25 遭遇Ⅲ
話してみるとふたりは妙に馬が合った。
「せっかくなら私の家で話そう」
サティと名乗る女から屋敷に招待され、カホカも「んじゃ、遠慮なく」と受けることにした。
貴族街の、王城からほど近い区画である。
隣り合う屋敷と比べると、敷地は手狭で、母屋も小ぶりではあるものの、きちんと手入れが行き届いており、質素だが上品といった印象で好感がもてた。
玄関ホールに入ると、すぐにひとりの家人が姿を現した。黒茶色の髪と瞳を持つ、まだ若い女性である。
「ルクレツィア=タルチオと申します。この屋敷の家令を務めております」
名乗り、ルクレツィアはカホカに対して深々と頭を下げる。突然の訪問であるはずだが、慌てた様子は見受けられなかった。
そして、家令が名乗るのは、客人を迎え入れる際の貴族の作法である。
元リュニオスハート家のカホカは貴族の作法を心得ている。「ども」とだけ挨拶を返すも、ここでは自分の名を名乗らない。家令も訊かない。主が連れ帰ってきた客人に名を尋ねるのは、非礼である。家令の非礼は主の非礼そのものだとされる。
客人の迎え入れの作法に関して、大きく公式な訪問と非公式な訪問に分けられるが、今回は後者である。非公式な訪問といってもバリエーションは様々であり、幹から枝が分かれるように無数の作法が存在するため、家令は自分の主と客人の振る舞いから、どの作法でもてなすかを迅速に判断したうえ、対応しなくてはならない。
「約束通り、甘い物を用意させよう」
サティの言葉に、カホカも「うん」と笑みを浮かべる。
「では、こちらへ」
ふたりの話の内容から判断したらしく、ルクレツィアはカホカを促す。かなり機転の利く人物であることは間違いない。
主であるサティはついてこない。ルクレツィアとカホカのふたりだけである。
右手の客間を抜け、カホカはテラスに案内された。
テラスには高価そうな長椅子がふたつ置かれている。
より華美な模様の施された長椅子にカホカは腰かけ、足を伸ばした。そうすると、ちょうど午後の日差しが足先に届くくらいだった。視線をまっすぐ向けると、庭の緑と、ほころびはじめた花の蕾が春風に揺れている。
「へぇ」
カホカは感心しながら、
「サティはいい家令を持ってるね」
客人が家令を誉めるタイミング、すなわち回数は限られており、それによって客は満足度を伝える。カホカの所作は無作法そうでありながら、意外にも外れたところがない。
「恐れ入ります」
ルクレツィアはもう一度頭を下げ、
「失礼ですが」
と、恐縮した様子でカホカに尋ねてくる。
「主がサティという名であるのを御存知なのですか?」
「御存知っていうか、そう呼べって言われたんだけど、なんで?」
カホカが訊き返すと、
「主がサティと名乗ることは久しくありませんでしたので」
「そうなんだ……」
としか答えようがない。カホカには知る由もないことである。
「隠してるのかな」
地方によっては、本名を隠す文化もある、という話を聞いたことがある。
「いえ、サティが主の本名です」
「てことは、通り名のほうが有名なんだ」
「通り名、というわけでもないのですが」
ルクレツィアの回答を避ける物言いに、今度はカホカが推量しなければいけない番になった。主であるサティから聞いていない事柄を家令に尋ねるのは非礼には当たらないものの、強引ではある。
「じゃ、サティは普段なんて名乗ってるの?」
そしてカホカは強引だった。というか、いちいち考えるのが面倒だった。
ここらへんが元貴族である自分の限界なのかもしれない、そんなことを思っていると、
「ファン・ミリアだ」
そう答えたのはルクレツィアではなく、着替えを終えてテラスに出てきたサティ本人である。
ターバンを取り、ストロベリーブロンドの髪をあらわにして、サティもまた長椅子に座る。かなりくだけた格好で、七分袖のワンピースにベルトを巻いただけである。
「サティ、あなたそんな恰好で!」
家令らしからぬ口調でルクレツィアが叫んだ。
しかし当の本人は気にした様子もなく、
「これで構わないと思った。見たところ、カホカは堅苦しい作法にこだわる性格ではない。それに私に余裕がないと言ったのはルクレツィアだぞ」
「お客様の前にそんなはしたない恰好で出ていいとは言ってません!」
