53 悦楽
王都ゲーケルン。貴族街にて。
幾重にも雨雲が重なった夜空に、雷鳴が轟いた。
ティアの鳩尾に、化物の拳が深々とめりこんでいた。
食いしばった歯の隙間から、血がこぼれ落ちていく。
「はぁ……はぁ……」
ティアは全身を回転させて腕を振るも、力も速度も足りず、かすりさえしなかった。化物は距離を味方につけながら、打っては離れを繰り返す。
精神と肉体を削られ、ティアは限界を迎えようとしていた。
──息が、苦しい。
立っているのがやっとの状態だ。
それでも、再び襲ってくる拳に、上半身を反らして避けた。両足で相手の腕に飛びつき、身体を振って脇に挟み込む。その関節を固定した。
「ぬ……あぁ!」
腕を取ったまま、全体重をかけた。しかし逆に化物によって軽々と持ち上げられ、そのまま地面に叩きつけられた。
視界に火花が散った。後頭部にぬるりと濡れる感覚がひろがっていく。
力なく地面に仰向けになったティアの、かすれた視界のなかで、化物の銀の瞳が冷然とこちらを見下ろしてくる。
「もはや動けまい」
ひろがっていく血だまりに身を浸しながら、白々と肌理細かな肌が、はだけ、破れた服の裂け目からのぞいている。
老人の姿をした化物が、視線を上向かせた。
周囲には、『城へと続く深い森』の黒い霧が、消えることなく渦巻いている。
銀の双眸が、ふたたびティアを見下ろした。
「霧の内に閉じ込めところで、何の意味もない」
化物の足元で、ティアがひゅうひゅうと呼吸を喘がせている。
誰が見えても、虫の息なのは明らかだった。
「簡単には殺さぬ」
その言葉に、ティアの表情が歪んだ。身をよじるような素振りを見せる。
「怖いか、子鼠」
恐怖に慄いている、化物はそう思ったに違いない。にもかかわらず、不可解にもティアは口の端を上げた。弱々しくも、笑う。
化物は屈み、ティアの顔を掴んだ。それを嫌がるように、ティアがわずかに首を振った。男は構わず、掴んだ顔の、後頭部を地面に打ちつける。
それでも、ティアは笑うのをやめない。
「ア……ハ」と笑い声をこぼし、
「霧……より……」
ティアはパクパクと口を開く。かすれ、木枯らしのような呼吸音とともに、苦しげな声が漏れて出る。
「蝙蝠に……なる……ほうが……」
ぎょろり、とティアの瞳が化物を向いた。
「……力が……いる」
しかし灰褐色の瞳に力は戻らず、死に体であることに間違いはない。
「何をたくらんでいる?」
「ア……ハァ……」
訊かれたティアの瞳が、ゆっくりと細まっていく。
「……時間……だ」
その言葉に重なるように、何かが飛来する音が聞こえた。
「羽音?」
化物も気づいたらしく、黒い霧を仰ぎ見た。
「あれは?」
不可侵の黒い霧のむこうから、巨大な羽を持つ黒い影がこちらに飛んでくる。
それが、化物の上空でぴたりと止まった。
「蝙蝠?」
形は巨大な蝙蝠で間違いないはずだが、その顔には眼も、口も、何もなかった。のっぺりとした奥行きのない影が、翼を動かすでもなく宙に張りつくように静止している。
それが、突如として大口を開けた。化物めがけて急降下してくる。
「ぬぅ!」
影の咢から逃れるため、化物は跳んで距離を取った。
化物を追い払った蝙蝠は、ギチギチと耳障りな音を立てながら、形を変える。
次に取った形は、人型の──地に倒れたティアとまったく同じ影だった。
先ほどの蝙蝠の名残とばかりに、ぽっかりと暗黒の口だけが開いている。
その口が半円を形作ると、「ギャ、ギャ、ギャ!」と、いかにも陽気な、けれど人ならぬ笑い声を上げはじめた。銀髪の化物を指さし、これ以上おかしいことはないといった様子で笑い狂う。
「子鼠が……!」
化物は忌々しそうに吐き捨てる、自分が虚仮にされていることはわかっているのだろう。
わかっていながら、化物は動かない。いや、動けない。この笑い狂っている影から、自身をはるかに凌駕する黒い力を感じているのだろう。
後ずさった化物の背を、周囲の黒い霧が壁となって弾く。
逃げることができないことに化物はようやく気がついたらしい。ティアが霧を張ったのは、すべてこの時を見据えたうえでの行動だったのだと。
化物はただ呆然と立ち尽くしている。
一方の影はいつの間にか笑うのをやめ、ティアの傍らで手をかざしていた。
