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ハーフ・ヴァンパイア創国記  作者: 高城@SSK
第三章 王都編
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1 聖乙女の憂鬱Ⅰ

 東ムラビア王国。


 王都ゲーケルン。


 春雨(しゅんう)がしとしとと雨音を立てながら、窓の外の街並みをうすく煙らせている。


 コツリ、コツリ、と。


 長い睫毛(まつげ)に縁取られた薄紫色の瞳が、ぼんやりと机の上に向けられている。


 『神託の乙女』たるファン・ミリア=プラーティカは羽筆の先で机を打つ。


 はっとして手を止めた。


 ──いけない。


 と思ったが、すでに遅かった。


 貴重な紙に、インクの黒い染みができてしまっている。


「……またやってしまった」


 苦虫を噛みしめた表情で、羽筆を筆置きにかける。


 このところ、どうにも自分がおかしい。


 理由は明らかである。


 シフル領での一件以来、ファン・ミリアの心に重く圧しかかっているもの。


 強力な神気をまとった不吉な黒い狼に告げられた言葉──


 『我が妹シィン・ラ・ディケーが嘆いている』と。


 シィン・ラ・ディケーとはファン・ミリアが信奉する星の女神である。


 神話に拠れば、太陽の神バアル・パードの妃とされているが、姉妹神だと聞いたことはなかった。


 ──あの黒狼は自分の名を名乗らなかった。


 単にファン・ミリアを動揺させるために嘘をついたのだろうか。けれど、そう思うには黒狼の物言いはあまりに確信的で、それゆえにファン・ミリアは揺さぶられたのだ。


「わからない……」


 机の上で両手を組み、額をつける。


 それだけではない。


 シフル領での一件は、他にもファン・ミリアに色濃い影を落としていた。


 理想について。


 タオ=シフルについて。


 大聖堂の鐘が王都に鳴り響いた。打ち鳴らされる鐘の数が、正午を示している。


 ──もう(ひる)か。


 ファン・ミリアは胸元にかかるストロベリーブロンドの髪を払い、席を立ち上がった。


 聖騎士筆頭たるファン・ミリアには専用の個室が与えられている。部屋を出、外に控える団員たちに休むよう指示する。そうして副団長室の前を通りかかったとき、ちょうど室から白髪まじりの中年の男性が出てきた。


 自然、ふたりは顔をつきあわせる格好になった。


「筆頭もこれから昼休みですか?」


 先に口を開いたのは男のほうだった。


「副団長も?」


「ええ」


 男は柔和な笑みを浮かべ、


「よろしければ、たまにはご一緒にいかがです?」

「お供します」


 即答してファン・ミリアは頭を下げた。上司である彼に誘われた以上、ファン・ミリアは断るわけにはいかない。もっとも、彼から誘われなければファン・ミリアのほうから誘っただろう。


 ベイカー=バームラーシュ。


 中肉中背に、濃い茶の瞳。年齢は四十を過ぎている。


 ファン・ミリアとは親子ほどの年齢差がある。


 団内においては団長であるジルドレッドの次席であり、その次が筆頭のファン・ミリアということになる。


 ベイカーはもっぱら文官としての手腕を買われて副団長に抜擢された人物だった。経歴も聖騎士団の資格試験を経てはおらず、王立大学(ユニバーシティ)にて法律を学び、卒業後、軍の事務方として経験(キャリア)をスタートさせ、数年で頭角を現した。若くして軍全体の糧秣(りょうまつ)を差配する役職を与えられ、そこから財務官に栄転したものの行き詰りを感じていたらしい。そのとき、たまたまジルドレッドの目に留まって聖騎士団に引き抜かれた、というかたちで今に落ち着いている。


 どういう理由で行き詰っていたか、ファン・ミリアは知らない。知りたいとも思わなかった。本人から口にするならともかく、直属の上司の、知られたくもない過去を詮索(せんさく)するような下世話な趣味をファン・ミリアは持ち合わせてはいない。