放っておくと口論がはじまりそうなので、カホカは「アタシは気楽な方が好きだよ」と間に入ってやりながら、
「ていうか、ファン・ミリアって、あのファン・ミリア? 嘘でしょ?」
「いや、おそらくそのファン・ミリアで間違いない」
口元に手を当て、くっくとサティは笑い声を漏らす。
ただ者ではないと思っていたが、それにしても予想を遥かに超えた大物である。
さすがのカホカも二の句を継ぐのを忘れた。
◇
梨のタルトをフォークで口に運び、
「なにこれ、うまい!」
思わずカホカはうなった。
ファン・ミリアはそうだろう、と嬉しそうに、
「ルクレツィアのお手製なんだ。彼女の料理の腕前は職人にも劣らない」
「あら、サティが誉めてくれるなんて、珍しいこともあったものだわ」
背後に控えるルクレツィアが、満更でもなさそうに笑う。
「心外だ。いつも思っている」
うんうん、とカホカも幸せそうな表情でタルトを口いっぱいに頬張る。
「ほんとにおいしいよ、これ。お店開いちゃえば?」
「ありがとう。たくさんあるから、好きなだけ食べて」
すっかり打ち解けた雰囲気のなかで、カホカは舌鼓を打つ。聞けば、ファン・ミリアは貴族風の歓待をするつもりなどはじめからなかったそうだ。それが思いがけずカホカの作法につられ、ルクレツィアはてっきりカホカを貴族の子女と勘違いし、予想外の流れになってしまったらしい。
そもそも、この屋敷には家人と呼べる人間はルクレツィアひとりだけとのこと。体裁を整えるため、客のあった場合は仕方なく家令としているが、本来は従者である。あとは国から派遣される護衛と、庭師の出入りがある程度の、きわめて質素な暮らしぶりだった。
ファン・ミリアはくつろいだ表情で庭に視線を投げかけている。
「サティって聖女なの? 神託の乙女?」
カホカが梨の食感を楽しみながら訊いてみると、
「聖女かどうかは私が判断することではないが、シィン・ラ・ディケーより神託を授かったのは事実だ」
ファン・ミリアは答えると、カホカを見た。
「私からも質問だ。カホカは何者なんだ? まさか貴族の作法を心得ているとは思わなかった」
「こう見えてアタシ、元貴族なんだよ」
「いまは違うのか?」
「いまはしがないただの旅人」
「連れと言っていた者とか?」
「そそ」
「目的地は?」
「いちおう、王都ってことになるのかなぁ。これからのことは、知らない。アタシの連れが決めると思う。アタシはそれについてくだけって感じかな」
そうか、とファン・ミリアも考える様子で、
「カホカほどの手練れを心酔させるとは、その連れとはどれほどの者なのか?」
彼女のほうもカホカの腕に気づいていたらしい。
いや、そんなことより聞き捨てならないのは──
「……心酔なんかしてないし」
ぼそり、とつぶやく。断じて心酔などしていない。するわけがない。
「なんだ、カホカは不満なのか?」
「不満てわけじゃないんだけど……」
ぽりぽりと頭を掻き、カホカは悩む。どう言えば自分の気持ちが伝わるのか。カホカ自身、ティアに対する自分の心が見えていないのだ。
その様子を見守っていたファン・ミリアが、身体をこちらへと傾けた。
「もし、その連れなる人物に思うところがあり、カホカが離れたいと考えているのなら、私のところに来ないか?」
「んへ?」
思いがけない提案に、カホカは目を丸くする。
「いや、もちろんカホカが良ければ、の話だが」
冗談で言っているわけではなさそうだ。
「アタシを雇いたいってこと? 今日会ったばかりなのに?」
「そうだ」とファン・ミリア。
「聖女の勘ってやつ?」
「そう取ってもらってもかまわない」
実は、とファン・ミリアは秘密の話を打ち明けるように話しはじめた。
「近々、私は貴族になるかもしれない。まだ確定ではないが、いまシフルという土地を戴けないか国に申請している。それが叶えば、人手がどれだけあっても足りなくなる」
「シフルって……ここからずっと西の? すっごい田舎の?」
まさかと思ってカホカが訊くと、
「そうだ。だが、誤解しないでほしい。私は強欲で貴族になりたいわけでも、領地が欲しいわけでもない」
「じゃ、どうして?」
「それは、なんというか」
ファン・ミリアはためらいがちに、
