感染
森由美が男遊びをしているらしいという噂話を俺にしたのは、立石望だった。望は俺の恋人で高校時代からの友人でもある。望は「高校を卒業してから二年、変われば変わるものね、あの地味な子が信じられない」とそう言った。侮蔑なのか嫉妬なのか計りかねる口調で、複雑な思いがそこにあるのが容易に読み取れた。
森由美は高校時代は、いじめられっ子だった。男からも女からもいじめられていたが、より強烈に彼女をいじめていたのは女達だ。首謀者は立石望である。何故なのか理由は知らないが、望は森由美の事を毛嫌いしていたのだ。その頃から俺と望の関係は“いい感じ”だったから、そのいじめには俺も付き合った。男達の中じゃ、多分、一番いじめたと思う。森由美は地味な女で、引っ込み思案で、いくらいじめられても怒ったりしなかった。誰と話すのにも小さな声で、仮にいじめられていなくても男にはモテなかっただろう。だから俺には森由美がどんな風に男と遊んでいるのかが想像もできなかった。
そんなある日の事だ。突然に、女から話しかけられた。
「野戸君。久しぶり」
薄いエメラルドグリーンのワイシャツとスカートを着た爽やかな印象の女で、それなりに美人だった。漂ってくる清潔感が、好印象だった。
話しかけられて、俺は“こんな女と知合いだったっけ?”とそう思って、少しの間の後に気付いた。
“あ、こいつは森由美だ”
と。
男と遊んでいると聞いたから、もっと派手な服装を想像したが、どちらかと言えば真面目そうに思える。まぁ、こういうタイプの方が意外に男から好かれるものだが。
確かに見違えた。高校時代の森由美からは考えられない。これならかなりモテるだろう。だが、それから冷静になると、俺はそれも違うのかもと思い始めた。
高校時代は“いじめられっ子”というレッテルを貼られていたから、森由美は駄目に思えていたが、本当はあの頃から意外に可愛かったのだ。人間ってのは単純なもので、その程度のバイアスで簡単に美醜の感覚が変わるものらしい。
「少しだけでいいの。話せない?」
森由美はそう媚びるような視線で、尋ねて来た。何か様子がおかしい。“男遊びをしている”。望から聞いた噂話を思い出す。もしかしたら、そういう事なのかもしれない。
「――あの頃は困ったわ。皆、瞬く間にわたしを嫌いになっていって。まるで、何かの病気に感染しているみたいだった」
一緒に飲んで話しながら、彼女はそんな事を言った。
「まぁ、な。悪かったと思っているよ。何というか、雰囲気に流されちまって。ああいうのは、なんてぇか集団心理現象なんだな」
俺はてきとーにそう返した。すると、少しふて腐れた顔で彼女は「本当に悪いと思っているの?」とそう言い、その少しの間の後でこう続けた。
「わたしね、野戸君の事が好きだったのよ?」
憂いた表情。
“来た”と、俺はそう思った。やっぱり、こいつは俺を誘ってやがったんだ。
「そいつは悪い。気付いていなくて。もし気付いていたら……」
そう言いかける俺を手で制すると、森由美は微笑みながらこう告げた。
「ね、今夜、良いでしょう?」
断る理由は何処にもなかった。俺は「ああ」とそう頷いた。
森由美が俺の事を好きだったというのは嘘だろう。恐らく、この女は自分をいじめていた立石望に、男を寝取る事で復讐をするつもりなのだ。しかし、俺にはそんな事はどうでも良かった。そんな理由で、いい女と寝られるのならラッキーだ。もしかしたら、浮気をばらされるくらいはするかもしれないが、知らぬ存ぜぬで通せばいくらでも誤魔化せる。
そして、その晩俺は、森由美と寝たのだ。男と遊んでいるって噂は本当だったのか、彼女のセックスは粘着質で濃厚だった。まるで俺の肉体に自分の液体を浸み込ませようとしているかのようだった。それからも二、三度俺達はセックスをしたのだが、それ以上の深い関係になる事もなく、直ぐに会わなくなった。仮にこれが復讐だとしたなら、なんとも可愛いものだ。望に浮気をばらされるような事もなかった。
しかしだ。彼女と最後に会ってから、4週間ほどが過ぎた頃だった。身体にしこりが出来たのだ。なんだろう?と思いつつ、放置していると今度は全身に発疹が現れた。どうも望にも同じ症状が出ているらしい。怖くなった俺は病院に行って直ぐに検査を受けた。すると、なんと“梅毒”で陽性反応が出てしまったのだ。
“まさか……”、と俺は思う。
その結果が出たちょっと後に、望から電話がかかって来た。彼女は酷く怒っていた。
「ちょっと! 病院に行ったら梅毒の陽性反応が出たのだけど? どうしてわたしが梅毒にならなくちゃいけないのよ! わたしはあなた以外の男と寝てないんだけど?」
俺はその電話を受けて唖然となった。
まさか、森由美は…… あの女は、梅毒を俺に感染させる為に俺と寝たのか? 俺と望に対する復讐の為に。
「森由美とあなたが一緒にいたって話を聞いたわよ。あんた、あの女と寝たんじゃないでしょうね? どうなのよ? さっさと答えなさいよ! このゲス野郎!」
怒り狂ったまくしたてるような望の声が、携帯電話の向こう側から聞こえて来ていた。
参考文献:ニッポンのアホを叱る 辛坊治朗 光文社
梅毒は放置すると、死の危険すらある病気なので、症状に心当たりのある人は直ぐに病院に行きましょう!
……最近、梅毒感染が広がっているというので書いたのですが、警戒を訴える小説としてはどうなんだ?と自分でも思ってはいます。