わたし屁になるわたしって
唐突に人恋しくなってわたし、凍えるような外気の早朝から駅のホームで満員電車を待っていました。人が疎らな始発電車は見送ります。次の電車も、その次の電車も首をふって見送り、ようやく人が群れだした電車がやってきたので、そろそろ乗り込もうか迷ったけれど、そこはぐっと我慢して次を待つことにします。気付けばホームに多くの人が集いだし、これは満員電車の予感! とわたしは胸をときめかせ、今か今かと待ち、こがれ、待ちわびていると、遮断機の音ともに満を持してやってきたのは、夢にまで見た満員電車、やや膨らんだその外観からもその満員具合がよく分かります。窓ガラスからうかがえる車内にも折り重なり合うように居並んだ人々の姿が! 待ち望んだ場の登場にわたしは瞳をらんらんとさせ、焦らすようにして開く扉をじっと見つめます。
開かれた扉のその先には、密着して殺伐とした空気を醸成する人々、その威圧的な視線、彼らはわたしを向かい入れてくれるでしょうか。少しだけ不安になりましたけれど、このまま独りホームに残されてしまうことだけはいやだったので、勇気を出して、えいやっと電車に飛び乗りました。
すぐ背後でみッしゃりと扉が閉まります。車内の熱気は凄まじく、息をするのもやっとでした。わたしは人をかき分けながら少しずつ移動し、どうにか落ち着く場所へと行き着きます。
そんなわたしにお構いなしに電車は出発します。カーブに差しかかる度、寄り集まった人々はまるで一つの群れのように一斉に左右にうごめき、わたしも彼らの真似をして一緒になって左右しました。それがなんとも居心地が良く、わたしはようやく社会の一部位になれたような気がしたのでした。
薄い酸素のまどろみに包まれながら、隣の男性に感付かれない程度に重心を預けました。彼はもたれかかられていることもしらず、スマートフォンでゲームに勤しんでいます。電車の振動に合わせて肩口に軽くほおを擦りつけても、彼は気付かないでゲームに夢中です。
次にわたしは前面にいた初老の女性に上体を預けました。彼女は体をゆすり、自分の存在を主張しましたが、わたしも押されて大変なんです、と申し訳なさそうな顔をして、遠慮なく彼女にのしかかります。
そのようにして、前後左右の人々に体を預けていると、ふと背後の人と臀部が密着しました。たいして気にも留めませんでしたが、どうにもその人は様子がおかしく、もぞもぞと尻を動かし、まるで何かの準備をしているようなのです。わたしはもしやと思い、離れようとしましたが、その尻はすでにわたしに狙いを定めたかのように圧着し、どこへずらそうとも逃がしてもらえませんでした。
天にも祈るような心持ちでしたが、ついにそのときが来てしまいました。相手の尻が小刻みに揺れ、その振動が、ふっと、一瞬止まったかと思った途端、ぷっと、堪えていた笑い声をもらしたかのような屁の音が放たれたのでした。
放屁の音色はささいなもので、電車の走行音によって簡単にかき消されてしまいましたが、屁を押し付けられた恥辱は、そう易々とうち消えるものではありません。わたしは犯人を捕まえてやろうと背後を振り返りましたが、そこにいる人々の誰が屁主なのか皆目見当もつきません。でもわたしは諦めません。かがみ込んで鼻を澄ませ、屁の残り香から犯人を追います。スニーカー、ヒール、革靴を押し退けながら人々の足下の隙間を懸命にかいくぐり、鼻孔を限界にまで拡張させ嗅覚を鋭敏にし、足の臭気に紛れて痕跡を消そうとする屁を追跡します。見失いそうになれば、そこにある尻に鼻を押し付けて、嗅ぎ取り調査をします。
お前が犯人か?
違います!
そうか! 行って良し!
そうして、あれでもないこれでもないと試行錯誤しながらも少しずつ候補を減らしていき、ついに最後の一人にまで絞ることができました。
わたしの鼻が確かならば、犯人は間違いなくあの女子高生です。すました顔でスマートフォンをいじっていますが、絶対にそうです。さぁどうしてやりましょうと、わたしは仕返しの方法をあれこれ考えましたが、この恥辱は全く同じ方法でなければ晴らせないと思いました。
折り良く電車が大きく揺れ、それに乗じて、かがみ込んだ姿勢から立ち上がり、素早く女子高生の背後に陣取ります。そして、猛禽の足爪のような俊敏さで相手の尻を尻で鷲掴みました。
女子高生は驚いたようでしたが、このような接触は満員電車では日常の茶飯事なのであまり気にとめていないようでした。ふふ、とわたしは不敵に笑い、その笑みに続けるようにして下腹に力をこめ、放屁! 渾身の! ぶふぉあおおおふふぉおお、ぶりてぃっしゅ、ぶりてぃっしゅ、うっほっほほうっほ、どりゅぐろぞわそんぶぶもはらすめんとぉおぉ! という音が車内に響き、いいえ、轟き渡りました。
ま、まさかこんな豪快に?! と乗客は耳を疑っている顔ぶりでしたが、その疑いを晴らすかのように純正濃厚な香りが車内に行き渡り鼻を突きます。豊満高雅で不遜な芳しさに思わずまろびりそうな人々を余所目に、わたしはすぐさま大声で言い放ちました。
「この屁こき野郎がぁあ! 女子高生だからって容赦しねぇぞ、おい! この野郎! 朝っぱらからかましやがって! あ? 手前ぇは自分の屁をひき立てコーヒーの香りと勘違いしてんのか、えッ? どうなんだい? え? どおうなんだあいぃ?」
顔を白くし視線で周囲に助けを求める女子高生、それでもわたしは手を抜かず彼女を果敢に責め立てます。
「随分と豪快だったじゃぁねぇか! そんなにたまってたのか、え? すっきりした顔しやがって、あんたの屁の所為でどれだけの人に迷惑をかけたのかぁ分かってるのかい? 分かってぇいるのかい?」
羞恥に震えて反論できない女子高生をいいことに、わたしは口早まくし立て、放屁の責任の所在をすべて押し付けます。
時を忘れるほど罵倒を続け、ようやく興奮も冷め、口先も疲れてきたので息を吐いたわたしは、一仕事終えたあとの清々しさで、車内を見渡しました。
そこには、まるでわたしを汚物のように見る乗客たち。
車内は緊迫した空気が張り詰め、全くもって思わしくない状況でした。女子高生は泣きじゃくり、近くにいたおばあさんが必死になだめながら、鋭くわたしを睨みつけました。これ以上何か口走ろうものなら、一気呵成の一斉射撃で滅多打ちに合いそうな緊張感がみなぎり、今にも車内ははち切れそうです。
この状況をどう切り抜けたものかと思案していると、電車が駅に着き、アナウンスが流れて扉が開きました。険悪な空気に押し出されるようにして車外に放り出されてわたし、ひとりホームで満員電車を見送ります。
あの電車はどこへ向かうのでしょう。あそこに乗った人々も、いずれはどこかで降りるのでしょうか。それとも、ずっとあの車内にいるのでしょうか。腸のような線路をたどりながら、一日中ぐるぐる、ぐるぐると。その途中で降ろされたわたしって、もしかして?
文学フリマの会場で書いていたものを修正したやつです。
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