6 ウラスロ=ディル=ムラビア
王都ゲーケルン。ウル・エピテス城。
降り続ける夜雨が、窓に滴をたらしている。
東宮の寝室にて、東ムラビア王国の第一王子ウラスロ=ディル=ムラビアは、裸に黒貂の毛皮をなめしたガウンだけを引っかけた姿で、長椅子に身をくつろがせていた。
室内には皓々と明かりが灯されている。
今夜はとても気分がいい。
午過ぎに使者が持ち帰ってきた、ファン・ミリアが晩餐会に出席する旨の報は、ウラスロを歓喜させた。
寝転びながら、ウラスロは軽く腕を持ち上げる素振りを見せた。それだけで、銀髪の老執事──ライオネルスがグラスに注いだ葡萄酒を主の手に持たせる。
それを一気にあおり、
「思い通りに事が運ぶのは、実に清々しいものだな」
誰に言うでもなく、ウラスロはクッションに頭を乗せ、仰向けになる。
理解できないことだが、ファン・ミリアはシフル領に固執しているらしい。もともと欲に薄いあの神託の乙女が、はじめて褒美をと申し出てきたのである。
──これを使わぬ手はない。
たいして地味もないシフル領なぞ、やって惜しいとも思わない。ウラスロにとっては自分におもねってくる貴族へ下賜するしか使い道のない土地だった。
それをファン・ミリアは欲しいという。自身は気づいていないのか、彼女が望みさえすれば大貴族にさえなれるものを、わざわざ辺境のシフルに食指を伸ばすなど、議会では逆に裏があるのではと危ぶむ声が出たほどである。
それほどにファン・ミリアは国民から絶大な支持を集めている。彼女の一挙手一投足を貴族たちさえもが注視している。
──そのファン・ミリアを是非とも手に入れたい。
ほとんど顔さえ会わせていないが、主治医によれば、父王であるデナトリウスは健康不良が続いているらしい。
思った以上に早く、ウラスロに玉座が回ってくる可能性がある。
ウラスロには姉妹と、まだ成人には程遠い幼い弟がいるだけだ。
これらが自分に噛みついてくるとは思えない。
であればこそ、それを盤石にするため、政治的な意味でもファン・ミリアを娶りたいところだ。
彼女は出自こそ卑しいものの、それを差し引いてあまりある若さと美しさがある。いや、むしろ農民出の娘と王家の長子の婚姻ともなれば、かえって人々はウラスロを褒めたたえるだろう。
身分の垣根を超えたうるわしき愛、というやつである。
ファン・ミリアを娶る楽しみは多い。
──余が女の悦びを教えてやる。
無垢なる聖女を自分の手で汚す。
そう考えただけで熱く疼くようだった。誰もがうらやみ、そして届かぬ想いと諦めざるをえない華を、自分のみが恣にする権利を持っている。
──父上が身罷れるのと同時にファン・ミリアとの式を行ってもいい。
前代未聞の椿事に、大陸中があっと驚くことになるだろう。そして国民は嘆きつつも、未来への希望をウラスロに託すことになる……。
会心の笑みを浮かべていると、寝台から娘が裸体を晒してこちらに歩いてくる。
「王子、なにか良いことでもありましたか?」
媚を含ませながら、娘はウラスロにしなだれかかってくる。
──この娘にも飽きた。
身体と伽の業は悪くなかったが、慣れてしまえば顔は間抜け面である。
「ライオネルス。彼女を『寝所』にお連れしろ」
「かしこまりました」
音もなく執事のライオネルスがウラスロの視界に入ってくる。
「寝所、ですか?」
娘が怪訝な顔で訊いてくる。寝所とはまさにいま自分たちがいる部屋ではないか、という疑問を浮かべる表情を、ウラスロはこれまで数え切れぬほど見てきた。
「ここではない」
ウラスロは優しい声音で娘に話しかける。
「実は東宮にはもっと素晴らしい場所があるのだ。お前にだけ案内させよう。余も後で行く」
「まぁ!」と、女は歓声をあげ、ウラスロに頬ずりをしてくる。おそらくいま娘の頭のなかでは国の王妃となる自分の姿が思い描かれていることだろう。
──救えぬほどにめでたい頭だ。
お前程度の女を、本気で自分が相手にするとでも思っているのだろうか。
「それと、ライオネルス」
「はい」
「次の晩餐会は七日後だ。俺の未来の妃となる者を招待するゆえ、盛大に執り行わせろ。国賓級のもてなしをせよと伝えるのだ」
「かしこまりました」
銀髪の執事は一礼をすると、娘に服を着せて出ていく。室を出る間際、娘が意味ありげな視線を送ってくるのを、ウラスロは気づかぬふりをして無視した。おおかた、自分のために晩餐会が開かれるものだとでも思ったのだろう。
しかし、娘が出席することはない。
娘がこれからどこに行くのか。
ウラスロは「後で自分も行く」と言った。
おそらく娘と次に会うのは半世紀以上、後になってからだろう。
現世でさえない。
具体的に娘が何をされるかを、ウラスロは知らなかった。行先は決まっているものの、送り出す方法はすべて執事のライオネルスに一任してある。
万事、完璧な差配を行う執事に、ウラスロは絶大な信頼を置いていた。
「拾い者だった」
ウラスロはつぶやき、そしてふと思う。
──そういえば、余はライオネルスをいつ、どこで知ったのか。
気づいた時にはもう、彼はウラスロの近辺に侍っていた。
誰彼からの紹介だったか。
まるで頭の中に霧がかかったように思い出すことができない。
考えながら、ウラスロは極上の葡萄酒をグラスに手酌して飲み干す。その芳醇な香りと舌触りを楽しんでいるうちに、すぐに些細なことだと忘れてしまった。