議論は感情にコントロールされている
例えば、Aさんがある人気作品Xを読み、その作品をとても程度の低い、つまらない作品だと感じたとしよう(頭の中で一つないしは複数、具体的な作品を思い浮かべてみてほしい)
Aさんはその作品Xが「人気作品」であることを妥当な評価ではないと思い、その作品がいかにダメなのかをとつとつと、公に向けて語ったとする。
一方、その人気作品Xのことが大好きなBさんが、そのAさんの言論を読んだとする。
その言論をしたAという人物は、作品Xの良さのことを何も分かっておらず、彼のくだらない思い込みから、作品を延々と貶していた。
それを見たBさんはムカッとして、このAとかいう何も分かってないクソ野郎を言論的にぶっ潰してやろうと、その言論に対して反論を行なった。
さて、この議論らしきものは、どこに収束するだろうか。
賢明な読者諸氏はお気づきのことと思うが、だいたい、A・B両氏による不毛な罵り合いに帰結する。
これはなぜかと言えば、どちらも議論をしているようで、議論をしていないからだ。
Aさんの目的は、作品Xの評価を、自分が妥当と考える水準まで貶めることにある。
Bさんの目的は、ムカつくAさんを言論的に叩きのめすことにある。
そもそも最初から、議論の目的がかみ合っていない。
この際、作品のどこが良い悪いという話は枝葉末節でしかなく、そこに関する議論はおおむね無意味である。
なぜなら、BさんはAさんを叩きのめすことが目的なので、一つの論法を潰されても、別の論法を持ち出してAさんを叩きのめそうとするだけだからだ。
そして、やがてAさんも、作品評価に関する冷静な議論ができなくなる。
Aさんを叩きのめすことを目的としたBさんが、議論の中にAさんに対する人格攻撃をちょいちょい混ぜ込んでくるからだ。
やがて、人格攻撃されたAさんは、Bさんに対して人格攻撃を仕返さないと気が済まなくなる。
なおこの話、一見Aさんは真っ当なように見えるが、自分の好きな作品を貶されたファンが腹を立てて攻撃してくるという、世間の当たり前の摂理を視野に入れずに作品を貶しているならば、Aさんも相当の阿呆である。
要はこの話、「人をムカつかせる」という観点で、先制攻撃を仕掛けているのはAさんなのだ。
そう思ったとしても、それを公に向かって表現していなければ、両者ともムカつくような想いはせずに済んだということである。
(一応付け加えておくと、「だから作品を貶してはならない」とは言っていないので注意。ここで言及しているのは、そこにはそういった因果関係があるのだ、という点までである)
ところで、「日本人は議論が下手だ」という話を聞くことがある。
僕はそれは、日本人のほとんどが、ディベート(教育ディベート)の経験をしていないからではないかと思っている。
教育ディベートとは、自分の本来の主義主張とは関係なく、特定の立場に立って、相手方の主張を打ち破るための訓練である。
例えば、原発に賛成か反対かという問題がある。
これに対しては、日本人各自、何らかの自分の考えを持っている人が多いだろう。
教育ディベートでは、本来は原発反対派の人が、その討論会に限って賛成派の立場に立って、反対派の意見を論破するという試みを行なうことになる(場合がある)
もちろん、その逆もある。
これを経験しておくと、自分の意見や主義主張をだいぶ客観視できるようになると思うのだが、日本の教育では――少なくとも僕は、そういう教育を受けた記憶がない。
自分の普段の主義主張を反対側に回って見てみたことのない日本人は、自分の主義主張を、絶対的に正しいものだと前提してしまう傾向が強いのではないか。
米国ではこの教育ディベートを、義務教育でやるのだと、小耳に挟んだことがある。
なるほど、日本人が相対的に議論下手になるわけだと、納得した次第である。
米国は正義の国というイメージが強いが、存外それは、本当は相対的なものであることが分かっていながら敢えて行なう、確信犯(誤用)的パフォーマンスの意味合いが強いのかもしれない。
もしくは、きちんと教育を受けている知識人層と、そうでない大衆層との知的格差が激しいのかもしれないが……。
さて、僕は真っ当な議論をするためには、あらかじめその議論に「ルール」を設ける必要があると考えている。
具体的には、こちらのサイト(↓)の内容(特に「2.議論の種類」)が素晴らしくて、僕はほぼ全面的にこちらの内容に賛成の立場だ。
議論のしかた
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/software/giron/index.html
議論に勝ち負けを求めるなら、勝ち負けをジャッジする審判(観客)を用意しなくてはならない。
桁外れの人格者でもなければ、議論を行なっている当事者に、正当なジャッジ能力などとても期待できないからだ。
ジャッジを用意しない「議論らしきもの」は、そこに意見対立がある場合は、おおむね生産性のない醜い罵り合いに帰結する――というのが、僕の経験則である。
もしそうでないのに、建設的な議論と思えるものがあるとすれば、それは議論の勝ち負けを決めない、「意見交換」であろうと思う。