 ちなみに、融通が利かぬほどに生真面目、かつ戦の天才、というのが団内でのファン・ミリアの評価である。


 そのファン・ミリアにとって、ベイカーは口数こそ少ないものの、穏やかな性格に加え、仕事ぶりは実直でそつがないため、好ましい印象を持っていた。決してファン・ミリアのように戦場を駆ける役職ではないが、事務は事務で心労もあるのだろうと思っている。


 他の団員同様、ファン・ミリアとベイカーは食堂の長い食卓(テーブル)に向かい合って座る。すでに他の団員たちも食堂に集まっていたが、ふたりに気を使ってだろう、離れ小島のような空間を作ってくれていた。


 ファン・ミリアには彼らの見せる礼節がありがたくもあり、また若干の寂しさもあるのだった。


 聖騎士団員になる以前は、彼女は自分の故郷であり、またその名を轟かせることになったラズドリアの農民兵のまとめ役だった。他でもない彼女自身が農家の出自である。軍としての体すら成していなかったその集まりは、粗野で無骨ではあったものの、不思議な温かさに包まれてもいた。彼女が食事を()る際には、男どもが我先(われさき)にと隣の席を争い、ファン・ミリアの気を引くため、くだらない冗談を言っては笑わせようとしてきたものだった。


 当時はずいぶんと辟易(へきえき)させられたものだったが、いま思い返してみると、それはそれで自分の大切な思い出になっていることに気がつく。


「なにやら(うれ)いがおありのようですね」


 ベイカーから訊かれ、「いえ」とファン・ミリアは苦笑し、それから団員たちを見回した。


「我が団ながら節度があるな、と」


 食堂内は驚くほど静かだった。休み時間中のため、羽目をはずしても構わないのだが、おそらく自分たちに気を使って声を落としてくれているのだろう。笑い声もひそやかである。


 ──若造なだけなのだ。


 そう思った。過去を懐かしく想うのは──隣の芝生が青く見えてしまうのは、自分がまだまだ未熟ということなのだろう。


「副団長は、理想というものをどのようにお考えでしょうか」


 さやえんどうの豆をフォークで口に運びながらファン・ミリアが訊くと、ベイカーが彼には珍しく、きょとんとした表情を浮かべた。

「どうかしましたか?」


 ファン・ミリアがうかがうように訊くと、


「失礼」と、ベイカーは微笑みを浮かべた。「我が国の英雄からそのように訊かれるとは思っていなかったものですから」


「私が理想について意見を求めるのはおかしいですか?」


 かすかに眉をひそめてファン・ミリアが訊くと、


「おかしくはありません。珍しいな、と思ったのです」


 ベイカーは穏やかに言って、


「それが貴女の憂い顔の理由ですか?」


「憂い、というわけではないのですが……少し前、ある者から、今のお前では理想を成し遂げることはできない、と言われたのです」


 シフルの屋敷で、黒狼から言われた言葉だった。


 なるほど、とベイカーは燕麦の粥(オートミール)をスプーンですくう。


「理想は果たせぬからこそ理想だという考え方もあります。実現可能であれば目標と呼び分ける者もいるでしょう」

「胸に抱き続けるものだと?」

「容易に果たすことができるようなものを──それこそ、貴女のような若さで実現できる理想を、理想と呼べるのか、ということです」


 オートミールを食べ終えると、ベイカーは手巾(ハンカチ)で口元を拭う。


「その方がどのような理由で貴女にそう言ったのか……発奮させるためか、間違いに気づかせるためか、そもそも貶めたいだけなのか、私にはわかりません。ですが、いずれにせよ、貴女があえて私に尋ねたということは、すくなからず思うところがおありなのでしょう」

「そう……かもしれません」


 ファン・ミリアはパンをちぎって口に運ぶ。


「理想について思いを馳せるのは、未来ある貴方にはとても大切なことです」


 ファン・ミリアはただうなずく。


 食事の味は、まったくわからなかった。

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