47 老醜
背中を蹴られたティアの身体が、貴族街の屋根に打ち当たり、滑り落ちていく。その動きに楔を打つように、化物が両足で踏み抜いてくるのを、なんとか横に転がって避けた。
「く……っ!」
素早く起き上がりかけたところを蹴られ、ティアは宙へと放り出された。庭木の梢をへし折りながら、最後の太い枝に左手をかけ、地面に着地する。
右手は動かない。
どろりと、砕かれた肩から血があふれ、滴っている。赤く染め上げられたトゥニカは、ぐっしょりと重く濡れそぼっていた。
銀髪の化物は執拗なまでにティアを追ってくる。
「……コイツはいったい」
眼前に降り立ってくるその化物を、ティアは重いまぶたを支えて睨み据えた。荒い呼吸を繰り返す。血の気を失って顔色は死人よりも青白く、身体は一回りも小さくなっていた。
老執事の化物は言葉を発せず、凶悪な顔を愉しげに歪ませた。獲物を仕留める喜びに、銀の瞳を光らせ、さらに牙を鋭くさせて。
化物はティアに休む間を与えず、襲いかかってくる。
ティアは動く左手で相手の爪を腕ごと下に捌き、膝蹴りを放った。化物の顎を打ち弾き、さらに開いた喉仏に貫き手を放つ。
ぎゅる、と化物の喉が悲鳴を上げた。
──頼む。
これで決まってくれ。
そう念じながら、貫き手から化物の首を掴み直す。
灰褐色の瞳が赤く輝いた。
ティアの鋼のように硬質化された指先が、相手の首を捩じ切るように破壊していく。対する化物もティアの腕を掴んで止めようとするが、一瞬の力においてはティアが勝っている。
ティアは一歩踏み出して化物を投げ倒した。
さらに頭部を地面に押さえつけ、化物の首元を上向かせる。ティアは倒立した姿勢から、膝頭を化物の喉仏めがけて直下させた。
ごきり、と、骨の折れる感触とともに、化物の首が直角に折れ曲がった。
──これで安心はできない。
尖塔では頭蓋骨を砕いたにもかかわらず、平然と襲いかかってきたのだ。
とどめとばかりにティアは手に力を込めた。化物の首を両断するため、手刀を振り下ろす。が──
その手を、化物に掴まれた。軋んだ音を立て、ぎこちない首の動きで化物の顔がティアを向いた。口が、にたりと半円を描く。
──しぶとい、な……。
諦めが、ティアの脳裡をよぎる。
化物の首が、軟体動物のように一気に伸びた。牙を剥いた顔面が迫ってくる。とっさに顔を逸らして避けたものの、首はさらに伸び、ぐるりとティアの首を巻き込むと、たわんだ縄を引き締めるようにギリギリと絞め上げはじめた。
同時にこちらの顔面に噛みついてこうようとするのを、ティアは左手で化物の顔を掴み、何とか遠ざけようとする。
押し合い、しばらく拮抗した状態が続いていたものの、業を煮やしたのか、今度は化物の胴体のほうが動きはじめた。
砕けたティアの肩に、鋭い爪を差し込んでくる。ぐりぐりと、差し込んだ爪を掻き回す動きに、ティアは声ならぬ悲鳴を上げた。さらに手を噛まれ、振りほどこうと暴れかけたティアの足元がもつれた。ふらついた背中に木の幹が当たる。化物の重さに耐えきれず、ずるずると木の根元に落ちていった。
ティアの手に噛みつきながら、化物の顔が間近で嗤う。粘つくような、意味ありげな嗤い方だった。
「大人しく怯えておれ」
鋭い爪が、結んだ黒衣の紐もろとも、トゥニカの中央を引き裂いた。ティアの肌に触れようとする。
「キ……サ……マ」
嫌悪とともにティアの怒りが爆発した。
ティアの親指が霧散した、刹那、化物がティアから飛び退った。
木の幹から突き出た黒い槍が、つい今しがた化物がいた空間を刺している。
ティアは幹に背をもたせかけながら、よろよろと立ち上がった。
動かすことのできない両手をだらりと下げ、ティアの瞳が赤く閃いた。化物とティアの周囲に、濃密な黒い霧が生まれる。
「城へと続く深い森」
吸血鬼であるティアの技。その最後の力を振り絞って発生させた場の転換。
「……許さん」
喘鳴とともに、ティアは怒りの言葉を吐く。すでに闇の力は宿らず、灰褐色の瞳が化物に注がれている。満身創痍の身体で、それでもティアは意識の糸を失わぬよう手繰りながら、闘志を奮い起こした。
化物の大口が、より愉しげに裂き開かれた。