5 旅立ちのエルフⅢ《外伝》
「どうかなさいましたか?」
シィルは道にうずくまる男に声をかけた。
「いや、猛烈に腹が痛くなって」
「はぁ……」
そうなんですか、とシィルは気の毒そうな顔を作る。
「では、頑張ってくださいね」
そのままシィルが男から離れかけると、
「痛い、腹が痛い!」
男は不調をしきりに訴えかけてくる。
「そう言われましても……」
シィルは困った。自分は医者ではない。仮にそうだとしても、エルフと人間とでは機構もちがうだろう。打ち身ならともかく、腹痛となるとさっぱりである。かわいそうだとは思うが、自分ではどうしようもない。
「お気の毒さまです」
なるべく丁寧を心がけてお辞儀をし、再度、離れかけると、
「痛い、痛い!」
それから男は、医者に連れていってくれ、とあからさまに助けを求めてきた。
「もう。仕方がありませんね」
これも人間界になじむ訓練と思えばこそである。
シィルは男の隣にかがみ、
「肩をお貸ししますので、どうぞ」
痛がる男の腕を持ち上げ、脇の下に頭を通す。
「立てますか?」
声をかけてやりながら、男とともに立ち上がった。
「申し訳ない」
「いえ、困ったときはお互い様ですから」
とりあえず言ってはみたものの、完全に社交辞令である。
二弓を背負っている上、男に肩を貸しているため、非常に歩きづらい。それでも男に指示されるがまま医者を目指していると、
「少しずつ、痛みが和らいできました」
と、男が言いはじめた。
──その程度の腹痛で、このエルフの皇女である私に助けを求めるなんて。
呆れる思いがしたが、シィルはおくびにも出さない。
すると男は医者にたどり着く前に、「お礼がしたい」などと言いはじめた。
「はぁ?」
腹痛は? と思ったが、男はついさっきまでうずくまっていたのが嘘のように「よくなってきました」とぴんぴんしている。
「ぜひ、あなたのような美しい女性にお礼をしたいのです」
「はぁ……それは、ありがとうございます」
首を傾げながらも、シィルはまんざらでもない。人間族から褒められたのははじめてである。というより、自分が人間族の目に美しいと映るなら、案外、思ったよりも早く目的が達成できるかもしれない。それが嬉しかったのだ。
──しかしながら、この男性に褒められましても、ねぇ。
はっきり言って、目の前の男はまったく好みではなかった。青年なのはいいとして、腕には蛇らしき刺青をしているし、顔も歯抜けで、浅黒く、髪も整えていない。身なりもいい加減である。
見た目に対して、さほどのこだわりを持っていないと自認しているシィルだが、それでも、
──この男は、ない、ですわ。
そう判断して、
「体調が戻って何よりでした。では私はこれにて……」
そそくさとその場を離れようとすると、男はシィルの白い腕を掴み、
「お願いします。家訓なんです。恩をいただいたら必ず返せとご先祖様からのお達しなんです。ぜひお礼をさせてください!」
男は執拗なまでに食い下がってくる。
──これも人間族の風習なのかしら。
だとするなら、自分は礼儀知らずのエルフになってしまう。
──まぁ、女性を誘うのに男は積極的であれ、とも言いますし。
ちゃんと自分は知っているのである。女性は奥ゆかしく、そんな女性の心を男は愛の炎で溶かすべし、という人間族の秘め事についての知識を、シィルはとうの昔に習得済みだった。
「そこまでおっしゃるのであれば、やぶさかではありませんわ」
つん、と顎の先を横に持ち上げ、優雅な人間族の女を気取って告げると、
「ありがとうございます!」
と、男はあくまで下手に、シィルを店へと案内した。
◇
「あら──」
シィルは口に含んだ紅茶に、驚きの表情を作る。
「おいしい……」
思わずつぶやく。白い陶器に入った紅い液体は、馥郁とした薔薇の香りが漂っている。普段は清涼な雪解け水を飲んでいるシィルにとって、温かい飲み物というのも意外性があり面白い。
「でしょう?」
男はさも嬉しそうに話しかけてくる。
「ここの店は街でも一番、お洒落な店なんですよ。もともと店主は薬屋で、そこからはじめたんだそうです」
「はあ……」
男はお洒落とおいしいとを混同しているようだ。シィルは陶器を両手で包むように持ちながら、こくりとうなずいた。おいしいのは間違いがない。
「ですが、お洒落?」
これについてはシィルはよくわからない。たしかに店内は緑にあふれ、また道側の壁にはステンドグラスがいっぱいに貼られているため、色とりどりの光がたっぷりと射しこんでくる。
──でも、この程度なら皇宮で飲んだ方がお洒落なのでは?
木漏れ日の下で飲むほうがはるかにお洒落なのでは、とは思ったものの、感性のちがいもあるのだろう。そもそも人間はエルフ郷を知らないのだ。あえて指摘したところで詮のないことである。
「シィルさんは旅をしているんですか?」
アージュという家名を伏せたうえで、シィルという名は伝えていた。
「ええ、南を目指しています」
「南っていうと?」
「目的地は定まっておりませんが……」
星を求めて、と言いかけたが、おそらく伝わるまいと思った。
「ここから南だと、東ムラビアになりますね」
「……ええ、そのあたりですわ」
シィルは適当に相槌を打つ。飲み干した白磁の茶碗をテーブルに置くと、男は気を利かせてか、おかわりを注文しようとする。もう十分です、とシィルは伝えたものの、男は「命を救ってもらったお礼ですから」と無理に頼んでしまった。
──もうお腹がたっぷんたっぷんですのに。
今度は自分の腹が痛くなってきそうだが、断るのも申し訳ない気がした。それに別の風味もあると言われれば、持ち前の好奇心がむくむくと頭をもたげてくる。
次に出てきた紅茶を一口含んでみる。
「ね、これもおいしいでしょう?」
得意げな表情の男に訊かれ、シィルは「まぁ」と曖昧にうなずくも、
──ふぅむ。
心持ち頭を横にして訝しむ。
ハーブの香りがするのはいいが、おいしいとは感じなかった。何かが香りの邪魔をしている。水が悪いのだろうかと思ったが、それが原因なら先ほどの紅茶も同じだろう。
「それにしてもシィルさんて、すごいお金持ちなんですね」
出し抜けに質問を投げられ、シィルはぼんやりする瞳を男に向けた。
「……お金持ち?」
「いや、だって、さっき弓を買う時、魔法石で払っていたでしょう?」
「……ああ」
シィルは革帯の布袋に視線を落とした。すこし頭を下げただけなのに、ぐらり、と店内の景色が大きく揺れた気がする。
「これは……旅のために、お姉様が……」
なぜか、頭がくらくらする。
「それ、ぜんぶ俺にくれないかな。大丈夫、東ムラビアには送ってあげるからさ。──その後の責任は持てないけど」
「あなた……なにを……言って……」
まぶたが信じられないほどに重い。妖精がシィルのまぶたを掴んでぶらさがっているようだ。
「眠……い……」
まぶたが落ちきる寸前、ぼやけた視界に、男の狡賢い笑みが見えた。
──狐。
シィルの頭にそんな言葉が浮かぶのと、意識を失うのは同時だった。