49 港にてⅡ
民間用の港から東に移動した、崖の麓。
眼前に迫る森の向こう、ぎりぎり軍港の入場門を見通せる位置で、カホカは遠見筒を目に当てた。
「げげ……!」
レンズ越しに、ひとりの人物を覗く。
潮風にひるがえる群青色のマントと、篝火に浮かび上がる、長いストロベリーブロンドの髪。
「……いるんだよな、これが」
岩陰に身をすべらせ、カホカは「はぁーあ」とこれ以上ないくらい特大の溜息をついた。
ゆるゆるとその場に座り込む。
──最悪だ。
ふざけんな、と思った。
「誰がいるって?」
同じ岩陰に潜むディータが、訝しげな表情で訊いてくる。
「見てみなよ」
親指で方向を示しながら、カホカは遠見筒を手渡した。
ディータは岩陰からわずかに顔を出したかと思うと、すぐに引っ込んでくる。
「ありゃあ、ファン・ミリアだな……」
低い声音でつぶやきながら、しかしディータに驚いた様子はなかった。
「予想してたの? オッサン」
「まぁなぁ」と、ディータは歯切れが悪い。「いても不思議じゃねえとは思ってたが……やっぱりいたか、という感じだ」
「ジョーダンじゃないっすよ」
カホカは、うんざりした表情で二度目の溜息をついた。
「どうした? 怖気づいたか?」
揶揄するように訊かれ、カホカはちらりとディータを一瞥した。虚勢を張ることも忘れ、「うん」と、正直に認める。
「……家帰って風呂入って糞して寝たい」
「順番が逆だ。まず糞が先だ」
どうでもいいことをディータが言ってくる。
「あんだよ、もぅ!」
カホカは焦れったそうにディータを見上げた。なぜこの悲しみが理解できないのか。髪と一緒に脳味噌も剃ってしまったのか。
「ハゲのくせになんでそんな余裕ぶってんだよぉー」
「余裕なものかよ」
カホカの情けない姿にディータは苦笑する。
「だがよ。俺たちゃ、サスの兄貴を助けると決めたんだ。誰が来ようが変わりはねぇ。ここまで来てつべこべ言うのは男のすることじゃねえ」
「オッサンの心意気は買うけど、アタシは女なんだな、これが」
「いまさらイモ引く気か? オレは何度も確認したぜ」
「……せめて群青色がいるって言えよ。いーえーよぉー」
泣きたい気分でディータをにらむ。
「あほか。俺が知るわきゃねぇだろう」
「はぁーあーぁー」
カホカは溜息を繰り返し、遠見筒をもう一度受け取った。
──できれば幻であってほしい。
わずかな祈りを込めて遠見筒に片目を当てたものの、あらためて厳しい現実を思い知らされただけだった。
「嘘だと言ってよマイ・ダーリン……」
絶望とともにカホカは歌いはじめる。
「あなたは私に首ったけぇぇぇ。波止場のあなたは波のよう。二度とあなたはもどらなぁい。ああ、もどらなぁぁぁい……」
「やめろ、不吉すぎるぞ」
たまらずディータが遮ってくる。
「本気なのか、ふざけてんのか、どっちだ?」
「本気に決まってんじゃん」
カホカは遠見筒をディータの胸元に乱暴に押し返す。
「……つーか、群青色以外にもめんどくさそうなのが三匹もいるし」
鎧装束から判断して、どうやらファン・ミリアと同じ聖騎士団員らしい。
「なるほど。──どうする?」
「どうするもこうするも、なりふり構っちゃいられないんでしょ?」
「そうだ」
きっぱりとうなずいたディータを横目に、やれやれとカホカは立ち上がると、その場で屈伸をはじめた。前屈をして腕を伸ばす。
身体をほぐしながら、
「ファン・ミリアは、アタシが何とかする。ついでに他の三人も何とかできればいいけど、そこまで責任は持てない。ファン・ミリアの足止めができれば、成果は上々だと思って」
見誤らぬよう、カホカはファン・ミリアの姿を脳裡に呼び起こした。
実際に手合わせをしたわけではないので想像するしかないが、彼女が達人級なのはもちろんのこと、どれだけ注意してもしすぎる相手ではない。
「できるのか? お頭でさえ、奴には勝てなかったんだぞ?」
「オッサンたちのお頭がどんなもんか知らないけど。こん中じゃ、アタシしか相手にできそうにないんだもん。しょうがないじゃん」
準備が終わると、カホカは手足をやや広げて立つ。
眠るようにゆっくりと瞳を閉じた。
すぅ、はぁ、と一定の呼吸を繰り返しながら、精神統一をはじめる。
ディータが見ていると、カホカの両手両足、それぞれの甲の部分が、かすかな青い光を帯びはじめた。
「なんだ……?」
「貫通掌」
うすく眼を開き、カホカが声の調子を落として答えた。青い光を宿した四肢の先から、潜在する強い力が脈打っている。
「勝算があるのか、あのファン・ミリアに」
わずかな期待を込め、ディータがもう一度聞くと、
「わからない」
うつむき加減に答えた、カホカのまなざしは厳しい。その額には早くも玉の汗が浮かんでいた。
「緊張してるのか……」
思わずつぶやいたディータに、カホカはにんまりと笑い返した。
「そりゃ、もう。半端ないくらい」
それとさ、とカホカは明るい口調のまま、
「必ず、サスの兄貴ってのを助けなよ。で、助けたらさっさと逃げて。お願いだから変な気を回してこっちに来ないで」
「……わかった」
笑いかけてくるカホカの笑顔に、ディータは彼女の覚悟を見た気がした。
「勝てるかはわからないけど、負けない。アタシが、ファン・ミリアの足を引っ張ってでも時間を稼いであげる」
まだ年若いルーシ人の少女の碧眼が、爛と輝く。
「頼む」
ディータも覚悟を決めて言うと、
「帰ったら、アレが食べたいな」
ふと、カホカが指で虚空に絵を描きはじめた。四角のなかに、小さな丸を描く仕草を見せる。
「アレ?」
「そお」と、カホカは楽しそうにうなずく。
「牛乳に、凍った葡萄が入ってるやつ。アレ、おいしかった」
「なんだ、そんなもの」
ディータは拍子抜けした気分で笑う。サスを助け出すことができれば、いや、たとえ助け出すことができなかったとしても、どれほどの恩があるかわからない。
「無事に帰って来れたら、下痢になるまで喰わせてやる」




