18 ティアの道Ⅰ‐夜景
三日月が夜空の隅にかかっている。
ふと、イスラが西の方角へ顔を向けた。
遠くの声を聞くように、耳をそばだてている。
「どうかしたのか?」
「いや……」
ティアが訊くと、イスラは「何でもない」と、王都の街並みへ視線を戻した。
王都の、広場にそびえる大鐘楼の上だった。夜のもっとも深い時間にもかかわらず、街の明かりは多い。特に内門から王城へかけての貴族街は、そこら中に明かりが灯っていた。
カホカが眠りにつくのを見計らい、ティアはイスラを誘って夜の街へと出た。イスラは昼間もカホカに付き添っていたため、かなり眠そうだったが、それでもとティアが頼むとしぶしぶついてきてくれた。
ティアは塔の鐘部屋のさらに上、円蓋を支える柱の横木に腰かけていた。
尻を乗せる程度の幅しかないため、ティアは虚空へと足をぶらつかせ、一方のイスラも横木の上に胴体だけを乗せ、四肢をはみ出させている。なかなか面白味のある姿だった。
「王都か……」
ティアは小声でつぶやく。
リュニオスハートで回り道をすることになったが、とうとう自分は王都に到着したのだ。
「万感胸に迫るといったところか?」
「そうだな……」
さまざまな想いが胸に迫るのはたしかだった。
タオ=シフルとしての自分は、この王都を目指していた。
その王都でいま自分が思うこと。
「聖騎士団か……」
タオ=シフルというひとりの少年が目指した夢は、いまもまだこの王都の空をさまよっているのだろうか。
吸血鬼となった自分が、代わりに引き継いだもの。
それは聖騎士となる夢ではなかった。
シフルの民の無念が、槍に貫かれた家族の姿が、その恐怖と苦痛に歪んだ顔が、ティアがタオでいることを許さない。
──許してはくれないんだ……。
許してくれないのは、去ってしまった者たちの想いか。
それとも、自分自身の心か。
ウラスロを憎み、復讐をと望む気持ちは、ティアのものか、皆のものか。
それとも、タオ=シフルの心か。
胸の裡で黒く渦巻く想いが強まるほどに、頭は何も考えられなくなっていく。
自分がなすべきこと。
──ウラスロを殺してさえしまえば、すべてが楽になる。
そんな気もする。
「……ウラスロを殺し、化け物になった自分をも滅ぼしてしまえば、何も想い悩む必要はないのかもしれない」
ティアは顔を伏せた。
「……そうすれば、あとは静かな死が待つだけ」
「であれば、悩む必要はあるまい」
イスラの声に、ティアが顔を上げると、
「かつて私はお前に問うた。闇に乗じてウラスロを拉致し、拷問の果てに死にいたらしめれば満足か、と」
イスラは王都の街並みを眠そうに見つめている。
その質問を、ティアは覚えている。王都へ向かう旅をはじめる前、教会に近い森の泉でのことだった。
自分は答えられなかった。「わからない」と、そう言ったのだ。
その答えにはまだ、届いていない。
復讐をしたい、しなければならない。
ウラスロを殺したい、殺さなければならない。
そう思うのに……。
「──何もせず、安穏と生き残っていくために、イスラはオレを吸血鬼にしたわけじゃない」
「さもありなん」
「オレは、人の血を啜って生き延びるだけの、ただの化け物になりたくない」
自分の心を確認しながら、ティアは言葉を紡ぐ。
イスラが、溜息をつく気配がした。
「だから復讐を遂げる、ということか?」
「それ以外に、オレが生き返った理由が見つからない」
「お前は真に何もわかっておらぬ」
ティアがその言葉の意味を測りかねていると、
「馬鹿もここまで極まったかと言うておる」
嘲る口調で言われ、ティアはむっとイスラを睨み据えた。
「お前は、この王都に来るまで、何を見、何を聞いた?」
「どういう意味だ?」
ようやくイスラがこちらを見た。琥珀の瞳が涼しげにティアへと向く。
「馬鹿の貴様に言っておく。──ただひとりの人間を殺すのに、吸血鬼の力は過分に過ぎる」