その指先から、どろりと粘着性のある黒い液体が滴りはじめた。液体は長く、細い糸のように垂れると、その下で口を開いたティアへと注がれていく。
ゴクゴクと喉を鳴らしながら、ティアはその黒い液体を飲む。
乾ききった身体に、これこそを待ち侘びていたのだといった様子で、ただ無心に。ひたすら貪欲に。
黒い液体を飲み続けるティアに対し、影はティアに分け与えるほどに小さくなっていく。
そう、ティアは補給していた。
影が持つ力を、ティアへと移し変えているのだ。
やがて、飲むのが追いつかず、ティアの口から黒い液体があふれはじめた。顔面が黒い液体にまみれ、白い肌が、黒に浸食されていくようにも見えた。
逃げようとしてだろう、化物は左右にせわなしなく首を振る。あきらかに動揺していた。
そうこうしているうちに、影がすべて黒い液体となり、ティアへと注ぎ尽くされた。見えない力に引っ張られるように、ティアが起き上がってくる。
顔にあふれた液体も、肌に滲み込むように消えていく。
立ち上がったティアの瞳は、妖しい紅玉の光を宿している。口からちろりと舌を出し、その舌先でもって、口元についた最後の一滴を舐め取った。
そして化物に告げる。
「私が城へと続く深い森を張った時点で、お前は終わっていたんだ」
ティアは化物を見もせず、たしかめるように両手を開き、そして閉じた。すでに噛まれた右肩と左手の傷は癒え、問題なく動く。
「城で蝙蝠に化けた時、追いかけてきてくれて助かった。お前に逃げられてしまうと、後事に障るから」
両手から視線を持ち上げ、化物を見た。化物は、黒い霧を背景に立っている。
「一部の蝙蝠を、別の場所に行かせていた。血を得るために。お前は、私の身体がちいさくなったことに疑問を抱かなかったのか? ただ、弱っているからとでも思ったのか?」
化物は何も答えない。ただ思考が停止した様子でかたまっている。
ティアが、歩き出した。
化物へと向かっていく。真っ直ぐ歩いているはずが、足元が軽くよたついた。強い昂揚を感じながら、ティアは笑う。
「やはり、飲み過ぎには注意だな」
笑いながら、ふらふらと近づいていく。
化物が、ティアの接近から逃れるため、跳ぼうとした。だが──
「これは……」
銀髪の化物は驚愕した。
背後の霧が腕を伸ばしたように化物を捕捉し、四肢を縛っている。
「手遅れなんだ、すべて」
こみあげてくる笑いを隠すこともなく、ティアは自分の指を唇へと持っていく。口角を横に引っ張ると、そこから鋭く光る牙がのぞいた。
「……お前は、噛むのが大好きなんだろう?」
黒い霧によって動きを封じられた化物を見上げ、ティアは腰に手を当てた。服からのぞく肌が、白く艶めいている。
「いま、とても酷いことをしてやりたい気分なんだ」
ひたひたと化物の頬を叩く。
化物は暴れ、霧の拘束を引きちぎろうと躍起になっている。
「切れないよ。お前に私の闇は切れない」
ティアが、化物の胸元に掌を押し当てた。雷に打たれたようにその銀髪が逆立ちはじめる。
「暴れちゃダメだ。もう、諦めないと」
「グォォォ!」
化物の全身から、ぶすぶすと煙が立ち昇りはじめる。肉の焦げる臭いが、ティアの鼻腔をくすぐった。
「いい匂いだ。このまま焼いてやってもいいが」
くすくすと、ティアは笑い声を漏らす。
力を失った化物の顔を、ティアは観察するように覗き込んだ。
精気のみなぎる赤い瞳と、かすかな輝きのみを残した銀の瞳。
「快楽が欲しいのか、お前は?」
両手を伸ばし、するりと化物の首裏に通した。指先が、ずぶずぶと溶け入るように化物の体内へと侵入していく。
その体内にあって、ティアは自分の指先を消滅させた。自分の血を化物の身体のなかへと流し込みながら、同時に化物の血を取り込みはじめる。
「お……おお……お……」
化物が白目を剥いた。恐怖で引きつった顔が、一転して悦びに歪みはじめる。全身が痙攣して、しまりの利かなくなった口元からは涎が垂れ落ちていく。
「どうだ? 気持ちがいいか?」
ティアもうっとりとした瞳で化物を見つめる。
「気持ちがいいのか? 三下ァ!」
我慢しきれず、ティアは叫んだ。
化物の顔を両手で掴むや、大口を開け、その首筋に思い切り牙を突き立てた。