしてみんな仲良くできないんだって。ずっとずっと考えてた。けどな、警官は悪いやつを捕まえる。時には銃で殺すことだってある。そんなの正義の味方じゃない。ただの狩りだ。人殺しだ。ほら、聖書でノアの洪水ってやつがあるだろ? 神が人類を洗い流して、新たに作り直すってやつ。どうして神や天使に、生き物を否定する権利がある? ――ああ、こんなのわからないよな。悪かった。つまりな――」



 男は、顔をゆがめて言った。


「汚れていないやつなんて、この世のどこにもいないんだよ」


 少女は、ただただ男の話を受け止めていた。

 もしかしたら、話の意味なんてほとんど理解できていないかもしれない。

 それでも、ひたむきに受け止めていた。


 彼が話しているのは、彼のすべてなのだから。


「みてのとおり俺はマフィアだ。鬼とも悪魔ともつかぬ生活だよ。弱いやつから生き血をすすって生きてる最低の人間だ。どんなに足で跳んでも、地獄からは抜けられない」


 ――でもな。希望をこめて彼はつぶやく。



「お前には立派な羽があるんだ」



 汚れたっていい。

 錆びついてしまったっていい。

 欠けてしまったとしてもかまわない。


 それでも羽ばたくことはできるだろう?

 

 だから飛んでくれ。俺のリムジンが吹っ飛んだあのときのみたいに。

 どんなことがあったって、力いっぱいがむしゃらに飛んでくれ。

 

 そんな願いをこめて、男は少女の肩をつかんでいた。



「汚れるのは悪いことばかりじゃないぞ。たくさんのことを覚えて、たくさん知って、誰かに教えてやれるし、誰かを助けることだってできるんだ」

 たとえば、ハツネのように。



「お前ならなれるんだ。――幸せに」



 車から黒服の男たちが出てくる。男が雇った集団だ。

 マフィアとは何のつながりもないし、口止め料には色をつけて支払っている。何より、少女の存在を知っている者はほとんどいないのだ。

 何を心配することがある。


 不安なんてない。

 少し、少しだけ――寂しいだけだ。


 ――時間だ。



 ぽんと、頭をなでてやる。

 さらさらと細い髪が肌をなでる。


 この時間が永遠に続けばいいのに。



 だけど現実は無常で冷酷で――そして勤勉だった。


 男たちが少女を捕まえる。

 少女はわけがわからなくて、言われるがままに後部座席に案内される。

 不安になった少女は窓を見やる。


 窓に映る男の顔は――

















 そのまま、車は二人を引き離していった。


「…………」

 男は、さよならは言わなかった。

 手を振ることもなかった。


 ずっとずっと車を見つめていた。

 小さくなっていく車を。

 車が地平線の向こうに溶けていっても。

 ずっとずっと……。




 △▼△∵▼△▼





 それから、ボスはマフィアの世界に戻っていった。

 前と何も変わらない、暴力に満ちた世界。



 変わったことがあるとすれば、彼は街づくりに強く貢献するようになったのだそうだ。



 それから、

 彼の机には、ときどき絵本が転がっていることがあるのだという。

 その絵本にはなぜかしおりが挟まっている。ほんの10ページそこらの本なのに。

 しおりは今日も風に揺れる。



 どこから拾ってきたのか教えてくれない――真っ白い羽根で作ったしおり











 ……じーじ。


この小説は、聖なる写真先生の企画された「写された聖域第一弾・鬼にも照明を」に影響されて作った作品です。

「うわぁこんな企画あったんだ」とはしゃいだのもつかの間、もうとっくの昔に募集が終わっていたことに愕然とし、作品を読んで面白いなと思いながら、「せめて書こう」と思いついて書き上げたのが、この小説誕生のきっかけです。


よって、本作品は企画と何の関係もありません。

ですが、確実のこの企画に触発されて動き出したことは否めません。

自分も、この企画のように、誰かの心を突き動かせるように――かくありたいと思わせられました。


……とりあえず、これからはちゃんと開催企画を事前にチェックしよう。うん。



企画参加作品ですので、【鬼にも照明を】と入力することで、他の作者さんの参加作品も見ることができますよ。

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― 新着の感想 ―
[一言] どうも、連載を放置して企画に参加したこぬか雨です(笑) いいんだ! 第二部はちょうど終わったから! ……私事は置いておいて。 話はとてもおもしろかったです。悪魔の中でもサキュバスって結構好…
2009/01/10 13:58 退会済み
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