やはり意味がわからず、ティアが黙っていると、
「逆に言えば、制約が大きすぎる、ということじゃ。私はお前に吸血鬼となるきっかけを用意してやったが、だからと言って誰もが吸血鬼として蘇るわけではない。むしろ、なるかならぬかはお前の素質に依るところが大きい」
「……オレの、素質?」
「他でもない、お前自身が吸血鬼となることを選び取った、ということじゃ」
「……」
「よくよく考えよ。自分がなぜ吸血鬼となったか。復讐とは、何をもって復讐とするのかを」
「何をもって復讐とするか……」
イスラの言葉を、ティアは反芻する。
しかし、ティアの思考は中断を余儀なくされてしまう。
ティアはゆっくりと、不自然な動きにならぬよう周囲に気を配った。
イスラと会話をはじめたあたりから、ずっと感じていたことがある。
「イスラ、オレの思い違いかもしれないんだが……」
気のせいかもしれないと思いつつ、おそるおそる口を開くと、
「ではないようじゃな」
「やはり、か」
イスラはとっくに気づいていたようだ。
ティアは眼下の景色を見渡した。
「どこかから視線を感じる」
先ほどから、ずっとこちらをうかがってくる視線がある。単純な好奇によるものとは思えなかった。力のある者の、あえてこちらに気づかせるのを意図した、舐るような視線だ。
「挑発しておるのう」
「イスラもそう思うか」
ティアは誘導されるように瞳を持ち上げていく。
──東。
内門よりも、さらに東。
ようやくティアの瞳の動きが止まった。
それは、王都にあってもっとも高い位置にあり、そしてもっとも明かりが密集している場所だった。
「……ウル・エピテス城」
無数の建物群と、数え切れぬほどの尖塔。
──間違いなく、視線の主はあの王城にいる。
ティアは確信して、夜風に目を細める。灰褐色の瞳をわずかに赤くさせると、ティアの視線から隠れるように、むこうからの視線が外された。
「お前が気づいたのがわかったようじゃな」
「嫌な視線だ……」
ティアは言葉に険を込める。とても暗く、陰気な力を感じた。
「さしずめ挨拶がわり、といったところかのう」
「ああ」
ティアはイスラの言葉に同意し、
「……誘い込むつもりなのか」
まるでティアに対し、城に来いとでも言わんばかりだった。
「そう決めつけるのも早計じゃな。こちらに関わるなという警告とも取れる」
「どちらにしても、あの城には何かが潜んでいる」
何か、とても不吉なものが。それがウラスロに関わることなのか、どうか。
「とりあえず、ここを離れたほうがよさそうだ」
言い、ティアは無造作に身体を背後に倒した。
そのまま真っ逆さまに落下しながら、大鐘楼の円蓋の影にティアの身体が隠れた──そう思った時にはもう、ティアの姿はなくなっている。
◇
再びティアが姿を現したのは、広場の通りを路地へと入った小道だった。
『宿への道とはちがうの』
『人に会いに行く』
『この時間にか?』
『夜行性の人だからな』
『何者じゃ』
訊かれ、ティアはすこしだけ考える。
『先生、かな。これからの自分について、ずっと聞こうと思っていたんだ』
ほう、とイスラの興味が引かれたようだ。
『お前の師匠とやらは王都にはおらぬのではないか?』
ちがう、とティアは頭を振った。
『師匠とは別人だ。先生と呼んでいたのは父上だな。オレは子供の頃に一度だけ会ったきりだが、父上に師匠を紹介してくれた人でもある。博識で顔が広く、人物鑑定にも秀でた人らしい』
実はティア──タオがはじめて王都に上ったのも、父親であるシフル卿がこの『先生』に教えを請うためだった。その日にタオは聖騎士団長のジルドレッドの叙任パレードに出くわし、聖騎士への憧れと夢を持つことになったのを考えると、人生とはいよいよ奇妙なものに思えてくる。
「イスラはどうする?」と、ティアが訊くと、
『よかろう。私も行く』
二つ返事でイスラが答えた。