「私は聖騎士団の筆頭騎士を務めているのだが、ひとりの見習い団員がいたんだ。見習いゆえ直接の面識はなかったのだが、縁あってか、その者の最期を看取ることになった。見事ではあるが、悲しい最期だった。絶対に死なせてはならぬ者を死なせてしまったと思った」
憂いのある面持ちでありながら、見る者に荘厳さをも感じさせる。さすが聖女と呼ばれるだけのことはある、とカホカは思わずにはいられない。
「だから、せめて彼に償う方法がないかと考え続けていた」
庭を向く横顔の、瞳は過去を見つめているようだった。
「えーっと……あの、さ」
おそるおそる、カホカはファン・ミリアに尋ねる。
「その彼ってさ、ひょっとして、タオ=シフルのこと?」
その名をカホカが言った瞬間、彼女の紫の瞳がみるみる大きくなっていく。
ファン・ミリアが飛び上がるように身を起こした。
「……なぜ、カホカがその名を知っている?」
信じられないといった表情だ。
「いあ……」とカホカは顔を引きつらせながら、返す言葉を探す。
タオ=シフルは生きてます。いや、死にましたが復活しました。いまはティアという名の女になっています。その男だか女だかわかんないのがアタシの連れです──とは言えない。言えるわけがない。
「さっき、元貴族だったって言ったでしょ、それで……子供の頃に、たまたま同じ師匠に武術を習ったことがあって」
無理やり話を繋げただけなのだが、ファン・ミリアは特に不審がる様子もなく、
「では、カホカはタオ=シフルに会ったことがあるのか?」
「会ったも何も」
いまでも会ってます。奴はいま宿の棺のなかで寝ていると思います。いえ、死んではいません。え? なぜ棺で、ですか。それは奴が吸血鬼だからです。アタシも血を飲まれました。しかも必要以上に飲まれました──とは言えない。言えるわけがない。成敗されかねない。
「どのような者だったのだ、タオ=シフルは。やはり立派な人物だったのか?」
よほどタオ=シフルのことが知りたいらしい。
「立派……立派、かなぁ」
子供の頃、あまりの弱さにボッコボコにしてしまったことはあるが、残念ながら立派だと思ったことはない。ティアになってからは、その美しさに目を奪われることはあるが、それでも立派とはすこしちがう気がした。
仕方なく、カホカは考え考え、
「『タオ』とは子供の頃に会ったきりだからわからないけど、立派っていうか、お人好しって感じかも」
「そうか……」
それでもファン・ミリアは失望するでもなく、むしろ納得した様子で、
「きっと、争いを好まぬ優しい性格だったのだろう」
「まぁ、良く言えばそうなるかな」
同意しつつ、カホカは心のなかで、感謝しろよ、とティアに声をかける。タオ時代、彼が聖騎士団に入団するのをずっと夢見ていたことをカホカは知っている。聖女であり筆頭騎士でもあるファン・ミリアが誉めていたと本人が知れば、きっと喜ぶにちがいない。
その後もファン・ミリアからタオについて根掘り葉掘り訊かれ、挙句、「タオの好きな食べ物は?」とかなりどうでもいい質問を受けた時、
「なんかサティって、タオのことが好きみたいだね」
何気なく言ったつもりだった。そんな馬鹿な、と一笑に付され、だよね、とお互い笑ってそれでおしまい。
それだけのはずだったのだ。なのに。
「好き?」
カホカの予想した反応とはまったく異なり、ファン・ミリアは意味がわからないといった表情を浮かべている。
「好きとはどういう意味だ?」
「それは……いろんな意味があると思うけど」
嫌な予感がカホカの胸をよぎった。訊かなければ良かったと思ったが、時すでに遅しである。
ファン・ミリアは口を開けて何か言おうとしたらしいが、空気だけを吐いて閉じてしまう。
その後も何度か言葉を発しかけたものの、やはり言葉は出てこない。結局、何も言わないままファン・ミリアは背後を振り向いた。そこにはルクレツィアが行儀よく手を組んで控えている。
そのルクレツィアが、神妙そうな顔つきで、無言のままゆっくりとうなずいた。
「………」
再びファン・ミリアがカホカへと顔を戻した時、傍から見てわかるほど彼女の白い頬が紅潮していた。見ているカホカのほうまで恥ずかしくなるほど、ファン・ミリアは動揺しきっている。
──おいおいおい!
冗談じゃないよ、とカホカは思った。